魏(ぎ)の大攻勢に対し、諸葛亮(しょかつりょう)は孫権(そんけん)の動きを抑えるべく、鄧芝(とうし)を呉(ご)へ遣わした。
鄧芝は堂々たる態度で孫権との会見に臨み、蜀呉(しょくご)の国交回復の足場を築くことに成功。鄧芝の帰国に際し、孫権は答礼使として張蘊(ちょううん)を同行させる。
第260話の展開とポイント
(01)建業(けんぎょう)
要するに陸遜(りくそん)の献策は、一つは魏の求めに逆らわず、二つは蜀との宿怨を結ばず、三つはいよいよ自軍の内容を充実して形勢のよきに従う、ということである。
呉の方針はこれを旨とし、以後、軍勢は進めたものの、あえて戦わず、諸方へ細作(さいさく。間者)を放ってひたすら情報を集め、蜀魏両軍の戦況をうかがっていた。果たせるかな、四路の魏軍は、曹丕(そうひ)の目算通り有利には進展していない。
★四路の魏軍については前の第259話(01)を参照。
まず遼東勢(りょうとうぜい)は、西平関(せいへいかん)を境として蜀の馬超(ばちょう)に撃退されている模様。
★西平関について『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注には、「(西平関は)虚構の関名」との指摘があった。
南蛮勢(なんばんぜい)は、益州(えきしゅう)の南方で蜀軍の擬兵(敵を欺くための偽りの兵。疑兵)の計に遭って壊乱。上庸(じょうよう)の孟達(もうたつ)は噓か本当か病と称して動かず。
中軍の曹真(そうしん)も敵の趙雲(ちょううん)に要害を占められ、陽平関(ようへいかん)を退き、さらに斜谷(やこく)からも退き、まったく総敗軍の実状であると伝えられた。
孫権も、今となっては心から僥倖(ぎょうこう)を祝し、その善言を献じた陸遜に、いよいよ信頼を加えた。
そこへ、蜀から鄧芝という者が使者として来たことが披露される。孫権は張昭(ちょうしょう)の意見に従い、使者がどのような人物か試すことにした。
武士の手で殿前の庭に大きな鼎(かなえ)が据えられ、これに数百斤の油を入れると、薪(まき)を積み、ふつふつとたぎらせる。
この日、客館を出て、初めて宮門へ導かれた鄧芝は、しごく粗末な衣冠を着け、元来、風采も上がらない男なので、供の者かと間違われるほど、威儀も作らず、簡単に案内者の後からついてきた。
だが、呉宮に満つる剣槍(けんそう)に少しも恐れる色はなく、大釜に煮え立つ油の炎を見ても、ほとんど何の感情も表さない。ただ階下へ来るとニコとして、孫権の座壇を振り仰いでいた。
★井波『三国志演義(5)』(第86回)では、鄧芝は丁寧に会釈しただけで、平伏しようとしなかったとあった。
孫権は、簾(れん)を巻かせて見下ろすやいな、大喝して無礼を叱る。
鄧芝は昂然(こうぜん)と、突っ立ったまま言った。
「上国の勅使は、小邦の国主に拝をしないのが習いである」
すると孫権は、顔を油の鼎のようにして言った。
「小癪(こしゃく)な奴。汝(なんじ)、三寸の舌をもって酈食其(れきいき)が斉王(せいおう)を説いた例にでも倣おうとするのか?」
「哀れむべき奴。たとえ汝にいにしえの随何(ずいか)や陸賈(りくか)のごとき弁ありとも、やわかこの孫権の心を動かしうべきか。帰れ帰れ!」
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「酈食其は劉邦(りゅうほう)の臣下。斉国へ赴き、弁舌でこれを降した。しかし、直後に韓信(かんしん)が独断で斉国を攻めたため、酈食其は怒った斉王に煮殺された」という。
★同じく新潮文庫の註解によると、「(随何と陸賈は)ともに劉邦の臣。外交で活躍した」という。
ここで鄧芝が孫権の態度をなじると、さすがに呉の衆臣も恥じる。
孫権もやや自分の小量を顧みたものか、にわかにいかめしい武士をみな退け、初めて鄧芝を殿上の座に迎え上げた。
改めて来意を問うと鄧芝は、「最前、大王がおっしゃった通り、蜀呉両国の修交を求めに来ました」と答える。
さらに蜀と呉の状況を説いて提携を促すが、孫権は無言のまま。
また鄧芝は、決して私一個の功のため、この言を吐くものではないと言う。一に両国の平和を願い、蜀のため、呉のために、必死となって申し上げたのだと。
そのうえ「ご返事はお使いをもって蜀へお達しください。もう申し上げるべき使者の言は終わりましたから、この身は自ら命を絶ち、その偽りでないことを証明してお目にかけます」と言い切るや、やにわに座から走りだし、階欄の上から油の煮え立つ大鼎の中へ躍り込もうとする。
孫権が大呼したため、堂上の臣が駆け寄り、あわやと見えた鄧芝を後ろから抱き止めた。
俄然(がぜん)、孫権は態度を変える。たちまち侍臣に命じて後堂に大宴を設け、上賓の礼を執って、鄧芝を迎え改めた。
こうして鄧芝の使命は大成功を収める。蜀呉の国交回復はここにその可能性が約されて、彼も厚くもてなされ、10日間も建業に逗留(とうりゅう)した。
鄧芝が帰国するにあたっては、呉臣の張蘊が改めて答礼使に任ぜられ、ともに蜀へ行くことになった。
★張蘊は、正史『三国志』や『三国志演義』では張温(ちょうおん)。ただし、先の第17話(02)で出てきた張温とは別人。
(02)成都(せいと)
しかし張蘊は、鄧芝に比べるとだいぶ人物が下らしく、「まだまだ易々と調印は許さぬ。この目で蜀の実情を見たうえのことだ。条約が成るか成らぬかは俺の復命ひとつにある」と言わぬばかりな態度で臨む。
蜀では、対呉政策の一歩にまず成功を認めたので、劉禅(りゅうぜん)以下、国を挙げて喜びの意を示し、張蘊が都門へ入る日などは大変な歓迎ぶりであった。
張蘊は余計に思い上がり、蜀の百官を尻目に見下し、殿に上っては劉禅の左に座し、傲然と虎のような格好をしていた。
3日目には彼を歓迎する宴が、成都宮の星雲殿(せいうんでん)で開かれる。この晩も張蘊は傍若無人に振る舞ったが、諸葛亮はいよいよ重く敬い、その意のままにさせていた。
張蘊が帰国する日となると、朝廷からおびただしい金帛(きんぱく)が贈られ、諸葛亮以下の文武百官も、みな錦や金銀を餞別(はなむけ)した。
(03)成都 諸葛亮邸
張蘊はホクホク顔で、諸葛亮の屋敷における最後の晩餐会(ばんさんかい)に臨む。ところがこの酒宴の中へ、ひとりの壮漢がずかずかと入ってきて言った。
「やあ、張先生。明日はお帰りだそうですな。どうでした、あなたの対蜀観察は? ははは。まあ一杯いただきましょうか」
★原文「蘊先生」だが、ここは「張先生」としておく。いくら何でも初対面の男が、先生の敬称付きであっても、賓客の名を呼ぶとは思えないので……。
張蘊が不快な顔で、何者なのか尋ねると、諸葛亮は、学士の秦宓(しんふく)だと紹介する。
張蘊があざ笑うと、秦宓はあえて大言を放ち、張蘊の発する難問に次々と答えてみせた。
張蘊は口をつぐみ、また自ら恥じたもののように、いつの間にか退席してしまう。
諸葛亮は、彼に恥を負わせたまま蜀を去らせては、と大いに心配。張蘊を別室へいざなうと、深く謝して慰める。
「足下(きみ)はすでに天下を安んじ、国家を経営する実際の学識に達しておられるが、秦宓のごときは、まだ学問を学問としか振り回せない若輩で、いわば大人と子どもの違いですから、まあお許しください。酒間の戯談(じょうだん)は、誰も一時の戯談としか聞いておりませんから」
翌日、張蘊は機嫌を直して帰国したが、その際、また蜀から回礼使として鄧芝が同行。ほどなく蜀呉同盟は成立を見、両国の間に正式な文書が取り交わされた。
管理人「かぶらがわ」より
鄧芝が呉へ遣わされ、孫権を説き伏せたことは正史『三国志』に見えますが、鼎のエピソードは見当たりません。これは不要な演出だったかもしれないですね。
また、張蘊(張温)が蜀を訪れた際に秦宓と問答した話は、『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・秦宓伝)に見えます。
ただしここでは、(蜀の)建興(けんこう)2(224)年に丞相(じょうしょう)の諸葛亮が益州牧(えきしゅうぼく)を兼ねることになったとき、秦宓を別駕(べつが)に抜てきし、続いて左中郎将(さちゅうろうしょう)・長水校尉(ちょうすいこうい)としたとありました。
なので、この第260話では一学士として扱われていた秦宓ですが、実際はそれなりの官職にあったと言えます。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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