赤壁(せきへき)の戦いにおける大勝の余勢を駆り、孫権(そんけん)は自ら大軍をひきいて合淝(がっぴ。合肥)を攻めた。しかし曹操(そうそう)配下の張遼(ちょうりょう)に加え、その副将たる李典(りてん)と楽進(がくしん)の前に戦況は振るわない。
さらに、孫策(そんさく)の時代から仕えてきた太史慈(たいしじ)が裏をかかれ、合淝城内へ誘い込まれた末に壮絶な戦死を遂げる。
第171話の展開とポイント
(01)その後の劉備(りゅうび)
ほどなく劉備は荊州(けいしゅう)へ引き揚げる。中漢(ちゅうかん)9郡のうち、すでに4郡は彼の手に収められた。
★中漢9郡がよくわからず。荊襄(けいじょう)9郡と同義か?
★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「(荊襄9郡は)荊州を指す。後漢(ごかん)末、荊州の治所が襄陽(じょうよう)に置かれたことからこの名がある。後漢の初期には荊州に7郡が置かれていたが、後に襄陽と章陵(しょうりょう)の2郡が加えられた」という。
なお范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』(郡国志〈ぐんこくし〉)によると、荊州の7郡というのは南陽(なんよう)・南郡(なんぐん)・江夏(こうか)・零陵(れいりょう)・桂陽(けいよう)・武陵(ぶりょう)・長沙(ちょうさ)のことだと思われる。ただ、なぜ劉備の地盤に襄陽や江夏が含まれていないのかは気になる。一応、まだ劉琦(りゅうき)が荊州の主だからという配慮なのだろうか?
ここに劉備の地盤は、狭小ながら初めて一礎石を据えたものと言っていい。魏(ぎ)の夏侯惇(かこうじゅん)は襄陽から追い落とされ、樊城(はんじょう)へ引き籠もる。彼についていかずに、身を転じて劉備の勢力に付く者も多かった。
また劉備は、北岸の要地である油江口(ゆこうこう)を公安(こうあん)と改め、一城を築いて軍需品や金銀を蓄える。
★ここでは油江口が、何の北岸という意味なのかよくわからず。長江(ちょうこう)と油江の合流地点だったというが、この地に築かれた公安城との位置関係もはっきりしなかった。
こうして北面、魏をうかがい、南面、呉(ご)に備えた。風を慕って、たちまち商賈(しょうこ)や漁夫(りょうし)の家が市をなし、四方から賢士や剣客の集まってくる者、日を追うて増えていた。
(02)合淝(合肥)
一方で呉の主力は赤壁の大勝後、余勢をもって合淝城を攻めていた。ここの守りには魏の張遼が立て籠もっている。先に曹操が都(許都〈きょと〉)へ帰るにあたり、特に彼に託した重要地のひとつだった。
赤壁で大勝した呉軍も、合淝を攻めにかかってからは一向に振るわない。それもそのはずで、張遼の副将には李典と楽進という、魏でも有名な猛将が城兵を督していたのである。
寄せ手は連攻連襲を試みたが、不落の合淝に当たり疲れて城外50里を遠巻きにし、「そのうちに食糧がなくなるだろう」と、そら頼みに頼んでいた。
(03)合淝の郊外 孫権の本営
そこへ魯粛(ろしゅく)が来ると、孫権は馬を下りて陣門に出迎える。これにはみな驚いた。しかし魯粛は、この程度の優遇では私の功を顕すに足らないと言う。
わが君が一日も早く九州(天下全域)をことごとく統べ治められ、呉の帝業を万代になされ、そのときに安車蒲輪(あんしゃほりん)をもってそれがしをお迎えくだされたら、魯粛の本望も初めて成れりというものだと。
★安車は老人や女性が座って乗れる車。蒲輪は(安車の)車輪を蒲(カバ)という草で包み、振動を抑える配慮。
ふたりは手を打って快笑。ここで魯粛は、周瑜(しゅうゆ)が金瘡(きんそう。刀傷や矢傷)の重体で倒れたこと、荊州・襄陽・南郡の3つの要地を劉備に取られたことを伝えた。
★荊州・襄陽・南郡と併記されることについては、先の第168話(17)を参照。
こう話しているところへ、合淝の張遼から決戦状が届く。これを受け翌日の早朝、孫権は陣門を開くと、自身が先に立って打って出る。
(04)合淝の城外
合淝からも張遼を真ん中に、李典や楽進などの主なる武将は総出となって押し寄せた。
張遼が孫権を目がけて近づくと、大喝して太史慈が立ちふさがる。太史慈は呉祖の孫堅(そんけん)以来仕えてきた譜代の大将であり、しかも武勇は少しも老いを見せていない。
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「太史慈が呉に仕えたのは孫策の時代から。初版のみ吉川は呉祖孫策としていたが、呉祖は孫堅である」という。
★太史慈が孫策に仕えたことについては、先の第58話(03)を参照。
太史慈は張遼と80余合の烈戦に及んだが、勝負は容易につかなかった。
この間に李典と楽進は大音を上げて味方を励まし、孫権に向かってまっしぐらにおめきかかる。孫権に李典の槍(やり)が迫ったとき、横合いから宋謙(そうけん)がぶつかっていった。
★『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第53回)では、このとき孫権に迫ったのは楽進で、これを防ぎにかかったのが宋謙と賈華(かか)になっている。
これを見た楽進が間近から鉄弓を射ると、矢は宋謙の胸板を射抜く。
★井波『三国志演義(4)』(第53回)では、宋謙を射殺したのは李典。
宋謙が落馬したとたん、孫権は砂煙を後にして逃げ走った。太史慈と張遼はまだ戦っていたが、呉の中軍の崩れから敵味方の怒濤(どとう)に押され、そのまま引き分ける。
孫権は逃げる途中にも幾度か危機にさらされたが、程普(ていふ)に救われて、ようやく無事なるを得た。
(05)合淝の郊外 孫権の本営
帰陣した孫権が宋謙を亡くしたことを痛哀していると、長史(ちょうし)の張紘(ちょうこう)が、こういう失敗はよき教訓だと諫める。
血気に逸(はや)りがちな孫権に、みなしばしば心を寒くしているとして、匹夫の勇は抑え、王覇の大計にお心を用いてほしいとも言った。
孫権も理に服して打ちしおれていたが、その翌日、太史慈が来て献策した。自分の部下に戈定(かてい)という者がいるが、これが張遼の馬飼いと兄弟なのだと。よって密かに通じて城中から火の手を上げ、張遼の首を取ってみせんと言っていると。
太史慈が5千騎を貸してほしいと言うと、たちまち孫権は心を動かす。戈定は昨日の合戦で敵勢に紛れ、難なく城中に入り込んでいるという。
(06)合淝の城内
その晩、張遼の馬飼いと戈定は、人なき暗がりでささやき合っていた。
丑(うし)の刻(午前2時ごろ)を期し、戈定が馬糧小屋(まぐさごや)をはじめ諸所に火を付けて回る。一方の馬飼いは、謀反人だ、裏切り者だ、と怒鳴って回る。そして、どさくさ紛れに西門を開く。こういう手はずになっていた。
★馬飼いが馬糧小屋に火を付けたほうがしっくりくる気もするが、このあたりの会話から手はずを推測した。もしかしたら役割は逆かも?
★井波『三国志演義(4)』(第53回)では、やはり馬飼いが火を付ける役で、戈定が「謀反だ!」と叫んで回る役になっていた。
張遼は昨日の城外戦で大きな戦果を上げたにもかかわらず、部下に恩賞も分けず、鎧(よろい)の緒(紐〈ひも〉)すら解いていなかった。多少は不平の気を帯びた諸将が、暗に彼の小心を笑う。
だが張遼は、今宵は特に夜回りを厳しくし、物の具を解かず、防備の気を緩ませないようにと伝えていた。
するとその夜の深更(深夜)に至って、「謀反人があるぞっ!」「裏切り者だ! 裏切り者だ!」という声が聞こえだす。
張遼に狼狽(ろうばい)はなく、寝所から出て城中を見回ると、濛々(もうもう)と何か煙っており、諸所には赤い火光も見えた。
張遼は駆けつけた楽進を落ち着かせ、怒鳴る声はふた色ぐらいしかなかったと話す。おそらく、一両人(ひとりかふたり)の者が城中を攪乱(こうらん)するためにやった仕事だろうとも。
楽進を城兵の鎮めに向かわせた後、李典がふたりの男(戈定と張遼の馬飼い)を縛って連れてくる。
張遼はふたりを斬らせたが、かねて示し合わせていた寄せ手の一軍と首将の太史慈は、火の手が上がったとばかりに城門へ殺到。
とっさに悟った張遼は、わざと城兵に、「謀反人があるぞ!」「裏切り者だぞ!」と諸方で連呼させながら、西の一門を内から開かせた。
太史慈がその門からおめき込むと、とたんに一発の鉄砲が轟然(ごうぜん)と四壁や石垣を揺るがし、櫓(やぐら)の陰や剣塀の上から滝のような矢が降り注ぐ。
太史慈は急に引き返したが、一瞬の間に全身に矢が刺さり、まるで針鼠(ハリネズミ)のようになっていた。
李典や楽進らは、図に乗って城中から大反撃に出る。呉軍は大損害を被り、攻囲の陣を払って南徐(なんじょ)の潤州(じゅんしゅう)辺りまで敗退するに至った。
★『三国志演義大事典』によると「南徐は南徐州ともいう。後漢では揚州(ようしゅう。楊州)呉郡に属した。なお、この地名が行政区画として置かれたのは、実際には南北朝(なんぼくちょう)時代の宋(そう)の時である」という。
また「『三国志演義』には南徐と潤州が並んで登場するが、このふたつは実際にはほぼ同一の場所を指している。潤州は後漢では揚州呉郡に属した。なお、この地名が行政区画として置かれたのは、実際には隋代(ずいだい)のことである」ともいう。
★同じく井波『三国志演義(4)』の訳者注にも、南徐や潤州について以下のような指摘があった。
「東晋(とうしん)時代、京口(けいこう)に徐州(じょしゅう)を僑置(きょうち。仮に移し置くこと)し、南朝の劉宋(りゅうそう)時代(420~479年)に南徐と改称した。潤州は隋代(581~617年)の州名。州の役所は延陵県(えんりょうけん)に置かれた。南徐・潤州ともに現在の江蘇省(こうそしょう)鎮江市(ちんこうし)にあたる。後漢末、孫権がこの地にいたときには京城(けいじょう)と称した」
しかもまた、譜代の大将である太史慈をも、ついにこの陣で失ってしまった。
★井波『三国志演義(4)』(第53回)では、太史慈が南徐の北固山(ほくこざん)のふもとに手厚く葬られたことや、その息子の太史亨(たいしこう)を自分(孫権)の屋敷で養育したことが書かれていた。
吉川『三国志』ではこれらに触れず、太史亨も使われていない。なお、太史亨は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・太史慈伝)では太史享(たいしきょう)とある。
管理人「かぶらがわ」より
孫権が合淝(合肥)で曹操軍と対峙(たいじ)したことや、軍勢を引き揚げたことは史実にも見えていますが、この件に太史慈は無関係です。史実における太史慈は建安(けんあん)11(206)年に亡くなっていますが、これは赤壁の戦いの前のこと。
ただ、正史『三国志』では太史慈の扱いが別格になっており、「呉書・妃嬪伝(ひひんでん)」の前に彼の伝が置かれていました。劉繇(りゅうよう)や士燮(ししょう)と同じ扱いなのですね。
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