吉川『三国志』の考察 第018話「舞刀飛首(ぶとうひしゅ)」

霊帝(れいてい)が崩じた後、いったんは甥の弁皇子(べんおうじ。辯皇子)を即位させることに成功した大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)。

だが、うまく立ち回った十常侍(じゅうじょうじ)の計にかかり、宮中へ誘い込まれて非業の死を遂げる。

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第018話の展開とポイント

(01)洛陽(らくよう) 内裏(天子〈てんし〉の宮殿)

新帝への百官の拝礼が終わると、御林軍(ぎょりんぐん。近衛軍)を指揮した袁紹(えんしょう)は陰謀の首魁(しゅかい。悪者たちの頭)である蹇碩(けんせき)の誅殺を宣言。自ら宮中を捜し回って蹇碩を見つけ、どこまでも追いかけていった。

蹇碩は懸命に逃げ回ったが、御苑(ぎょえん)の花壇の陰へ這(は)い込んでいたところを、何者かに尻から槍(やり)で突き殺されてしまった。

さらに気負った袁紹は、何進に十常侍をひとり残らず殺すよう進言したが、彼の顔面は蒼白(そうはく)で、ただうなずくのみだった。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第2回)では、蹇碩は御苑に逃げ込み、花の陰に潜んでいたところを中常侍(ちゅうじょうじ)の郭勝(かくしょう)に斬殺されていた。吉川『三国志』では「彼(蹇碩)を突き殺したのは、同じ仲間の十常侍郭勝だとも言われているし……」という形で触れていた。

(02)洛陽 内宮(ないくう)

この間に張譲(ちょうじょう)ら残った十常侍は内宮へ逃げ込み、何進の妹でもある何后(かこう)を百拝し憐憫(れんびん)を乞うた。

ここでは何后を「皇后の位置にある」としていたが、この時点では「皇太后の位置にある」としたほうがよかったと思う。

何后はすぐに兄の何進を呼び、「私たち兄妹が微賤(びせん)の身から今日の富貴となったのも、その初めは十常侍たち内官の推薦があったからではありませんか」となだめた。

妹にこう言われると、何進も牛の屠殺(とさつ)をしていたころの貧しい姿を思い出す。そして「俺を殺そうと謀った蹇碩の奴さえ誅戮(ちゅうりく。罪をとがめて殺すこと)すればいいのだ」と言ってしまった。

内宮を出た何進は敵味方に蹇碩の誅罰が済んだことを宣言し、鎮まるよう言った。袁紹は手ぬるい宣言を発した軽忽(けいこつ)を責めたものの、聞き入れてもらえなかった。

その後、何進と何后は亡き霊帝の母である董太后(とうたいこう)を河間(かかん)へ遷(うつ)す。だが、それでもまだ不安を覚え、密かに後から刺客を遣って殺した。

わずかの間に董太后は柩(ひつぎ)の中の空骸(むくろ)となり、洛陽へ戻ってくることになった。都では大葬が執り行われた。

(03)洛陽 何進邸

何進が病と称して宮中や世間へ顔を出さなくなったため、ある日、袁紹が見舞いに訪れる。袁紹は例の宦官たちが、董太后の生命を縮めた者は何進であるとの流言を放っていると伝え、再び宦官の誅滅を促す。

しかし、何進は相変わらず煮えきらない返事。そうすると、この屋敷に奴僕(召し使い)として住み込んでいる宦官の回し者が密報を届ける。あわてた宦官たちは何后にすがって泣訴し、彼女が何進を呼んでなだめる。こういうことが繰り返されていた。

(04)洛陽 宮門

何進が宮門から退出してくると、待っていた袁紹は参内の吉左右(きっそう)を小声で尋ねた。

袁紹は宦官誅滅の決意を何太后に伝えられなかったと聞くと、宦官たちは将軍(何進)の弱点に付け込んでいるのだと言う。さすがに何進にも気づくところがあった。何進は袁紹の熱弁に動かされ、四方の英雄に檄(げき)を飛ばす。

このふたりの密談を、乗り物が置いてある木陰の近くから聞いていた者があった。典軍校尉(てんぐんこうい)の曹操(そうそう)だった。

曹操はひとりせせら笑い、諸方の英雄に檄を飛ばしたりすれば、たちまち天下は大乱になるだろう、とつぶやく。ただ、こういった自分の考えを、もう何進に直言しなかった。

井波『三国志演義(1)』(第3回)では曹操が何進に、宦官をことごとく誅殺するのではなく、そのうちの元凶だけを排除すればよいと言い、地方から軍隊を呼ぶまでもないなどと諫言していた。

(05)西涼(せいりょう)

董卓(とうたく)は以前の黄巾賊(こうきんぞく)討伐の際、その司令官ぶりは至って芳しくなく、乱後には朝廷から罪を問われるところだった。

後漢(ごかん)時代に西涼という行政区画は存在しなかった。この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(西涼は)後漢の武威郡(ぶいぐん)にあたる。涼州(りょうしゅう)の中央部付近」という。

ところが、内官の十常侍一派を巧みに買収したので不問に終わっただけでなく、今では西涼刺史(せいりょうしし)となり、20万の大軍を擁していた。

そのようなある日、董卓のもとにも何進の檄が届く。これに応え、彼は軍勢をひきいて上洛することを決めた。

(06)洛陽 何進邸

何進が檄への反響を待っていたところ、御史(ぎょし)の鄭泰(ていたい)が董卓を都に引き入れることへの不安を述べる。居合わせた中郎将(ちゅうろうしょう)の盧植(ろしょく)も同感だと言う。

井波『三国志演義(1)』(第3回)では、鄭泰は侍御史(じぎょし)とあった。

盧植は黄匪(こうひ。黄巾賊)討伐の際、左豊(さほう)の讒言(ざんげん)を受けて檻車(かんしゃ)で都(洛陽)へ送られたものの、左豊の失脚とともに許され中郎将に復していた。

それでも何進は意に介さず、「まだまだきみたちは大事をともに計るに足りんなあ」と言った。このふたりをはじめ、心ある朝臣も何進の言葉を伝え聞き、その人物を見限り離れてしまった。

やがて何進のもとに、董卓の兵馬が澠池(べんち)まで来ているとの知らせが届く。しかし上洛を催促する使いを遣っても、董卓は何かと理由をつけ、それ以上は動いてこなかった。

(07)洛陽 内裏

十常侍らは何進や董卓の動きを知ると密かに手配にかかり、禁中(宮中)の兵を嘉徳門(かとくもん)や長楽宮(ちょうらくきゅう。皇太后が居住する宮殿)の内門にまでみっしりと伏せた。

そのうえで何太后を騙(だま)して何進を召す旨の親書を書かせ、屋敷に届けさせる。

井波『三国志演義(1)』(第3回)では、長楽宮の嘉徳門の内側に刀や斧(おの)などの武器を持った兵士50人を潜ませたとある。

(08)洛陽 青鎖門(せいさもん)

何進は側臣らの制止を聞き入れず、鉄甲の精兵500に護衛を命じ、参内しようと青鎖門までやってきた。ここから先は兵馬を入れることができないため、数名の従者だけを伴って通る。

(09)洛陽 嘉徳門

嘉徳門の辺りに差しかかると、何進は前後左右を十常侍一味の軍士に取り囲まれる。張譲は何進を面罵した後、真っぷたつに斬り下げた。

(10)洛陽 青鎖門

門外で待っていた兵士たちの前に、城門の墻壁(しょうへき)の上から蹴鞠(けまり)ほどの黒い物が放り投げられる。急いで拾い上げてみると、それは何進の生首だった。

管理人「かぶらがわ」より

いいところなく何進死す、だった第18話。そして、ひとり先の展開を見通す曹操。せせら笑いが印象的でした。

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