吉川『三国志』の考察 第179話「鳳雛去る(ほうすうさる)」

周瑜(しゅうゆ)の逝去を受け、孫権(そんけん)は遺言通りに魯粛(ろしゅく)を後任の大都督(だいととく)とした。

周瑜の弔問に駆けつけた諸葛亮(しょかつりょう)は、帰りの江岸で旧知の龐統(ほうとう)と再会。劉備(りゅうび)への仕官を勧めたうえ、自筆の推薦状も渡す。

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第179話の展開とポイント

(01)南徐(なんじょ。京城〈けいじょう〉?)

喪旗を垂れ、柩(ひつぎ)を載せた船は哀々たる弔笛を流しながら夜航し、巴丘(はきゅう)を出て呉(ご)へ下っていった。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「(ここで出てきた巴丘は巴丘山のことで、)巴丘山は周瑜が死んだ場所である」という。

また「巴丘という地名は『三国志演義』(第29回)にも、周瑜の駐屯していた県として登場するが、裴松之(はいしょうし)は『呉書(ごしょ)・周瑜伝』の注において、巴丘山は当時(南朝宋〈なんちょうそう〉)の巴陵県(はりょうけん)であり、江西省(こうせいしょう)の巴丘県とは別の場所であると述べている」という。

『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第57回)では、周瑜の柩を巴丘に留め置いたまま、諸将は遺言状に封をして孫権のもとに急使を遣ったとある。

周瑜は遺書の中で、縷々(るる)といま倒れる無念を述べ、呉の将来を憂い、国策を記していた。そして終わりには、自分の亡き後は魯粛に大都督を任せるよう勧めていた。

孫権は張昭(ちょうしょう)ら重臣たちに励まされ、その遺言通りに魯粛を大都督に任ずる。以後、呉の軍事はすべて彼の手に委ねられた。

もちろん国葬をもって、周瑜の遺骸は厚く葬られた。だが国中が喪に服し、哀号の色もまだ拭われないうちに、一船が江を下ってきて告げる。

「元勲、瑜公(周瑜)の死を聞き、謹んで遠くよりお悔やみに来ました」

そう関門へ告げに来た者は趙雲(ちょううん)だったが、正使は諸葛亮であり、劉備の名代として従者500余を連れ上陸した。

井波『三国志演義(4)』(第57回)では、初め諸葛亮らは船で巴丘へ向かったが、その途中、すでに孫権が後任の都督に魯粛を起用し、周瑜の柩は柴桑(さいそう)へ戻ったとの情報を得たとある。なので、ここで諸葛亮を迎えた魯粛や呉の諸将は、柴桑にいたことになっていた。

魯粛は一行を迎えて対面したが、亡き周瑜の部下や呉の諸将は口々に「斬ってしまえ」などと言い、ひしめき合う。けれど諸葛亮のそばに、絶えず趙雲が油断なく目を配っているので容易に手を下せない。

諸葛亮は塵(ちり)ほどな不安も姿に留めず、周瑜の祭壇にぬかずき、やや久しく黙拝していた。

やがて携えてきた酒やその他の種々(くさぐさ)を供え、霊前に向かい恭しく自筆の弔文を読む。その声は一語一句、呉将の肺腑(はいふ)に染みた。弔文は長い辞句と切々たる名文によりつづられ、聞く者は泣くまいとしても泣かずにいられなかった。

読み終わると諸葛亮は再び地に伏して大いに泣き、哀慟(あいどう)の真情は見るも痛ましいばかりだったので、並み居る呉の将士もことごとくもらい泣きしてしまう。

初めの殺意はかえって後の尊敬となり、魯粛以下みな引き留めたが、諸葛亮は惜しまれる袂(たもと)を振り切って、その日のうちに船へ帰っていった。

ところがただひとり、城門の陰から見え隠れに諸葛亮の後をつけていく、破衣竹冠のみすぼらしい浪人者がある。

江岸で魯粛と別れて船に乗ろうとしたとき、竹冠の浪人はいきなり駆け寄りざまに臂(ひじ)を伸ばし、諸葛亮の肩を引っつかんだ。

そして「すでに周都督(周瑜)を気をもって殺しながら、口を拭き、自らその喪を弔うと称し呉へ来るなどは、呉人を盲(めしい)にした不敵な曲者(しれもの)。呉にも目明きはいるぞ」と、片手に剣を抜いて、あわや刺そうとした。

去りかけていた魯粛も仰天し、駆け戻るなり浪人の腕をつかんで振り飛ばした。

すると浪人はひょいと飛びのき、「あははは、冗談です」と、もう剣を鞘(さや)に収めていた。見れば背の低い、鼻の平たい、容貌といい風采といい、誠に人品の卑しげな男だった。

諸葛亮はニコと笑い、「やあ、誰かと思うたら龐統ではないか」と親しげに寄って、その肩を打ち叩いた。魯粛も気抜けしたり、ホッと胸をなでたりし、一笑して城内へ帰っていく。

龐統は襄陽(じょうよう)の名士のひとりで、まだ諸葛亮が隆中(りゅうちゅう)に居住していたころから、早くも知識人たちの間には、「龐統ハ、鳳凰(ほうおう)ノ雛(ひな)。孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)ハ、臥(ふ)セル龍ニ似ル」と、その将来を嘱目されていたのだった。

荊州(けいしゅう)滅亡の後、その龐統が呉の国に漂泊しているとは、かねて諸葛亮も人のうわさに聞いていたが、ここで相見たのは誠に意外だった。そこで船が纜(ともづな)を解くまでの寸間に一書をしたため、こう告げて手渡す。

「おそらく御身(あなた)の大才は呉の国では用いられまい。きみも一生そう浪人しているつもりでもあるまいから、もし志を得んと思うなら、この書を携えて、いつでも荊州へやってきたまえ」

「わが主の玄徳(げんとく。劉備のあざな)は寛仁大度、必ずきみが補佐して、きみの志もともに達することができよう」

諸葛亮の船は江をさかのぼり、遠く見えなくなる。船影が見えなくなるまで龐統は岸にたたずんでいたが、やがて飄乎(ひょうこ)としてどこかへ立ち去った。

その後、呉では周瑜の柩をさらに蕪湖(ぶこ)へ送った。蕪湖は彼の故郷であり、その地には故人の嫡子や娘などもいるし、多くの郷党もみな嘆き悲しんでいるので、名残を厚うさせたのだった。

なぜ廬江郡(ろこうぐん)舒県(じょけん)出身の周瑜の故郷を(丹陽郡〈たんようぐん。丹楊郡〉にある)蕪湖としているのかよくわからなかった。

なお井波『三国志演義(4)』(第57回)では「魯粛が(柴桑から)周瑜の柩を運んで蕪湖へ戻ると、孫権はこれを出迎え、柩の前で慟哭(どうこく)し、郷里に手厚く埋葬するようにと命じた」とある。つまり、蕪湖が周瑜の故郷であるとは書いていない。

魯粛は、ぜひ諸葛亮にも勝るところの人物を挙げたいと言い、龐統を推薦する。孫権も話を聞き、すぐ召し連れよと応じた。

しかし、やがて魯粛が尋ね当て、宮中へ連れてきたのを一見すると、孫権はひどくがっかりした顔をした。

なにぶん風采が上がらない。面は黒疱瘡(くろぼうそう)の跡でボツボツだらけだし、鼻はひしげているし、髯(ひげ)は髯というよりも、短い無精髯でいっぱいだった。

孫権は古怪を感じながら、それでも2、3の問いを試みる。

「足下(きみ)、何の芸があるか?」

龐統は答えた。

「飯を食い、やがて死ぬでしょう」

孫権が「才は?」と聞くと、龐統は「ただ機に臨んで変に応ずるのみ」と、ぶっきらぼうに答える。

いよいよ孫権は蔑みながら、「足下と周瑜とを比べたら?」と聞くと、「まず、珠と瓦でしょうな」と龐統。

「どっちが?」と孫権。「ご判断に任せます」と龐統。

明らかにこの黒あばたが、自ら珠をもって任じている顔つきなので、孫権は怒りを含んで奥へ隠れてしまった。そして再び魯粛を呼び、「あんな者はすぐ追い返せ」と言った。

魯粛は感情に曇った鑑識を極力訂正に努めたが、孫権はどうしても聞き入れない。気の毒に絶えないので、魯粛は自ら城門の外まで龐統を送っていく。

龐統は呉を去るかもしれないと言い、そのときは曹操(そうそう)に仕えるつもりだと言うので、魯粛は荊州の劉備を薦めて紹介状を手渡す。

龐統は、曹操に付くと言ったのは戯れだと、笑って別れた。

管理人「かぶらがわ」より

吉川『三国志』に限ったことではないのですが、どうして龐統がここまで冴えない風采に描かれるのか不思議。

『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・龐統伝)の冒頭に、「若いころは地味でもっさりしていたので、まだ評価する者がなかった」とあるからでしょうか?

『三国志演義』などでも彼の活躍が盛られていますけど、史実のイメージとはどうも違うのですよね……。

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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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