吉川『三国志』の考察 第046話「毒と毒(どくとどく)」

董卓(とうたく)誅殺後も李傕(りかく)や郭汜(かくし)の専横に苦しめられていた献帝(けんてい)は、太尉(たいい)の楊彪(ようひょう)の計を用い、ふたりが対立するよう仕向ける。

楊彪の妻の活躍もあり、事は献帝の思い描いた通り運ぶかに見えたが――。

スポンサーリンク

第046話の展開とポイント

(01)長安(ちょうあん)

兗州(えんしゅう)を呂布(りょふ)から奪還した曹操(そうそう)。それ以前、汝南(じょなん)や潁川(えいせん)で草賊相手に切り取り横行を行い苦境をしのいでいたことが、かえって評価される。

曹操は朝廷から乱賊を鎮定し地方の平穏に尽くした功により、建徳将軍(けんとくしょうぐん)に任ぜられ費亭侯(ひていこう)に封ぜられた。

董卓(とうたく)が殺された後に立った李傕(りかく)は司馬(しば。ここでは大司馬〈だいしば〉の意)、そして郭汜(かくし)も大将軍(だいしょうぐん)として権力を振るい、百官を圧伏させていた。

あるとき太尉(たいい)の楊彪(ようひょう)が朱雋(しゅしゅん。朱儁)とともに献帝(けんてい)にそっと近づき、曹操を用いて李傕と郭汜を誅戮(ちゅうりく。罪をとがめて殺すこと)するよう勧める。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第13回)では朱儁を大司農(だいしのう)としていた。

献帝から策を問われると、楊彪は計を用い李傕と郭汜をかみ合わせ、その後で曹操に密詔を下して誅滅させるとの考えを話す。有名な嫉妬(やきもち)焼きである郭汜の妻を利用し、まずは郭汜の家庭から反間の計を施すとも。

(02)長安 楊彪邸

自邸に帰った楊彪は妻の部屋へ行き、郭汜の夫人を訪ねてうんと嫉妬を焚きつけてくれるよう頼み、君前の密議と意中の秘策を打ち明ける。

(03)長安 郭汜邸

翌日、楊彪の妻は盛装を凝らし、美々しい輿(くるま)に乗って郭汜の夫人を訪ねた。楊彪の妻は涙ながらに、郭汜と李傕の夫人が浮気をしていると話す。サッと顔色を変える郭汜夫人。

楊彪の妻が帰ると、郭汜の夫人は病人のように部屋にこもってしまう。その夜も折悪しく、郭汜は夜が更けてから微酔を帯びて帰ってきた。

それから4、5日後、李傕が郭汜を酒宴に招く。すると夫人は郭汜の前に立ちふさがり、血相を変え止めようとする。夫人が胸にすがって泣いたりしたので、さすがに振り切っても行けず、ついに郭汜はその夜の酒宴を欠席してしまった。

翌日、李傕から料理や引き出物を持った使いがやってくる。厨房(ちゅうぼう)を通して受け取った夫人は、わざとそのひと品の中に毒を入れ、郭汜の前に持ってきた。

そして、何気なく食べようとした郭汜を制し、夫人が毒味と称してひと品を庭に投げたところ、飼い犬がそれに飛びついて食べる。見る間に犬は独楽(コマ)のごとく回ってひと声、絶叫すると、血を吐いて死んでしまった。

このようなことがあってから、郭汜の心には李傕に対する疑いが芽を伸ばす。李傕を見る目が前とは変わり、事ごとに歪(ゆが)んで見るようになった。

(04)長安 李傕邸

ひと月ほど経ったころ、朝廷から退出し帰ろうとする郭汜を李傕が強って誘い、是非なく郭汜も李傕邸に立ち寄る。李傕の豪奢(ごうしゃ)なもてなしに郭汜はつい帯紐(おびひも)を解き、泥酔して帰った。

(05)長安 郭汜邸

帰る途中から胸がむかついていた郭汜。急いで自邸に帰ると、夫人を呼んで毒を消す薬がないか尋ねる。事情を聞いた夫人はこの時とばかり、薬の代わりに糞汁(ふんじゅう)を飲ませ、腹中の物をみな吐き出させた。

郭汜はその夜のうちに兵を集め、李傕邸へ夜討ちを仕掛ける。この動きをいち早く聞いた李傕も十分な備えを整えていた。

(06)長安

翌日もそのまた翌日も、李傕と郭汜の両軍は巷(ちまた)を挟んで血みどろな戦闘を繰り返すばかり。日ごとに両軍の兵が増え、長安の城下は再び大乱状態に陥った。

この混乱のなか李傕の甥の李暹(りせん)は、天子(てんし。献帝)を自軍に擁すればいいことに気づく。

李暹は龍座(天子の御座)に迫り、天子と皇后(こうごう。伏氏〈ふくし〉)を無理やり輦(くるま)に移して賈詡(かく)と左霊(されい)を監視に付けると、後宰門(こうさいもん)から乱箭(らんせん。箭〈矢〉が乱れ飛ぶ様子)の巷へ引き出す。

『完訳 三国志』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、金田純一郎〈かねだ・じゅんいちろう〉訳 岩波文庫)の訳注によると「(後宰門は)厚載門と書くのが正しい。これは元(げん)の時代の都(今の北京〈ペキン〉)の宮城の北門の名であったから、『三国演義』の作者(羅貫中〈らかんちゅう〉)はおそらく当時の名を用いたものと思われる」。

「漢代(かんだい)の都の門の名は、いま伝わっているところでは、これにあたるものは知られない。現在でも後宰門の名は北京の地名に残っている。このような時代錯誤の例は元の戯曲にもある。狩野直喜博士『支那学文藪』329ページ参照」という。

急報を受けた郭汜はすぐに天子の輦を追わせたが、もう間に合わなかった。出し抜かれた彼は兵をひきいて禁闕(きんけつ。宮門)に侵入。日ごろ気に食わない朝臣を斬り殺し、後宮の美姫や女官を捕虜として引っ立てた。

そればかりか、すでに天子もおらず、政事も行われていない宮殿に無用の火を放ち、その炎を見ていたずらに快哉(かいさい)を叫ぶ。

(07)郿塢(びう)

李暹により李傕の軍営に連れ去られた天子と皇后だったが、さすがにここへ置いておくのは不安だとして郿塢城に遷(うつ)される。それ以来、幽室(奥まった暗い部屋)に監禁されたまま10日余りを過ごした。

献帝の意思はもとより一歩の自由すら許されない。供御(くご。天子の御用にあてる)の食物も実にひどいもので、膳(ぜん)が来れば必ず腐臭を伴っていた。

献帝は侍臣たちが痩せていくのを見かねて、李傕に使いを遣りひと囊(ふくろ)の米と一股(いっこ)の牛肉を求める。

井波『三国志演義(1)』(第13回)では、献帝は人を遣り、李傕に米5斛(こく)と牛骨5頭分を求め左右の者に与えようとしたとある。

しかし、やってきた李傕は悪口(あっこう)を吐き、傍らで何か言った侍臣を殴りつけて立ち去った。

その日の夕げには若干の米と腐った牛肉の幾片かが皿に盛られていたが、みなその臭気に顔を背けた。献帝もひどく憤り、身を震わせて嘆く。

ほどなく郭汜の軍勢が城門に押し寄せた。侍中郎(じちゅうろう)の楊琦(ようき)が献帝を慰め、成り行きを見守るよう勧めていたところ、応戦した李傕と郭汜が城外で槍と大剣を交える。そこへ城中から楊彪が駆け出し、ふたりを説得して兵を退かせた。

井波『三国志演義(1)』(第13回)では楊琦は侍中とある。

(08)郭汜の軍営

翌日、楊彪は朝廷の大臣以下60余人とともに郭汜の軍営を訪ね、李傕との和睦を勧める。

スポンサーリンク

管理人「かぶらがわ」より

楊彪の策が効きすぎて献帝や皇后にまで被害が及んでしまいました。ですが、あの毒消し(糞汁)だけは勘弁してほしいですね……。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました