曹操(そうそう)は管輅(かんろ)の予言にあった、「明春早々、都の内に火の災いあらん」という部分が気になっていた。
その対策として夏侯惇(かこうじゅん)に3万の兵を付け、許都(きょと)の郊外に配置。加えて王必(おうひつ)を府内に入れ、御林(ぎょりん)の兵馬(近衛軍の兵馬)をつかさどらせる。やがて正月15日の夜がやってきた――。
第215話の展開とポイント
(01)鄴都(ぎょうと) 魏王宮(ぎおうきゅう)
漢中(かんちゅう)の境を防ぐため大軍を送り出した後も、曹操は何となく安からぬものを抱く。管輅の予言に「明春早々、都の内に火の災いあらん」とある、そのことだった。
「都というからには、もちろんこの鄴都ではあるまい」
曹操は夏侯惇を呼び、兵3万を付与。そして、許都には入らず郊外に屯(たむろ)し、不慮の災いに備えるよう命ずる。また長史(ちょうし)の王必を府内に入れ、御林の兵馬はすべて彼の手につかさどらせよとも。
そばにいた司馬懿(しばい)が眉をひそめ、王必は酒好きで、緩みのある男だと再考を促す。だが、曹操は王必の短所は知っているとしたうえ、長らくの忠勤を評価してのことで、そう破格ではないと応じた。
(02)許都
命を受けた夏侯惇は、兵をひきいて許都の府外に宿営する。王必は御林軍の長となり、日々禁門(宮門)や市街の警備にあたり、その営を東華門(とうかもん)の外に置いていた。
曹操にしてみれば、災いを未然に防ぐ消極的な一工作にすぎなかったものの、皇城を中心とし、彼の魏王僭称(せんしょう)以来、とみに激化していた純粋な朝臣たちには、かなり大きな刺激を与えた。
そうでなくとも曹操が魏王を称し、天子(てんし。献帝〈けんてい〉)に等しい車服や儀仗(ぎじょう)を用いるのを眺め、切歯扼腕(せっしやくわん)していた一派の輩(ともがら)は、同志の間で密々と連絡を取っていた。
その中に耿紀(こうき)という者があった。侍中(じちゅう)・少府(しょうふ)として奉仕し、常に朝廷の式微(ひどく衰える様子)を嘆き、同志の韋晃(いこう)と血をすすり合い、「いつかは」と時節を期していた。
この情勢にふたりも大きな衝動を受け、韋晃は、彼らの機先を制し、かねての大事をこの時に挙げるにしくはないと言う。そのために、もうひとり有力な味方を見つけておいたとも。
ここで韋晃は、漢(かん)の金日磾(きんじってい)の末裔(まつえい)である金褘(きんい。金禕)の名を挙げる。自分とは、友人以上の情をもって交わっているのだという。
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(金日磾は)前漢(ぜんかん)の武帝(ぶてい。劉徹〈りゅうてつ〉)の側近。匈奴(きょうど)の出身であるが、武帝に寵愛された」という。
★新潮文庫の註解によると「(匈奴は)北方の異民族。漢の高祖(こうそ。劉邦〈りゅうほう〉)に対抗した冒頓単于(ぼくとつぜんう)以来、強大な勢力を有していた」という。
すると耿紀は、金褘といえば、王必の親友ではないかと失望。それでも韋晃は自信を見せ、試みにふたりで訪問してみようと言う。
(03)許都の近郊 金褘邸
金褘の家園は郊外に近い閑静なところにあって、主の風雅と清楚(せいそ)な生活ぶりがうかがえる。韋晃は金褘に会うと、近いうち魏王(曹操)が、漢朝の大統を自らお継ぎになるのではないかと言った。
そうなれば、きっとあなたも栄職に就かれ、いよいよ官位もお進みになるだろうとし、その折には、私と友人の耿紀にも何か役儀を仰せつけくださり、日ごろの誼(よしみ)でお引き立ていただけるよう、今からお願いに来たのだと話す。
ふたりがそろって頭を下げると、その間に金褘は黙って席を立つ。そして、ちょうど召し使いが茶を運んでくると、「こんな客に茶など出さなくてもよい」と、盆ぐるみ取り上げて庭園へ放り捨てた。
ふたりがむっとして席を蹴ると、金褘は「人なりと思えばこそ、客として室に迎えたものの、きみらは人間ですらない」と言う。さらにふたりを虫けら呼ばわりし、ひとこと言って聞かせることがある、と怒鳴る。
「そもそも汝(なんじ)のごとき若輩でも、心の友よと密かにわしが許していたのは、ただただ互いに漢朝の旧臣たり、また年久しき帝のお悩みやら、朝儀のご式微を相嘆いて、いつかはこの浅ましき世を建て直し、再び回天の日を仰ぎ見んものという志を同じゅうする者と思えばこそであった」
「しかるに何ぞや。いま黙って聞いていれば、やがて魏王が漢朝の代を取ることも近いだろうから、そのときにはよき官職に取り立ててくれと? よくそんなことが漢朝の臣として言えたものだ。実に聞くだに胸がむかついてくる」
「卿(けい)らの祖先はいったい、曹操の下僕だったのか? いやしくも歴代朝門に仕えてきた人の末裔(すえ)ではないか」
「泉下(あの世)の祖先たちはおそらく慟哭(どうこく)しているだろう。そして、この金褘がかく罵る言葉を、よく言ってくれたと、せめて慰めているに違いない」
「あぁ、言うだけのことを言い、胸がすうっとした。もう用はない。絶交だ。とっとと裏口からでもどこからでも出ていくがいい」
耿紀と韋晃は金褘の真意を見届けると、心を試したことを詫びたうえ、ついに意中を打ち明ける。
「まず先んじて王必を刺し殺し、御林の兵権を我々の手に収めてから、天子を擁して蜀(しょく)へ急使を走らせ、劉備(りゅうび)に天子を助けよと綸旨(りんし。詔〈みことのり〉)を伝えるならば、曹操を討つことは決して難事でないと考えられる」と。
★『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第69回)では、金褘のほうが、この手立てを耿紀と韋晃に話している。
ふたりは金褘に、我々の上に立ち、禁門方を指揮してほしいと頼む。金褘はもとよりふたりに勝る憂いを抱いていたので、互いに手を取って朝廷のために泣いた。
以来、日々夜々、同志は人目を忍んで金褘の屋敷に会していたが、ある折、金褘がふたりに諮った。亡き太医(たいい)の吉平(きっぺい)に、吉邈(きつぼう)と吉穆(きつぼく)というふたりの遺子があるという。
★吉平が曹操によって死に追いやられたことについては、先の第95話(01)を参照。この第215話(03)では「(吉平は)国舅(こっきゅう。天子の母方の親類や妻の一族である父兄)の董承(とうじょう)と計って曹操を除かんとし、かえって事あらわれて、曹操に斬られた者だ」とあった。
たが先の第95話(01)では、「(曹操が)『斬れッ!』と怒鳴ったが、兵の跳びかかる剣風も遅しとばかり、吉平はわれと吾(わ)が頭を、階(きざはし)の角に叩きつけて死んでしまった」とあった。大きな違いではないものの、吉平の最期を「曹操に斬られた」と表現したことに違和感が残る。
いまこの兄弟を呼び、我らの計画を話してやれば、おそらく勇躍して、父の仇(あだ)を報ぜんと言うであろう。そして必ず味方の一翼となること疑いないが、卿らはどう思うかと。
耿紀と韋晃が、ぜひ呼んでくださいと言うと、すぐに金褘は使いを遣る。夜になり、若く凜々(りり)しい兄弟がやってきた。
曹操に父を殺され、世にも出ず、人の情けで育てられてきたこの多感な若者たちが、金褘らから大事を打ち明けられ、「時こそ来たれり」と感奮したことは言うまでもない。かかるうち、その年(建安〈けんあん〉22〈217〉年)も暮れた。
明けて(建安23〈218〉年の)正月15日の夜は毎年、上元(じょうげん。元宵〈げんしょう〉)の佳節として、洛中の全戸は紅い灯籠や青い灯を張り連ね、老人も童児も遊び楽しむのが例になっている。
一同は、この夜を大事決行の時と、手抜かりなく示し合わせていた。
その手はずは――。東華門にある王必の営中に火がかかるのを合図に、内外から起ち、まずは彼を討つ。
その後、すぐに一手となって禁裏(宮中)へ馳(は)せつけ、天子に奏して五鳳楼(ごほうろう)へ出御(しゅつぎょ。天子がお出ましになること)を仰ぐ。そこへ百官を召し集めて画期的な宣言をし、同時に天子の綸旨を乞う。
一面、吉邈と吉穆は城外に火を放ち、声々に呼ばわる。
「天子の勅命により、こよい国賊を討つ。民は安んじて、ただ朝廷をお護りし奉れ。若き者は錦旗の下に馳せつけ、ひと固まりとなって鄴都へ進め」
「鄴都には悪逆無道、多年天子を悩まし奉り、汝らを苦しめたる曹操があるぞ。蜀の劉備も曹操を討つべく、すでに西より大軍を差し向けつつあるぞ。行けや、行けや、時を移すな――」
こうして御林軍のほかに、民兵も大いに集めて気勢を上げようというのであった。おのおの秘密を誓い、天地に祈って血をすすり、待つほどにその日は来た。
正月15日の夕暮れ時、耿紀や韋晃らは前日から休暇を賜り、それぞれの屋敷にいた。手飼いの郎党から召し使いの奴(やっこ)まで加えると400余人はいる。
吉邈と吉穆の兄弟も、親類一族を駆り集めて300余人の同勢を作ると、郊外へ狩猟(かり)に行くと称し、密かに武具をそろえて馬を引き出し、物見を放ち、街の空気をうかがわせていた。
もうひとりの同志である金褘は、王必と交わりがあるので、夕方から彼の招待を受け、東華門の営所へ出かけていた。
★井波『三国志演義(5)』(第69回)では、金褘が王必の酒宴に招かれていない。
管理人「かぶらがわ」より
吉川『三国志』や『三国志演義』での吉平は、建安5(200)年の董承の曹操暗殺計画に加担して死んだことになっているのですよね。
それを踏まえ、この建安23(218)年の耿紀や韋晃らの決起にふたりの遺子が加わることで、仇討ちとしての意味合いも持たせています。
ですが史実では、建安23(218)年の計画のほうに吉本(きつほん。吉平)自身が加わっていました。この設定についてはどう評価すべきなのでしょうか?
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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