吉川『三国志』の考察 第071話 「健啖天下一(けんたんてんかいち)」

小沛(しょうはい)の劉備(りゅうび)が許都(きょと)の曹操(そうそう)と通じ、自分を討とうとしていたことを知った呂布(りょふ)。すぐさま軍勢をひきい小沛へ押し寄せる。

劉備の救援要請に応え、曹操が先鋒として派遣したのは夏侯惇(かこうじゅん)・呂虔(りょけん)・李典(りてん)と5万の軍勢。そして夏侯惇は呂布配下の高順(こうじゅん)と一騎討ちを繰り広げるが、その最中に――。

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第071話の展開とポイント

(01)冀州(きしゅう。鄴城〈ぎょうじょう〉?)

袁紹(えんしょう)は曹操(そうそう)の返書と数百輛(りょう)に及ぶ莫大(ばくだい)な兵糧や軍需物資を受け取る。

色よい返事に安心した袁紹は大挙して北平(ほくへい)の公孫瓚(こうそんさん)討伐を開始。しばらく西南への注意を怠る。

(02)徐州(じょしゅう)

近ごろの呂布(りょふ)は夜は貂蟬(ちょうせん)を侍らせ酒宴に溺(おぼ)れ、昼は陳珪(ちんけい)父子を近づけ無二の者と何事も相談していた。

ここで出てきた貂蟬は王允(おういん)の養女だった貂蟬とは別人。先の第61話(02)を参照。

そうしたある日、陳宮は下僕の童子ひとりを連れ、秋の山野を狩りして歩く。

『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第18回)では、このとき陳宮は数騎のお供を連れ、小沛(しょうはい)へ巻き狩りに出かけたとある。

そこで捕らえた怪しげな男を厳しく拷問してみると、小沛の劉備(りゅうび)に返書をもらい、許都(きょと)へ帰る使いであることがわかった。

その男は、返書は先へ行った者が持っていると言ったが、陳宮が男を殺して童子に遺体を調べさせたところ、返書が出てくる。

子細を聞き、劉備の曹操あての返書を見せられた呂布は激怒。ただちに陳宮と臧覇(ぞうは。臧霸)に兵を授け、小沛の劉備を生け捕ってくるよう命じた。

陳宮は付近の泰山(たいざん)にいる強盗群と語らい、領袖(りょうしゅう)の孫観(そんかん)・呉敦(ごとん)・昌豨(しょうき)・尹礼(いんれい)らに山東(さんとう。函谷関〈かんこくかん〉以東の地域)を荒らし回るようけしかける。

これとは別に、宋憲(そうけん)と魏続(ぎぞく)がいち早く汝潁(じょえい。汝南〈じょなん〉および潁川〈えいせん〉)地方に軍勢を突出し、小沛の後方を扼(やく)す。そのうえで本軍が徐州を発し正面から小沛へ迫り、三方を封鎖しておめき寄せた。

(03)小沛

劉備は、呂布討伐への協力を約束した曹操あての返書が呂布の手に渡ったことを悟る。そこで関羽(かんう)には西門を、張飛(ちょうひ)には東門を、孫乾(そんけん)には北門を、それぞれ守るよう言いつけ、自身は南門の防ぎにあたった。

井波『三国志演義(2)』(第18回)では、さらに糜竺(びじく。麋竺)とその弟の糜芳(びほう。麋芳)が中軍を統率し、劉備の妻子を保護したとある。

ところがこの騒ぎの中、関羽と張飛が敵将の張遼(ちょうりょう)の扱いを巡って口論を始める。

この日の早朝、西門へ押し寄せた張遼の武者ぶりを見た関羽が、敵とはいえ助けておきたいと感じた。しかし張飛は、関羽と口論しているうちに東門へ回ってきた張遼を討ち漏らしたと不満を持ったのだった。

劉備は裁きに困ったが、捕らえても逃がしても張遼ひとりのために天下が変わるわけもあるまいと、どっちつかずに双方を慰撫した。

(04)徐州

後閣で郝萌(かくほう)とふたりきりで密談していた呂布。北苑(ほくえん)から聞こえてくる娘の歌声にいじらしさを感ずる。

ここで呂布の娘はふたりいて、姉が14歳、妹が5歳であることがわかる。また、井波『三国志演義(1)』(第16回)では呂布の娘はひとりだったとあり、吉川『三国志』とは設定が異なっていた。14歳という年齢についても、『三国志演義』ではもう少し高めに設定されているようだ。

郝萌は例の劉備の返書が呂布の手に渡った日、呂布の命を受けて淮南(わいなん)へ行き、先に曹操に妨げられ破談になった縁談について、依然として袁家との婚姻を望んでいると、急いで話を取りまとめてくることになった。

そして、つい今しがた袁術(えんじゅつ)の返事を持ち帰った。袁術は、御愛娘(ごあいじょう)の身を先に淮南へお送りになるなら、十分な好意をもって返答に及ぼうと伝えてきた。

呂布は娘を淮南へ送る腹を決めかけたが、ふとその時に彼女の歌声を聞くと気が変わってしまう。この件は先送りすることにし、婚姻政略の蒸し返しを一時断念した。

(05)小沛

翌日、呂布は自ら督戦にあたる。ここで城壁の上に姿を見せた劉備が、曹操から天子(てんし)の勅命として兵を催せとの厳命があったため、やむなく承知の返書をしたためた、などと言うと、呂布はまた気迷いに捕らわれ、包囲を続けさせつつ自身は徐州城に帰ってしまう。

(06)許都 丞相府(じょうしょうふ)

そのまま両軍が日を送っている間に、先に小沛を脱していた劉備の急使が許都に到着。書簡を差し出し至急の救援を乞う。

井波『三国志演義(2)』(第18回)では、ここで劉備の急使として遣わされていたのは簡雍(かんよう)。

曹操は諸将を集めて小沛の急変を伝え、救援のことを評議に諮る。荀攸(じゅんゆう)が諸将を代表して賛成の意見を述べると、小沛への派兵が決まった。

まず夏侯惇(かこうじゅん)・呂虔(りょけん)・李典(りてん)の3人が先鋒として5万の精兵を授けられ、徐州の境へ馳(は)せ向かう。

井波『三国志演義(2)』(第18回)では、曹操の命を受けた夏侯惇が、夏侯淵(かこうえん)・呂虔・李典とともに5万の軍勢をひきいて先発したとある。

(07)徐州の国境

曹操軍の先鋒が到着すると、呂布配下の高順(こうじゅん)の陣が突破され壊乱。

呂布は曹操との正面衝突が避けられないと観念し、侯成(こうせい)・郝萌・曹性(そうせい)に命じて高順を助けに行かせた。そのため小沛を遠巻きにしていた呂布軍が30里(り)ほど退く形になる。

(08)小沛

小沛の劉備も援軍の到着を察し、孫乾・糜竺・糜芳らを城に残すと自ら関羽と張飛を両翼に従え攻勢に転じた。

(09)徐州の国境

この日、夏侯惇と高順が名乗り合って50余合(ごう)戦ったが、そのうち高順が逃げ出す。夏侯惇が追いかけ回すと、高順の危急と見た曹性が馬上から一矢を放つ。その矢は夏侯惇の左目に突き刺さった。

夏侯惇は片手で矢を引き抜いたため、鏃(やじり)とともに眼球も飛び出てしまう。この眼球を自分で食べると、曹性をにらんで馬を向け、ただ一槍(いっそう)の下に突き殺した。

だが夏侯惇は鮮血が止まらず、激しい痛みに襲われる。それでも重囲の一角を切り崩した弟の夏侯淵に助け出され、味方と合流することができた。

勢いに乗った呂布軍の攻勢を受け、李典と呂虔は済北(さいほく)まで退く。そのまま呂布は小沛に詰め寄った。

(10)小沛

高順と張遼が張飛に打ちかかり、呂布自身は関羽に当たった。

井波『三国志演義(2)』(第19回)では、高順が張遼をひきいて関羽の陣を攻め、呂布自身が張飛の陣を攻めたとあった。

激戦が繰り広げられ小勢の劉備軍が敗退。先を争い城内へ逃げ込もうとする。劉備が城の吊(つ)り橋を渡ると同時に呂布も一緒に城内へと駆け込む。続いて高順と張遼の軍勢も城内に入り、小沛城は呂布軍の蹂躙(じゅうりん)するところとなった。

管理人「かぶらがわ」より

曹操との計画が露見し、危機を迎える小沛の劉備。呂布の配下には張遼などもいてなかなかの陣容ですよね。

夏侯惇が自分の目玉を食べたという話は、元ネタが『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・夏侯惇伝〈かこうとんでん〉)のようです。

ただ本伝には、夏侯惇が呂布征伐に付き従った際、流れ矢を受けて左目を負傷した、としかありませんでした。そこからよくこういう話に仕上がったものだと思います。

また、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、当時、同じく将軍(しょうぐん)だった夏侯惇と夏侯淵を区別するため、軍中では夏侯惇を「盲夏侯(もうかこう)」と呼んだのだとか……。

しかし夏侯惇はこれを嫌がり、鏡を見るたびカッと腹を立て、その鏡を地面に投げつけていたそう。

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吉川『三国志』 (03) 草莽の巻
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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