吉川『三国志』の考察 第241話「梨の木(なしのき)」

洛陽(らくよう)に留まっていた曹操(そうそう)は、このところ体の不調を訴えることが増えていた。

そこで皆の勧めに従い、新たな宮殿の造営を決め、名工の蘇越(そえつ)に図面を描かせる。蘇越は大殿の棟木に、躍龍潭(やくりょうたん)の淵(ふち)に生えている梨の神木を使う案を示す。

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第241話の展開とポイント

(01)洛陽

戦陣にある日は年を知らない曹操も、凱旋(がいせん)して少し閑になずみ、栄耀(えいよう)贅沢(ぜいたく)をほしいままにしていると、どこが痛む、ここが悪いと、とかく体のことばかり訴える日が多くなった。

如何(いか)んせん彼も、すでに65歳という老齢(とし)である。体のままにならないのは自然だったが、まだ自分ではそう思わないらしい。

「どうもこう近ごろのように優れないのは、関羽(かんう)の霊でも祟(たた)っているのではあるまいか?」などと、ときどき気に病んだりした。

あるとき侍臣たちが勧める。

「この洛陽の行宮(あんぐう)も、もうずいぶん殿宇が古くなっていますから、自然怪異(けい)のことが多うございます。居は気を変えると申しますから、別に新殿を一宇お建てになられてはいかがですか?」

曹操は、以前から建始殿(けんしでん)と名付ける大楼を造営したいという望みを抱いていた。だが、彼の求めるような良工が見つからない。今もそれを言うと、侍臣のひとりが蘇越という建築の名工を薦める。

曹操は賈詡(かく)に命じ、蘇越にその儀を伝えさせた。そして賈詡の手から蘇越の設計図を受け取り、気に入った様子を見せる。

しかし、大殿に使う9間という長さの棟木があるとは思えない。蘇越を呼び、そのような材木をどこから探してくるのかと尋ねた。

蘇越は答えて言う。

「洛陽から30里、躍龍潭の淵にひとつの祠(やしろ)がございます。そこにある梨の木は高さ10余丈、千古の神木です。これを切って棟梁(はり)となされてはいかがでしょうか?」

曹操は、梨の木とは珍しいと喜び、すぐに大勢の人夫を遣って切らせようとした。ところがその神木の幹は、鋸(のこぎり)の刃も斧(おの)もてんで受け付けないということで、幾日経っても運ばれてこない。

すると曹操は急に数百騎の供を連れ、躍龍潭へ出かけていく。

(02)躍龍潭

曹操は神木の根元に寄って言った。

「普天(天下)の下、我に怪をなすものはない。いま汝(なんじ)を切って、わが建始殿の棟梁とする。汝、精あらば後生の冥加を喜んでよかろうぞ」

そして剣を抜くと、梨の幹へ一伐を加える。それを眺めていた土地の老翁や神官などが、みなアッと声を放って泣く。その声とともに、梨の木は震々と葉を振りこぼし、幹は血のごとき樹液をほとばしらせた。

「すでに予が斧初めの刃を入れた。もし木の精が祟るなら曹操へ祟るだろう。もう心配はないから恐れずに切れ」

工匠(たくみ)の蘇越や人夫らにそう告げ、洛陽へ立ち帰る。

(03)洛陽

しかし曹操が宮門で車を降りたとき、すでに顔色は常ではなかった。少し気分が悪いとつぶやくと、すぐ寝殿に入ってしまう。

曹操は高熱を発し、梨の木の怪神が幾たびも予の胸を押した、と言い張って聞かない。翌日もなお頭痛を訴えてやまない。時折、梨の木の怪を口走ることも、前夜と同じなのである。

侍医はあらゆる薬餌を試みたが、病人の苦悩は少しも減じない。日を経るにしたがい、曹操の面には古い壁画の胡粉(ごふん)が剝落していくように、げっそりとやつれが見えてくる。

だが、今朝は珍しくいくらか気分がよいらしく、曹操は、見舞いに来た華歆(かきん)と話し込んでいた。華歆は、いま金城(きんじょう)に住んでいるという華陀(かだ。華佗)を召すよう勧める。

『三国志演義 改訂新版』(立間祥介〈たつま・しょうすけ〉訳 徳間文庫)の訳者注によると、「(ここでいう金城は)洛陽北西角の金墉城(きんようじょう)」だという。

曹操も意を動かす。名医の華陀の名はつとに聞いており、呉(ご)の周泰(しゅうたい)を療治した話も知っていた。

華陀が周泰を療治したことについては、先の第59話(04)を参照。

華歆は、華陀が療治した例として、甘陵(かんりょう)の相夫人(しょうふじん)の話を聞かせる。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(甘陵の相夫人は)甘陵相(官名)の夫人の意」だという。

夫人が妊娠して6か月目ごろ、ひどい腹痛による苦悶(くもん)が三日三晩に及んだため、華陀に診てもらった。

華陀は脈を診るとすぐ、「あぁ、これは惜しい。孕(はら)まれたのは男子らしいが、すでに食毒にあたって腹中で絶命している。いま癒やさなければ母命も危ういところだろう」と言った。

そこで調薬して与えると、果たして男胎(母の腹の中にいる男の子)が下り、夫人は7日を経てもとの体に返ったのだと。

曹操が華陀を呼ぶよう言うと、さっそく華歆は使いを走らせた。

華陀は到着した日に登殿し、曹操の病間へ伺候する。そして慎重に眼瞼(がんけん)や脈を調べると、風息(ふうそく)の病と診断した。

曹操が、根治する方法はないかと尋ねると、華陀は考え込んだ後、こう答えた。

「ないこともありません。けれど非常に難しい手術を要します。ご持病の病根は脳袋の内にあるので、薬を召し上がっても何の効果もないのです」

「ただひとつの方法は、麻肺湯(まはいとう。麻酔薬)を飲んで仮死せるごとく、昏々(こんこん)と意識も知覚もなくしておいてから、脳袋を切り開き、風涎(ふうぜん)の病根を取り除くのでございます。さすれば十中の八、九は根治するやもしれません」

もし、十中の一でもうまくいかなかったらどうなるか、と重ねて尋ねると、華陀は答えた。

「恐れながら、ご命数とお諦めあそばすしかございませぬ」

曹操が勃然と怒ると、さらに華陀は言った。

「はははは。私には自信がございますが、あえて謙遜して申し上げたのです」

「かつて荊州(けいしゅう)の関羽が毒矢に当たって苦しまれていたときも、手前が行って、その臂(ひじ)を切り、骨を削り、さしもの毒を取り除いて、全治させておりまする。なぜ大王には、それしきの手術を恐れ、華陀の医術をお疑いあそばすか?」

曹操はこれを聞くと、華陀がこの機会に関羽の仇(あだ)を報ずるつもりだと決めつけ、搦(から)め捕って投獄してしまう。

華陀が関羽の左臂を治療したことについては、先の第230話(01)を参照。なお『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第78回)では、華佗(華陀)が周泰や関羽を治療した話は見えるが、そのほかの例話は別の話が採られていた。

管理人「かぶらがわ」より

吉川『三国志』や『三国志演義』における華陀の設定については、先の第230話でも触れましたが、この第241話の描写も創作です。

ここで言いたいことは、関羽は黙って臂の骨を削られたのに、曹操は騒いで手術を受けなかった、ってことなのでしょう? こういった話の組み立て方は、ちょっと嫌な感じがします。

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『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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