吉川『三国志』の考察 第289話「二度祁山に出づ(ふたたびきざんにいづ)」

陳倉城(ちんそうじょう)を守る魏(ぎ)の郝昭(かくしょう)は、蜀(しょく)の大軍に包囲されながらもよくしのいだ。諸葛亮(しょかつりょう)は、予想外の苦戦に焦りを募らせる。

このとき姜維(きょうい)が、陳倉の小城にこだわることはないと進言。これを聞いて納得した諸葛亮は、陳倉の谷に魏延(ぎえん)の一軍を留めると、自身は主力軍とともに、間道から祁山(きざん)へ進んだ。

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第289話の展開とポイント

(01)漢中(かんちゅう)滞陣時の諸葛亮

諸葛亮は漢中に滞陣していた1年の間に、軍の機構からその整備や兵器にまで大改善を加えていた。

例えば突撃や速度の必要には、散騎隊(さんきたい)と武騎隊(ぶきたい)を新たに編制し、馬に練達した将校を配属。

また、従来は弩弓手(どきゅうしゅ)として位置も活用も低かったものを、新たに自身が発明した威力のある新武器を加えて、独立した部隊を作る。この部将を連弩士(れんどし)と呼んだ。

連弩は彼が発明した新鋭器で、鉄箭(てっせん。鉄製の箭〈矢〉)8寸ほどの短い矢が、一弩を放つと十矢ずつ飛ぶもの。

さらに大連弩は飛槍弦(ひそうげん)とも言い、これは一槍よく鉄甲をも通し、5人掛かりで弦を引いて放つ。別に、石弾を撃つ石弩(せきど)もある。

輜重(しちょう)には、木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)と称する特殊な運輸車を考案して、兵の鉄帽から鎧(よろい)に至るまでを改良した。

このほかにも、諸葛亮の知囊(ちのう)から出たものと後世に伝わっている武器は数限りなくある。

しかし何よりも大きなものは、彼によってなされた兵学の進歩。八陣の法など、従来の孫呉(そんご)や『六韜(りくとう。中国古代の兵法書)』についても著しい新味が顕わされ、後代の戦争の様相にも画期的な変革をもたらした。

(02)陳倉

ということで、魏の郝昭の籠もった陳倉の小城は、わずか3、4千の寡兵をもって、それらの装備を持つ蜀の大軍に囲まれたのだから、苦戦なこと言うまでもない。

にもかかわらず、容易に抜かせなかったのは、実に、守将の郝昭の惑いなき義胆忠魂の働き。また名将の下に弱卒なしの城兵3千が、一心一体よくこれを防ぎ得たものと言うほかない。

魏の援軍が来ては一大事と、ついに諸葛亮は自ら陣頭に出て、苛烈なる総攻撃を開始した。雲梯(うんてい)や衝車(しょうしゃ)といった新兵器まで投入する。

雲梯とは、高さのある梯子櫓(はしごやぐら)。櫓の上は盾をもって囲み、そこから城壁の内を見下ろし、連弩や石弩を撃ち込む。

敵がひるんだと見れば、別の短い梯子を無数に張り出し、ちょうど宙に橋を架けるような形を作る。この橋を兵が猿(ましら)のごとく渡り、城中へ突入していく。そういう器械だった。

また衝車というのは、それを自由に押す車。この車には、起重機のような鉤(かぎ)が付いている。台上の歯車を兵が3人掛かりで回すと、網によって、地上の物を何でも雲梯の上まで運び得る仕掛けになっていた。

これらが何百台となく、城壁の四方から迫ってきたのを見ると、郝昭は火矢を備えて待ち受ける。そして鼓を合図に火矢を放ち、油の壺(つぼ)を投げ始めた。そのため、雲梯も衝車もことごとく炎の柱になってしまい、蜀兵の焼け死ぬことは酸鼻を極めた。

続いて諸葛亮は、壕(ほり)を埋めるよう命ずる。土を掘らせ、昼夜分かたず、壕埋めにかからせた。

すると城兵もまた、その方面の城壁を、いやがうえにも高く築いて対抗した。

さらば地の底からと、諸葛亮は地下道を掘削させ、地底から城中へ入ろうとする。

『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第97回)では、この作業を指揮していたのは廖化(りょうか)。

郝昭はこの動きを悟ると、城中から坑道を作らせ、横に長く掘った坑に水を流し入れた。

さしもの諸葛亮も攻めあぐねる。およそ彼が、これほど頭を悩ませた城攻めは前後にない。

「すでに20日になる」と、諸葛亮が敵城を眺めて嘆声を発しているところへ、早馬が到着した。魏の先鋒、王双(おうそう)の旗が近づきつつあるという。

諸葛亮は足ずりしながらも、謝雄(しゃゆう)と龔起(きょうき)に3千騎ずつを付け、にわかに王双のもとへ差し向けた。同時に城兵の突出を恐れて、陣を20里外へ退く。

(03)陳倉の近郊 諸葛亮の本営

そのうちに、先に出向いた蜀勢が散々な姿となって逃げ帰る。彼らはみな、声もただならず伝えた。

「わが大将の謝雄さまは、敵の王双に斬って落とされ、二陣に続いていかれた龔起さまも、王双のために一刀両断にされました。王双は抜群で、とても当たり得る者はありません」

諸葛亮は大いに驚き、廖化・王平(おうへい)・張嶷(ちょうぎ)に命じ、さらに新手の軍勢を差し向ける。

(04)陳倉へ向かう王双

その間にも、陳倉を救うべく大挙急いできた魏の援軍は、猛勇の王双を先鋒として、昼夜の行軍を続けつつあった。

これを防ぎに向かった蜀軍は、第一回に撃攘(げきじょう)を受け、第二回に衝突した廖化と王平らの軍勢も、ほとんど怒濤(どとう)の前に手をもって戸を並べるがごとき脆(もろ)さでしかない。

乱軍中、蜀の張嶷は王双に追いかけられ、彼が誇るところの重さ60斤という大刀を頭上に見る。そして危うく逃げんとした背中に、流星鎚(りゅうせいつい)を叩きつけられたのである。

流星鎚というのは、重い鉄丸を鎖に付けた一種の分銅だ。王双はこれを肌身に数個持っていて、ここぞと思うとき、いきなり敵に投げつける。

井波『三国志演義(6)』の訳者注によると、「流星鎚は飛鎚。紐(ひも)の両端に鎚(おもり)を付け、敵に当てるほうを正鎚、自分の手に残すほうを救命鎚と称する」という。

廖化と王平は張嶷を救い出して退却したが、張嶷は血を吐き、生命のほどもどうかと危ぶまれる容体だった。

前進に次ぐ前進。王双ひきいる2万の先鋒は、当たる者なき勢いで陳倉城へ近づく。狼煙(のろし)を上げて城中に到着を知らせ、蜀兵を一掃し、城外一帯に布陣を終えた。

延々と大小の車を連ね、その上に材木を積む。柵を結び、塹壕(ざんごう)を巡らせる。その堅固なこと比類もない。

(05)陳倉の近郊 諸葛亮の本営

これを眺めては、諸葛亮も手を下すすべがなく、いわゆる百計窮まるの日を幾日かむなしく過ごした。

ここで姜維が言う。

「それがしの思うに、かかるときは、むしろ『離(り)』ということが大事ではないかと考えます。ご執着から離れることです」

「この大軍を擁しつつ、むなしく陳倉の一城に拘泥して心まで捕らわるるこそ、まんまと敵の思うつぼに落ちているものではございますまいか」

彼のひと言に諸葛亮も大いに悟るところがあった。一転して方針を変えたのだ。

すなわち、陳倉の谷には魏延の一軍を留め、対峙(たいじ)の堅陣を張らせる。また、近くにある街亭(がいてい)方面の要路は、王平と李恢(りかい)に固守を命じた。

こうして諸葛亮自身は、夜のうちに密かに陳倉を脱する。馬岱(ばたい)・関興(かんこう)・張苞(ちょうほう)らの大軍を連れて、遠く山また山の間道から斜谷(やこく)を越え、祁山へ出ていったのである。

(06)長安(ちょうあん)

魏の大都督(だいととく)の曹真(そうしん)は、王双からの捷報(しょうほう)を聞いて限りなく喜び、営中は勝ち色に満ちた。

そこへ先鋒の中護軍(ちゅうごぐん)の費耀(ひよう。費曜)から、祁山の谷あいでうろついていたという蜀兵が生け捕られてくる。

曹真は、敵の間諜(かんちょう)だろうと面前に引かせ、自ら調べてみた。蜀兵は細作(さいさく。間者)ではないと言い、さらに平伏して言う。

「一大事をお告げしたいのですが、人のおるところでは申しかねます。どうかご推量くださいませ」

曹真は乞いを容れ、左右の者を退ける。すると蜀兵は初めて、「私は姜維の従者です」と打ち明けたうえ、懐中から一書を取り出した。曹真が書状を開いてみると、紛れもなく姜維の文字。

曹真が、なぜ姜維の筆跡を知っていたのかは謎。しかも書状を見るなりそれとわかるほどとは……。ここは都合がよすぎる設定に見えた。

読み下していくと、誤って諸葛亮の詭計(きけい)に陥ち、世々魏の禄を食みながら、いま蜀人のうちにあるも、その高恩と、天水郡(てんすいぐん)にある郷里の老母とは、忘れんとしても忘るることができない、と言々句々、涙をもってつづってある。

あれだけ姜維が母思いの孝子だ何だと言っていたわりに、その母の身が天水郡(の冀城〈きじょう〉)から移されていないという設定も謎。

ちなみに井波『三国志演義(6)』(第95回)では、街亭の敗戦を受け、諸葛亮が全軍退却の手配を整えていた際、「腹心の部下を冀県に派遣し、姜維の老母を引き取り、漢中に送り届けることとした」という記述があった。だがこれに相当する吉川『三国志』の第285話(09)では、姜維の老母の身を天水郡から移したという記述がない。

そのうえで、このとき姜維が曹真に送った書状の中で、老母が(蜀軍の撤退後、再び魏領となった)天水郡に残っていることに触れていた。これはなかなか深い設定だと思う。孝子と評判が高かった姜維の母が天水郡に残ったまま、だということにしておけば、姜維の手紙の内容に真実味が増す効果がある。

井波『三国志演義(6)』(第97回)の姜維の手紙では、上のような事情から老母のことには触れていないが、これだと老母を(蜀領である)漢中に残したまま、再び魏に降ることになり、いかにも噓くさく見えないだろうか?

そして、終わりにはこう述べられていた。

「しかし、待ちに待っていた時は眼前に来ている。もし姜維の微心を哀れみ、この衷情を信じたまわるならば、別紙の計を用いて蜀軍を討ちたまえ」

「私は身を翻して、諸葛亮を擒(とりこ)となし、これを貴陣へ献じておみせする。ただ願わくは、その功をもって、どうか再び魏に仕えることができるように、お執り成しを仰ぎたい」

書面にあったように、内応の密計というものが、別の一葉に子細に記してあった。曹真は動かされる。たとえ諸葛亮は捕らえられないまでも、いま蜀軍を破り、あの姜維を味方に取り戻せば、一石二鳥の戦果だ。

曹真は使いをねぎらい、日を約して帰す。その後で費耀を呼び、姜維が伝えてきた計をこのように示した。

「つまり魏から兵を進めて、蜀軍を攻め、偽り負けて逃げろと、彼は言うのだ。そのとき姜維が蜀陣の中から火の手を上げるゆえ、それを合図に攻め返して、挟み撃ちにしようという策略。何と、またなき兵機ではないか」

だが、費耀は喜ばない様子を見せて言う。

「諸葛亮は知者です。それに姜維も隅に置けない人物です。おそらくは詐術でしょう」

曹真は、そう疑ったら限りがないと応ずるが、なお費耀が言った。

「ともあれ、都督ご自身がお動きあることは賛成できません。まず、それがしが一軍をもって試みましょう。もし功あるときは、その功は都督に帰し、とがめあるときは、それがしが責めを負います」

結局、費耀が5万の兵をひきいて、斜谷道へ進発することになった。

(07)斜谷道

費耀は峡谷で、蜀の哨兵に出会う。その逃げるを追い進むと、いくらか有力な蜀勢が寄せ返してくる。一進一退。数日は小競り合いに過ぎた。

ところが、日の経つに従って水が染み込むように、いつの間にか蜀軍が増えている。逆に魏軍は、敵の奇襲戦略に昼夜気を遣うので、全軍ようやく疲れかけていた。

するとその日、四峡の谷に、鼓角の響きや旗の嵐が忽然(こつぜん)と吹き起こり、一輛(いちりょう)の四輪車が、金鎧(きんがい)鉄甲の騎馬武者に囲まれて突出してきた。

費耀は遥かにそれを望み、左右の部将を顧みて言う。

「ひと当て強く押して戦え。そして頃合いよく偽り逃げろ。退くはこちらの計略だ。やがて敵の後陣から濛々(もうもう)と火の手が上がるだろう。それを見たら金鼓一声、猛然と引き返して撃滅にかかれ。敵の中には魏に応ずる者があるゆえ、わが勝利は疑いない」

費耀は馬を進めて、車上の諸葛亮を罵る。

諸葛亮は一眄(いちべん)を投げ、「汝(なんじ)何者ぞ。曹真にこそ言うべきことあり」と、相手にしない。

費耀が怒り猛(たけ)ってやり返すと、諸葛亮は羽扇を上げる。たちまち三面の山から、馬岱や張嶷などの軍勢がなだれ下りてきた。

ここで張嶷の軍勢もなだれ下りていたが……。この第289話(04)での重傷はどうなったのだろうか?

これを見た魏勢は、早くも予定の退却にかかる。戦っては逃げ、戦うと見せては逃げ、後ろばかり振り向いていた。今に蜀陣の後方から火の手が上がるか、煙が上るかと。

費耀も馬上でそればかり期待しながら、峡山の間を30里ほども退却し続けていたが、そのうち蜀の後陣から、黒煙が立ち上るのが見えた。

費耀は一転し、馬首を向け直すやいな、引き返して蜀勢を挟撃しろと大号令する。

大将の予言が的中したので、魏の将士は勇気百倍。それまで追撃してきた蜀勢へ、急に怒濤となって吠えかかった。

蜀勢は食い止められただけではなく、魏勢の猛烈な反撃に遭って、形勢はまったく逆転する。潮のような声を上げ、我先にと逃げ始めた。

費耀はこれを急追し、5万の魏兵もまるで山津波のごとく谷を縫って流れる。すでにして姜維が火をかけた山々の火気が身近く感じられてきた。

だが、ついに敵はその影を絶ち、どこへ隠れたのか見えなくなる。行き当たった谷口は岩石や巨材を積んで封鎖してあった。

ふと反軍の姜維の動きを疑ったとき、費耀は突如、身震いに襲われる。計られたと感じたからだ。

けれど、すでに遅かった。大木・大石・油柴(ゆしば)・硝薬などが、轟々(ごうごう)と左右の山から降ってくる。馬も砕け、人もつぶされ、阿鼻叫喚がこだました。

費耀は山間の細道を見つけて奔り込む。すると谷の懐から姜維の軍勢が駆け出してくる。

費耀はわめきかかったものの、とうてい歯が立たない。汚くも再び逃げ出した。しかし、いつの間にか帰り道もふさがれている。

山上から多くの車輛が投げ落とされ、それに油や柴を投げ積み、松明(たいまつ)が放られたのだ。山の高さほどの炎が燃え上がっている。

費耀は立ち往生したが、むなしく焼け死にはしない。その剣を頸(くび)に加えて、自ら刎(は)ねたのだった。

「降伏する者はこれへすがれ」と、絶壁から幾筋もの助け網が垂らされる。魏の兵は我先にとつかまったが、半数も助からなかった。

のち姜維は、諸葛亮の前に出て謝する。

「この計は私の案でしたが、どうも少しやり損ないました。肝心な曹真を討ち漏らしましたから……」

諸葛亮は、それを評して言った。

「そうだな。惜しむらくは、大計を用いすぎた。大計はよいが、それを少し用いて大なる戦果を得ることが、機略の妙味だが――」

管理人「かぶらがわ」より

郝昭の奮闘により、ひとまず陳倉城から離れた諸葛亮。そして姜維の大計に陥ちたのは、曹真ではなく費耀でした。

ですが費耀の態度は、曹真に姜維の密計を聞いた段階から立派だったと思います。曹真自身は命拾いしたものの、よい部下を亡くしてしまいましたね。

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