荊州(けいしゅう)に居座り続ける劉備(りゅうび)は、劉表(りゅうひょう)配下の蔡瑁(さいぼう)から執拗(しつよう)に命を狙われる。
ほどなく劉備は襄陽(じょうよう)で催された会の主人役を務めるが、これも蔡瑁の計略で、結局は単騎で城外へ逃げる羽目になる。その行く手には檀渓(だんけい)の激流があった――。
第123話の展開とポイント
(01)荊州(襄陽)
蔡瑁と蔡夫人(さいふじん)の調略はその後もやまず、どうしても劉備を除かねばと躍起になる。
しかし肝心の劉表が許さない。同じ漢室(かんしつ)の裔(えい)であり、親族にもあたる劉備を殺したら天下に外聞が悪いというのだった。
また、継嗣(けいし)の争いや閨閥(けいばつ。妻の親類を中心としてできた勢力)の内輪事が世間へ漏れることも極力避けようと努めているらしい。総じて、その方針は事なかれ主義をもって第一としていた。
蔡夫人は夫のそうした態度にジリジリし、兄の蔡瑁に事を急がせることしきり。蔡瑁は任せてほしいと言って妹をなだめ、機を計っていた。
あるとき蔡瑁が劉表に、近年は豊作が続いているが、今年の秋は特によく実ったと伝える。そこで各地の地頭(じとう)や官吏をはじめ、田吏に至るまでを襄陽に集めて慰労の猟(かり)を催し、大宴を張ってはどうかと献言した。
★ここで地頭という表現が出てきた。もしこれがわが国の鎌倉(かまくら)時代の地方官をイメージしたものなら、だいぶ雰囲気を損なっていると思う。
★また、ここまで劉表の本拠がイマイチわかりにくかったが、やはり襄陽のようだ。
劉表は案は良いと言ったが、自分は行かないとも言う。息子の劉琦(りゅうき)か劉琮(りゅうそう)を代理に遣ろうと。
実のところ蔡瑁は、劉表が神経痛に悩まされ睡眠不足であることを、妹から聞きよく知っていた。そのうえで、劉琦や劉琮はまだ幼年なので、名代としては賓客に礼を欠くのではないかと懸念を述べる。
すると劉表は、劉備を請じて大宴の主人役とし、礼を執り行わせるよう言う。これは蔡瑁の思惑通りだった。さっそく襄陽の会の招待を各地へ触れるとともに、劉備へも劉表の意と称して主人役を命ずる。
(02)新野(しんや)
先の一件以来、劉備は新野へ帰っても怏々(おうおう)と楽しまない様子だった。そこへ襄陽の会の飛状が届くと、先ごろの不愉快な思い出が胸にうずいてきた。
★劉備の先ごろの不愉快な思い出については、前の第122話(07)を参照。
張飛(ちょうひ)や孫乾(そんけん)は子細を知ると、行くべきではないと止める。だが関羽(かんう)と趙雲(ちょううん)は、いま命に背けば、いよいよ劉表の疑心を買うだろうと言い、軽く役目を務めてすぐに立ち帰るのが無事だと勧めた。
劉備もこの意見に同意。300余騎の供ぞろいを立てて趙雲を連れ、襄陽の会へと出向く。
(03)襄陽
襄陽は新野から遠かったが、劉備らが80里ほど来ると、すでに蔡瑁以下、劉琦と劉琮の兄弟や王粲(おうさん)・文聘(ぶんぺい)・鄧義(とうぎ)・王威(おうい)ら荊州の諸将まで盛んな列伍を布(し)き、出迎えに立ち並んでいた。
★『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第34回)では関羽が劉備に、襄陽はここ(新野)から遠くないのだからと言っていたが……。
この日、会する者は数万に上った。喨々(りょうりょう)たる奏楽の中、劉備は国主の代理として館中の主座に着席する。
そして式が始まると劉表に代わり、国主の「豊饒(ほうじょう)をともに慶賀するの文」を読み上げた。その後は諸賓をねぎらう大宴に移る。
蔡瑁はこの間にそっと席を外し、人なき一閣を閉め切って蒯越(かいえつ)に謀略を打ち明けた。劉備を殺すのは主君の命だとも。
すでに東のほうは峴山(けんざん)の道を蔡和(さいか)の手勢5千余騎でふさがせ、南の外門路一帯には蔡仲(さいちゅう。蔡中)に3千騎を授けて伏兵としてあった。
北門も蔡勲(さいくん)の数千騎が固めているが、西門だけは檀渓の流れに行き当たり、舟でもなければ渡れないから、ここはまず安心なのだという。
蒯越は、劉備のそばに立っている趙雲を離す策を先にすべきだと言い、文聘と王威らに別席で歓待させるよう勧める。その間に劉備も州衙(しゅうが。州の役所)主催の園遊会に臨む予定があるから、そちらに連れ出して討ち取れば難なく処分できるとも。
蔡瑁は蒯越の同意を得たうえ良策も聞き、事は成就と喜び、すぐに手はずにかかった。
そのころ劉備は州の主催による官衙(かんが。役所)の園遊会に臨んでいた。知事以下の官吏や州の有力者が、この日の答礼と歓迎の意を表した会である。
★ここで知事という表現が出てきたが、これも近代の県知事をイメージしたものだろうか。時代に合った官名を使うほうが雰囲気が出ると思う。
馬を後園につながせると、劉備は定められた堂中の席に着く。知事や州吏、民間の代表者など、こもごも拝礼を行い満堂に列座し、様々に酒を勧めてもてなした。
酒三巡のころ文聘と王威が、劉備の後ろに侍立している趙雲を別席へ誘う。根気強く誘い続けるふたりを見かね、劉備は趙雲に、しばし退がって休息するよう言う。
こうして趙雲が文聘や王威らとともに別館へ退がると、300人の部下たちも同時に自由を与えられ、おのおの遠くへ散らかった。
ここで伊籍(いせき)が劉備に、まだ正服のままだから、衣を更(か)えられてはどうかとささやく。
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「更衣は着替えという意味から転じて、高貴な者が厠(かわや)へ行くこと」だという。
劉備が意を悟り、厠へ立つふりをして後園に出てみると、伊籍が先回りして木陰で待っていた。伊籍はすぐに逃げるよう言う。一瞬を争うとも。
劉備も直感して駒を引き寄せると、さらに伊籍から、西門だけには兵を回していないようだと聞く。
(04)檀渓
西門から駆け出して2里余り行くと、そこで道は断たれていた。目の前には檀渓の激流が横たわっている。劉備は乗ってきた的盧(てきろ)に声をかけ、心を天に念じながら、いきなり奔流に突っ込む。
激浪が人馬を包み、的盧は首を上げたり振ったりして波と闘う。そして辛くも中流を突き進むや、3丈ばかり跳んで、対岸の一石に水煙とともに跳び上がった。
対岸に駆けつけた蔡瑁が密かに弓を執り、馬上で矢をつがえている様子を見ると、そのまま劉備は南漳(なんしょう)を指して逃げ落ちた。
★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「南漳県は後漢(ごかん)では荊州南郡(なんぐん)に属した。なお、南漳県が置かれたのは実際には隋代(ずいだい)のことで、後漢・三国時代にこの地名はなかった」という。
蔡瑁は歯ぎしりしたが、引き返して他日を待とうとむなしく道を戻る。すると彼方(かなた)から、趙雲と300人の部下たちが目の色を変えて駆けつけた。趙雲は諸門に備えられていた兵のことを問いただすが、蔡瑁は翌日の狩猟の勢子(せこ)だとごまかす。
いつしか日は暮れ、趙雲は再び襄陽の城内へ戻ってみたが、やはり劉備の姿は見えない。悄然(しょうぜん)と新野の道へ帰っていく趙雲。
管理人「かぶらがわ」より
劉表自身は乗り気でないものの、蔡兄妹から執拗に狙われる劉備。
檀渓の一件は見せ場のひとつなのでしょうが、初めから西門にも兵を置いておけばよかっただけじゃないかと、いくらかすっきりしないものが残りました。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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