曹丕(そうひ)は、呉(ご)が蜀(しょく)と同盟を結んだ事実が明らかになるや激怒し、ただちに大軍を南下させると言いだす。そして司馬懿(しばい)の進言を容れ、総力を挙げて軍船の建造に取りかかるよう命じた。
黄初(こうしょ)5(224)年8月、曹丕は自ら3千隻を超える大艦隊をひきい、呉の建業(けんぎょう)へ向かう。
第261話の展開とポイント
(01)洛陽(らくよう)?
このところ魏(ぎ)では、ふたりの重臣を相次いで失った。大司馬(だいしば)の曹仁(そうじん)と(太尉〈たいい〉の)賈詡(かく)の病死。いずれも大きな国家的損失である。
★史実の曹仁は魏の黄初4(223)年3月に、賈詡も同年6月に、それぞれ死去した。
初め曹丕は、侍中(じちゅう)の辛毘(しんび。辛毗)から、呉が蜀と同盟を結んだと聞いても本当にしなかった。
しかし次々と届く報告から事実だとわかると、怒った曹丕は、ただちに大軍を南下させると言いだす。辛毘は諫止したが、その逆鱗(げきりん)はすさまじいものがある。
そこで司馬懿が献言した。
「呉の守りは長江(ちょうこう)を生命としております。水軍を主となして強力な艦船を持たなければ、必勝は期し得ますまい」
これは曹丕の考えとも大いに一致するもの。すでに魏の水軍には約2千の船と100余の艦艇があったが、さらに数十か所の造船所で、夜を日に継いで艦船を造らせる。
特に今度の建艦計画では、従来にない画期的な大艦を造った。龍骨の長さが20余丈、2千余人の兵を乗せることができる。これを龍艦と呼ぶ。
★『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第86回)では、龍舟(皇帝用の船)とある。
この龍艦の十数隻の進水を終えると、魏の黄初5(224)年の秋8月、ほかの艦艇3千余艘(そう)を加え、さながら浮かべる長城のごとく呉へ下った。
水路は長江によらず、蔡(さい。蔡河〈さいが〉)や潁(えい。潁水〈えいすい〉)から湖北の淮水(わいすい)へ出て、寿春(じゅしゅん)や広陵(こうりょう)へ至る。
そこで揚子江(ようすこう。長江)を差し挟んで呉の水軍と大江上戦を決し、ただちに対岸の南徐(なんじょ)へ敵前上陸して、建業に迫るという作戦の進路を選んだ。
一族の曹真(そうしん)が先鋒を務め、張遼(ちょうりょう)・張郃(ちょうこう)・文聘(ぶんぺい)・徐晃(じょこう)などの老巧な諸将が補佐する。
許褚(きょちょ)や呂虔(りょけん)らは中軍護衛(ちゅうぐんごえい)として、皇帝親征の傘蓋や旌旗(せいき)を真ん中に大軍を寄せていた。
★やはりというか、先の第259話(01)の話と矛盾がある。張遼や徐晃は列侯(れっこう)に封ぜられ、領内に老いを養っていたのでは……。再び起用されたのだろうか? なお、『三国志演義』(第85回)の記述には同様の矛盾がない。
(02)建業
呉は大きな衝撃を受ける。孫権(そんけん)は狼狽(ろうばい)し、群臣も色を失った。
ここで顧雍(こよう)が説く。
「この魏軍は呉蜀同盟が生んだものであるから、当然、蜀は国を挙げて呉を助ける義務がある。すぐに諸葛亮(しょかつりょう)に告げ、長安(ちょうあん)方面を突かせる一方、呉は南徐の要害を固めなくてはなりません」
だが事態は、到底そのような小策では、如何(いか)んとも防ぎがたく思われた。
孫権が荊州(けいしゅう)から陸遜(りくそん)を呼び戻そうとすると、徐盛(じょせい)があえて恨めしげに唱える。
「大王。大王の臣下はみな御手足と思っておりますのに、何とて御自らの手足をさように軽んじあそばされますか」
徐盛の明答を聞くと、孫権は彼を国防総司令官として起用。魏の大艦隊はすでに淮水まで下り、先鋒は早くも寿春へ近づきつつあると伝わる。今や呉の全将士は国防の一線に生死を賭け、総力を結集していた。
(03)徐盛の本営
ところが新任の徐盛の下知に対し、事ごとに反抗的な困り者が現れる。孫権の甥にあたる孫韶(そんしょう)で、まだ若い将軍だった。
★このとき徐盛の本営がどこにあったのか、よくわからなかった。
★孫韶は中平(ちゅうへい)5(188)年生まれで、この年(呉の黄武〈こうぶ〉3〈224〉年)には37歳だった。将軍としては若いかもしれないが、彼を青年と表現していたのはどうかと思う。
孫韶が持論を主張する。
「一刻も早く、軍馬をそろえて江北(こうほく)へ渡り、魏の水軍を淮南(わいなん)で撃破すべきだ。国防国防と騒いで、むなしく敵を待っていては、今に魏の大軍がこれへ上陸した場合、国中の民が震動して収拾のつかない結果になろう」
徐盛は大反対で、こう唱えて万端の備えを進めていた。
「大江を渡って戦うということが、すでに味方の大不利である。魏の先手はことごとく老巧な名将をそろえておる。軽々しい奇襲などで破れるものではない。彼が勢いに乗って江を渡り、これへ集まってきたときこそ、魏を殲滅(せんめつ)するときだ」
それでも孫韶は、徐盛の消極戦術の非を鳴らし、江北へ押し渡り、曹丕の首級を挙げてみせると、あくまでも決死行の許しを求めた。
しまいには徐盛も堪忍袋の緒を切り、軍律を乱す不届き者として斬首を命ずる。武士たちは孫韶を轅門(えんもん。陣中で車の轅〈ながえ〉を向かい合わせ、門のようにしたもの)の外へ押し出したが、孫権がかわいがっている甥なので、執刀を譲り合い、時を移していた。
その間に誰か、呉宮へ告げた者があったとみえ、驚いた孫権が自ら馬を飛ばして駆けつける。孫韶は叔父の手に救われると、このときとばかりに事情を訴えた。
話を聞いた孫権が、孫韶を連れて徐盛のもとへ行くと、徐盛は色を正して責める。
「臣を任じて大都督(だいととく)としたもうたのは、あなたではございませんか。今それがしが軍紀の振粛を断行するにあたり、その大王ご自身が、軍法をお破りになるとは何事ですか」
孫権も正しい理の前にはひと言もなく、ただ孫韶の若年と血気の勇を理由にして、「許せ。まあ、まあ、このたびだけは許してやってくれ」と、繰り返すのみだった。
管理人「かぶらがわ」より
曹丕自ら、大艦隊をひきいて南下します。陸遜を呼び戻そうとする孫権を前に、名乗りを上げた徐盛。そして持論を曲げない孫韶。当時の37歳は若くないよなぁ、と思われた第261話でした。たぶん、孫韶が史実より若く設定されているのでしょうね。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
Yahoo!ショッピングで探す 楽天市場で探す Amazonで探す
記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます