吉川版『三国志』の考察 第210話 「鵞毛の兵(がもうのへい)」

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曹操(そうそう)は漢中(かんちゅう)に張郃(ちょうこう)と夏侯淵(かこうえん)を残して南下し、孫権(そんけん)が待ち構える濡須(じゅしゅ)へと向かう。

孫権軍は初戦で敗れたものの、甘寧(かんねい)が100名の決死隊による夜襲を成功させたことから、その士気はよみがえる。

第210話の展開とポイント

(01)漢中(かんちゅう)

いま漢中は手の内に収めたものの、曹操(そうそう)が本来の意欲は多年南方に向かって盛んであったことは言うまでもない。

「漢中の守りは張郃(ちょうこう)と夏侯淵(かこうえん)の両名で事足りなん。われは南下してただちに呉(ご)の濡須(じゅしゅ)に至らん」

曹操は決断した。壮図なお老いずである。江を下る百帆の兵船、陸を行く千車万騎。すでに江南(こうなん)を呑むの慨を示し、大揚子江(だいようすこう。長江〈ちょうこう〉)の流れに出て呉都秣陵(まつりょう)の西方、濡須の堤へ迫った。

たびたび呉都が「秣陵」だと言っているが、それが改称されて「建業(けんぎょう)」になったわけだから、ここは「呉都建業」とすべきだと思う。このことについては先の第193話(01)を参照。

(02)濡須

「来たれ、遠路の兵馬」と、呉軍は待ち構えていた。先陣を希望して争った者は、またしても宿怨(しゅくえん)ある甘寧(かんねい)と凌統(りょうとう。淩統)だった。

孫権(そんけん)は凌統を第一陣、甘寧を第二陣として、ふたりで行けと言う。そして自身もほかの諸将と輪陣を作り、堂々と後から押し出した。

濡須一帯は戦場と化す。曹操の先鋒は張遼(ちょうりょう)とみえ、功に逸(はや)った凌統は見境なく当たる。

ぶつかった凌統の陣形が微塵(みじん)になり分離するのが、遠く孫権の本陣からも見えた。孫権は呂蒙(りょもう)に凌統を救い出すよう命ずる。

そのあと甘寧が来て、案外に敵が堅固であると伝えたうえ、屈強な100人の兵を授けてほしいと願い出る。今夜、曹操の本陣を脅(おびや)かしてご覧に入れると。孫権は彼の願いを聞き入れ、特に直属の精鋭中から100人を選んで与えた。

(03)濡須 甘寧の軍営

夕方、甘寧は100人の勇士を軍営に招き、一列に円くなって座る。そこへ酒10樽(たる)と羊の肉50斤(きん)を供え、「これは呉侯(ごこう。孫権)からの拝領物だから、存分に飲(や)ってくれ」と、まず自身が銀の碗(わん)でひと息に干して順々に回した。

井波版『三国志演義』(第68回)では、孫権から甘寧に酒50瓶(かめ)と羊肉50斤が下賜されたとあった。

肉を食って酒をあおり、100人は遺憾なく近来の欲を満たす。そこで甘寧は、「もっと飲め、もっと食え。今夜この100人で曹操の中軍へ斬り込むのだ。後に思い残りのないようにやれ」と告げた。

一同は顔を見合わせた。酔った眼色も急にうろたえている。こんな100人ばかりの勢でどうして? と言わんばかりな顔つきだ。

甘寧は剣を抜き、立ってこう叱咤(しった)した。

「呉の大将軍(だいしょうぐん)たる甘寧すら国のためには命を惜しまぬのに、汝(なんじ)ら身を惜しんでわが命令にひるむかっ!」

違背する者は斬らんという前触れである。

ここで死ぬよりはと、100人の勇士はことごとく剣の下に座り直し、「願わくは将軍に従って死をともにしたいと思います」と是非なく誓う。

甘寧は、合い印として白い鵞(アヒル)の羽を一本ずつ手渡し、兜(かぶと)の真向かいに挿すよう言った。

ここは「鵞」に「あひる」というルビが付けられていた。「鵞」なら「鵞鳥(ガチョウ)」と読むほうが適当な気もする。アヒルなら「鶩」や「家鴨」とすべきでは?

(04)濡須 曹操の本営

夜も二更(にこう。午後10時前後)を過ぎると、甘寧の一隊は筏(いかだ)に乗って水路を迂回(うかい)し、堤に沿い野をよぎり、忍びに忍んで曹操の本営の後ろへ出る。

柵(さく)へ近づくやたちどころに哨兵(しょうへい)を斬り捨て、ワッと一斉に陣中へ入った。たちまち諸所に火の手が上がる。

暗さは暗し、曹操の旗本は右往左往し、到る所で同士討ちばかり演じた。甘寧は思う存分に暴れ回ると100人を1か所に集め、一兵も損ぜずに風のごとく引き返してきた。

(05)濡須 孫権の本営

「将軍の肝は、さだめし曹操の魂をひしいだであろう。痛快、痛快」

孫権は刀100口(ふり)と絹1千匹(びき)を贈って賞す。甘寧はこれをみな100人に分けた。魏に張遼あるも、呉に甘寧ありと。このため呉の士気は大いに振るった。

(06)濡須

夜が明けるとともに、張遼が一軍をひきい呉の陣へ攻勢に出てくる。凌統は手に唾(つば)して迎えた。

漠々と煙る戦塵(せんじん)の真っ先に張遼の姿、その左右に李典(りてん)、楽進(がくしん)など、呉兵を蹴(け)散らして駆け進んでくる。凌統は疾風のように斜行。「来たれるは張遼か」と斬りつけた。

「おれは楽進だ!」と、槍をひねり応戦してくる。凌統は舌打ちしたが、楽進を相手に50余合(ごう)も戦った。すると彼方の張遼の後ろから、曹操の御曹司の曹休(そうきゅう)が鉄弓を張って一矢を放つ。

凌統を狙った矢は少し逸(そ)れ、彼の馬に当たった。凌統が勢いよく落馬すると、楽進は槍を逆さまにして地上へ向ける。

ところがその時、またどこからか一本の矢が飛んできた。矢は真眉間(まみけん)に立ったので、楽進は槍を投げ、鞍上(あんじょう)からもんどり打つ。呉の将も倒れ、魏の将も傷ついたので、両軍同時にワッと混み合い、互いに味方を助けて退いた。

凌統は馬を射られての落馬なので、負傷ということで納得できるが、楽進のほうは「傷ついた」で済むものなのか? ここはいくらか疑問が残った。だだ井波版『三国志演義』(第68回)でも、楽進の額に矢が命中して落馬したとあるが、傷の手当てを受けたとしかない。これは致命傷という扱いではないようだ。

(07)濡須 孫権の本営

「またしても不覚を取りました。残念でなりません」

孫権の前に出て凌統が面目なげに詫びると、孫権は「兵家の常だ」と慰めたうえ、「きょう汝を救った者は誰ぞと思うか?」と言った。

凌統が座の左右を見回すと、甘寧が黙って控えていた。ハッと思うと孫権は重ねて言った。

「楽進の眉間を射た者はそこにいる甘寧だ。日ごろの友誼(ゆうぎ)をさらに厚く思うだろう」

凌統は涙を垂れ、甘寧の前に手をつかえた。以来、ふたりはまったく旧怨を忘れ、生死の交わりを結んだという。

(08)濡須

翌日、魏軍は前日に倍加した勢いで水陸から呉陣へ迫る。呉軍もそれに応ずる大軍を展列し、濡須に兵船の墻(かき)を作った。

この日、目覚ましかったのは呉の徐盛(じょせい)や董襲(とうしゅう)たち。そのため魏陣の一角である李典の兵が駆け崩される。そのまま曹操の中軍まで危険に陥るかと思われたが、たちまち大風が吹き起こった。

白浪は天を搏(う)ち、岸辺の砂礫(されき)は飛んで面を打ち、日もまだ高いのに天地が暗くなってしまった。

しかも董襲の兵船は河中で沈没し、ほかの兵船も帆を裂かれ、あちこちの岸にぶつかり散々な目に遭う。さらに新手の魏軍が包囲し、徐盛の兵の半ばをせん滅してしまった。

孫権の命を受けて陳武(ちんぶ)が駆け出すと、魏の一軍が堤の陰から起こり、またも小鉄環を作って皆殺しを計る。この手の大将は新参の龐徳(ほうとく。龐悳)だった。

荒天の中、呉の旗色は急に悪くなり、今は総敗軍のほかなきに至る。しかし、若い孫権は「何事かあらん」と自ら中軍をひきい、濡須の岸へ繰り出す。ところが、ここに張遼と徐晃(じょこう)のふた手が待ち構えていた。

管理人「かぶらがわ」より

甘寧の決死隊による奇襲が決まったものの、徐々に形勢が悪くなる呉軍。その中にあって因縁のふたり、甘寧と凌統の和解がありました。

小説としてはいい話に仕上がっていましたが、(正史の)『三国志』にはふたりが和解したことは見えないようです。ちょっと残念……。

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