偃城(えんじょう)の城外で徐晃(じょこう)の軍勢とぶつかった関平(かんぺい)は、すでに荊州(けいしゅう)が陥落したとのうわさを聞いて動揺。偃城を失い、四冢(しちょう)にある廖化(りょうか)の陣へ急ぐ。
だが、ほどなく徐晃の計略にはまって四冢も失い、樊城(はんじょう)を包囲中の関羽(かんう)と合流。しかし関羽も敵の勢いを止められず、関平らともに、敗軍をひきいて荊州各地をさまようことになる。
第235話の展開とポイント
(01)偃城の城外
荊州が陥ちたと言われると、関平は戦う気も萎え、徐晃を捨てて一散に引き返す。
ところが思い迷って偃城の近くまで駆けてくると、城は濛々(もうもう)と黒煙を吹いている。炎の下から逃げてきた味方の兵が口々に言う。
「いつの間にか搦(から)め手(城の裏門)へ迫ってきた徐晃の手勢が、火炎をみなぎらせて攻め込んだ――」
関平は徐晃の思うつぼにはまったことを悟ったが、事すでに及ばない。駒を打ち、四冢にある廖化の陣へ急ぐ。
(02)四冢 廖化の軍営
廖化は関平を迎え、営中に入るとすぐに尋ねる。
「今日どこからともなく、荊州が陥ちた、荊州は呉(ご)に占領された、としきりに沙汰する声が聞こえてきましたが、あなたもお聞きになりましたか?」
すると関平は剣を抜いて味方の中に立ち、廖化へする返事を全軍に向かってした。
「流言は、すべて敵の戦意をくじく謀(はかりごと)だ。みだりに虚言を伝え、虚言に興味を持つ者は斬るぞ!」
数日の間はもっぱら守り、付近の要害と敵状とを見比べていた。四冢は前に沔水(べんすい)の流れを控え、要路には鹿垣(ししがき。竹や木の枝を立て外敵の侵入を防ぐもの)を結び、搦め手は谷あり山あり深林ありで、鳥も翔(か)けがたいほどな地相である。
さらに関平が廖化に言った。
「いま徐晃は勝ちに乗って急激な前進を続け、彼方(かなた)の山まで来ておると、偵察の者の報告だ。思うにあの裸山は地の利を得ていない」
「反対にわが四冢の陣は堅固無双。ここは手薄でも守り得よう。ひとつご辺(きみ)と私とが密かに出て、彼を夜討ちにしようではないか」
偃城を失った関平は雪辱に焦りぎみで、ついに廖化を誘って本拠を出た。もちろん精鋭中の精鋭を選りすぐって連れていく。
広野の一丘にひとつの陣屋があった。いわゆる最前線部隊である。小さな部隊は点々と横に配され、12か所もの長距離に連なっていた。
この線を敵に突破されると怖い。1か所でも突破されれば12の部隊がバラバラになる。関平の血気に従って廖化が動いた所以(ゆえん)も、そういう重要性があるからだった。
(03)四冢の近郊 徐晃の本営
「今夜、敵の裸山へは私が攻め上っていく。ご辺はこの線を守り、敵の乱れを見たら、12の陣が連珠となって徐晃を圧縮し、四散する敗兵を皆殺しになしたまえ」
こう言い残すと廖化を後に、関平だけが深夜、裸山を急襲した。ところが、山上には旗影だけで人はいない。関平が急に駆け下ろうとすると、諸所の窟(あな)や岩陰や、裏山のほうから、一度に声の山津波が起こる。
徐商(じょしょう)と呂建(りょけん)は関平を追い回す。山を離れて野に出ても、魏軍(ぎぐん)は増えるばかり。草みな魏兵と化して関平を追うかと思われた。
廖化の守っていた線も、この怒濤(どとう)を遮りきれず、一度に崩壊してしまう。さらには四冢の陣からも、炎々たる火炎が夜空を焦がし始めた。
関平と廖化が、あえぎあえぎ沔水の流れまで来てみれば、真っ先に徐晃が馬を立て、「ひとりも渡すな」と、手落ちなき殲滅陣(せんめつじん)を巡らせている。今は挽回の工夫もない。全面的な敗北だ。ふたりはやむなく樊城へ奔る。
(04)樊城の城外 関羽の本営
関羽は敗戦については叱らなかったが、関平が荊州方面のうわさを告げると、「馬鹿な!」と叱って語気荒く戒めた。
「陸口(りくこう)の将は小児。烽火台(のろしだい)の備えもあるし、荊州の守りは泰山(たいざん)の安きにある。そちまでが敵の流言に乗せられてどうするか!」
曹操(そうそう)の中軍も徐晃の先鋒も目覚ましく進出した。今や何十万とも知れぬ大軍が山野に満ち、ひたひたと関羽の陣に迫っている。
(05)樊城の城外
いよいよ両陣が相接した日、関羽は馬を進めて徐晃と出会う。徐晃は後ろに10余人の猛将を連れていたが、馬上で礼を施すと言った。
「一別以来、いつか数年。想わざりき将軍の鬢髪(びんぱつ)、ことごとく雪のごとくなるを――。昔それがし壮年の日、親しく教えを被りしこと、今も忘却は仕(つかまつ)らぬ。今日、幸いにお顔を拝す。感慨まことに無量。喜びに堪えません」
これに関羽が応える。
「おお、徐晃なるか。ご辺も近来、赫々(かっかく)と英名をなす。密かに関羽も慶賀しておる。さはいえなにゆえ、わが子関平に苛烈なるか? 昔日の親密を忘れずとあらば、人に功は譲っても、自身は後陣に潜むべきではないか?」
さらに徐晃が答えた。
「否とよ将軍。すでにお忘れありしか。むかし少年の日、あなたが我に教えた語には『大義親(しん)を滅す』とあったではないか――」
「それっ諸将。あの白髪首を争い取れっ。恩賞は望みのままぞ!」
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(『大義親を滅す』は)大いなる道義のために親縁を捨てること。『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』隠公(いんこう)4年の言葉」という。
すると大声一呼、馬蹄(ばてい)に土を蹴るや否や、後ろの猛将たちとともに斧(おの)を振るって打ちかかる。
われ老いず! われ老いず! 関羽は自己を叱咤(しった)しつつ、雷閃雷霆(らいてい。雷の響き)の中に数十合の青龍刀を振るった。
だが、矢傷は完全に癒えたとは言いきれない。わけて老来病後の身である。危ういこと実に見ていられない。関平はたちまち退鉦(ひきがね)を鳴らして兵を収める。この退鉦はまさに虫の知らせだった。
同じころ、久しく籠城中の樊城の兵が門を開いて突出してきた。これは死に物狂いの兵なので、包囲は苦もなく突破され、関羽軍は襄江(じょうこう)の岸へとなだれ打って追われた。
二方面の退勢から、関羽軍は全面的な潰(つい)えを来し、夜に入ると続々と襄江の上流を指して敗走しだす。
道々、魏の大軍は各所から起こり、この弱勢の分散に拍車をかける。呂常(りょじょう)の一軍の奇襲には寸断の憂き目を見て、江に溺れる者も数知れなかった。
(06)襄陽(じょうよう)
ようやく江を渡って襄陽へ入り、味方を顧みれば、何たる少数、何たる酸鼻。さしもの関羽も悲涙なきを得なかった。
★『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第76回)では、いったん関羽は襄陽を目指した後、すでに荊州が奪われたことを聞き、結局は襄陽へ向かうのをやめていた。
のみならず、ここに着いて初めて荊州陥落が噓でないことがわかる。呉の呂蒙(りょもう)の手に掛かり、わが一族妻子も生かされているありさまと聞き、関羽は慨然また長嘆。天を仰いだまましばし言葉もない。
魏軍は江上から市街にわたって満ち満ち、襄陽にも長くはいられなかった。
(07)敗走中の関羽
さらば公安城(こうあんじょう)へと指して行けば、途中で味方の一将が落ちてきて、その公安も傅士仁(ふしじん)が城を開いて呉へ渡しており、南郡(なんぐん)の糜芳(びほう。麋芳)も彼に誘われ、孫権(そんけん)に降伏したとの悲報をもたらした。
★傅士仁は、正史『三国志』では士仁とある。傅は衍字(えんじ。間違って入った不用の文字)だという。
牙をかみ、恨気は天を突き、眦(まなじり)も裂けよと一方をにらんでいた関羽だったが、がばと馬のたてがみにうっぷしてしまう。臂(ひじ)の傷口が裂けたのである。
人々は抱き下ろして介抱を加えたが、関羽は自己の不明を慙愧(ざんき)してやまない。呂蒙の策や烽火台の変を聞いては、鎧(よろい)の袖に面を包み、声涙ともにむせんでいた。
「われ誤って豎子(じゅし。年が若く、まだ一人前になっていない男)の謀にあたる。何の面目あって、生きて家兄(このかみ。劉備〈りゅうび〉)にまみえんや……」
(08)襄陽の郊外
一方で樊城を出て、一夜にして攻守転倒、追撃に移っていた曹仁(そうじん)を、配下の司馬(しば)の趙厳(ちょうげん)が諫めた。
「もうこれ以上、関羽を窮地へ追うのは愚です。呉に害を残しておくために――」
曹仁は、いかにもと兵を収め、曹操の中軍にことごとく集まる。曹操は徐晃をこのたびの第一級の勲功とたたえ、平南将軍(へいなんしょうぐん)に任じて襄陽を守らせた。
管理人「かぶらがわ」より
荊州の陥落は噓ではなかった。しかし、年を重ねた病み上がりの関羽には徐晃を討つこともできない。もう少し優れた参謀がついていればと思わせますが、関羽に意見を容れてもらうのは簡単ではなさそうです……。
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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