吉川『三国志』の考察 第257話「孔明を呼ぶ(こうめいをよぶ)」

陸遜(りくそん)に大敗して白帝城(はくていじょう)へ逃げ込んだ後、劉備(りゅうび)は成都(せいと)に戻ろうとしない。この地を永安(えいあん)と改めて留まり続ける。

また劉備は、諸葛亮(しょかつりょう)の進言を無視して東征を強行した己を恥じ、容易に立ち直る気配を見せなかった。

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第257話の展開とポイント

(01)凱旋(がいせん)途中の陸遜

蜀(しょく)を破ったこと疾風迅雷だったが、退くこともまた電馳奔来(でんちほんらい)の速さだった。勝ち驕(おご)っている呉(ご)の大将たちは、半ばからかいぎみに陸遜に尋ねる。

「せっかく白帝城へ近づきながら、石の擬兵(敵を欺くための偽りの兵。疑兵)や乱石の八陣を見て、急に退いてしまったのは、いったいいかなるわけですか? 本物の孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)が現れたわけでもありますまいに」

陸遜は、まじめに言った。

「そうだ。わが輩が孔明を恐れたことは確かだ。けれど引き揚げた理由は別にある。それは今日明日のうちに、事実となって諸公にもわかってくるだろう」

人々は、一時逃れの遁辞(とんじ)だろうとおよそに聞いた。

ところがそれから2日目、陸遜の本営には、櫛(くし)の歯を引くような急変の知らせが、呉国の諸道から集まってくる。

「魏(ぎ)の大軍が三路に分かれ、曹休(そうきゅう)が洞口(どうこう)に侵出し、曹真(そうしん)が南郡(なんぐん)の境へ迫り、はや曹仁(そうじん)は濡須(じゅしゅ)へ向かって、雲霞(うんか)のごとく南下しつつあります」と。

陸遜は手を打って、明察が過たなかったことを自ら祝し、呉国のためにも大幸なりしよと、すぐさま対戦の姿勢を取った。

(02)永安宮(えいあんきゅう)

一方、大敗を受けて白帝城に隠れた劉備は、「成都に帰って群臣に合わせる顔もない」と、深宮の破簾(はれん)にただ傷心を包んでいた。

そのうち、漢中(かんちゅう)で諸葛亮に会った馬良(ばりょう)が帰ってきて、諸葛亮の言葉を伝える。

「いまさら言っては愚痴になるが、丞相(じょうしょう。諸葛亮)の言葉に従っておれば、今日のような憂き目には立つまいに……」

劉備はいたく嘆き、遠く彼を慕う。それでも成都帰還のことはなく、白帝城を改めて永安宮と呼んでいた。

このころ蜀の水軍の将である黄権(こうけん)が、魏に入って曹丕(そうひ)に降ったといううわさが聞こえる。

側臣は、黄権の妻子一族を斬ってしまうべきだと勧めたが、劉備は自分の罪だと言い、かえって家族を保護するよう命じた。

(03)洛陽(らくよう)?

黄権は魏に降って曹丕にまみえたとき、鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)に任じようと言われたが、暗に仕えることを拒んだ。

このとき黄権が、どこで曹丕にまみえたのかよくわからなかった。『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第85回)を見てもイマイチはっきりしない。もしかしたら許都(きょと)かも?

ここへひとりの魏臣が入ってきて、わざと大声で伝える。

「いま蜀から帰った細作(さいさく。間者)の知らせによると、黄権の妻子一族は劉備の怒りに触れ、ことごとく斬刑に処されたそうでございます」

聞くと、黄権は苦笑して言う。

「それはきっと何かのお間違いか、為にする者の虚説です。わが君はそのようなお方では決してありません」

かえってそれらの者の無事を信ずるふうだった。

曹丕はもう何も言わず、黄権を退ける。その後、三国の地図を広げ、密かに賈詡(かく)を召し寄せた。

曹丕が尋ねる。

「朕が天下を統一するには、まず蜀を先に取るべきか、それとも呉を先に攻めるべきだろうか?」

賈詡は、黙考久しゅうして答えた。

「蜀も難し、呉も難し……。要は両国の虚を計るしかありません。しかし陛下の天威、必ずお望みを達する日はありましょう」

さらに曹丕は、いま三道から呉へ向かっている魏軍の結果を問う。

だが賈詡は、おそらく何の利もありますまいと答えた。

曹丕は、賈詡の言葉には終始一貫したものがないとなじる。

すると、賈詡は面を冒して言った。

「そうです。先に呉軍が蜀軍に押され、敗退を続けていたときならば、魏が呉を侵すには絶好な付け目であったに相違ございません」

「しかるに今は形勢まったく逆転し、陸遜は全面的に蜀を破り、呉は鋭気日ごろに百倍して、まさに不敗の強みを誇っております。ゆえに今では呉に当たりがたく、当たるは不利だと申し上げたわけでございます」

井波『三国志演義(5)』(第85回)では、「そうです。先に呉軍が……」以下の発言は、賈詡に続いて進言した尚書(しょうしょ)の劉曄(りゅうよう)のもの。吉川『三国志』では、このくだりを曹丕と賈詡のやり取りでまとめている。

曹丕は、すでに呉境へ兵を出しており、自分の心もすでに定まっていると言って耳を貸さない。三路の大軍を補強すると、自身も督戦に向かった。

(04)濡須

一面で蜀を討ち、一面で魏を迎え、この間、神速円転、用兵の妙を極めた陸遜の指揮のため、呉は何らうろたえることもなく、堂々と三道の魏軍に接し、よく防ぎ、よく戦った。中でも呉にとって最も枢要な防御線は、建業(けんぎょう)に近い濡須城である。

魏はこの攻め口に曹仁を差し向け、曹仁は配下の王双(おうそう)と諸葛虔(しょかつけん)に5万余騎を授けて、濡須を囲ませた。曹丕が督戦に臨んだ陣もまさにここで、魏の士気はいやがうえにも振るう。

このとき濡須の守りにあたった呉の大将は、まだ27歳の朱桓(しゅかん)だった。彼は若いながらも胆量のある人物だった。

史実の朱桓は光和(こうわ)元(178)年生まれ。この年(魏の黄初〈こうしょ〉3〈222〉年)には45歳だった。朱桓が若く設定されているのは『三国志演義』を踏襲したためだと思われる。なお先の第135話(01)で、朱桓はあざなの休穆(きゅうぼく)として登場している。

先に城兵から5千を割き、羨渓(せんけい)の固めに出してしまっていたため、城中の兵は少ない。諸人みな恟々(きょうきょう)と震え上がって言った。

「この小勢では、とても目に余る魏の大軍を防ぎきれまい。今のうちにここを退いて、後陣と合するか、後陣をここへ入れたうえ、さらに建業から新手の後ろ備(まき)を仰がねば、互角の戦いをすることはできまい」

朱桓は主なる部下を会し、遠く来た敵の大軍が抱える不利を説き、私の指揮を信じて百戦百勝の信念を持つよう言う。明日は自ら城を出て、その証(しるし)を明らかに見せてやるとも。

翌日、朱桓はわざと虚を見せ、敵勢を近くに誘う。魏の常雕(じょうちょう)は、短兵急に城門へ攻めかけてきた。

だが門内は寂(せき)として、一兵もいないようである。魏兵は不用意に城壁へつかまり、常雕も壕際(ごうぎわ)まで馬を出して下知した。

すると轟音(ごうおん)一発。数百の旗が、櫓(やぐら)・望楼・石垣・楼門の上などに一遍に翻る。弩(ど)や征矢(そや。戦に用いる矢)が、一度に魏兵の上へ降り注いできた。

続いて城門が八文字に開かれると、朱桓は単騎で乱れる敵中へ入り、常雕をただひと太刀に斬り落とす。前隊の危急を聞き、中軍の曹仁は即座に大軍をひきいて進んできた。

しかし、振り返ると意外にも、羨渓の谷間から雲のごとく湧き出した呉軍が退路を断ち、後ろから金鼓を打ち鳴らしてくる。

実にこの日の敗戦が、魏軍の負け癖のつき始めとなった。以後は連戦連敗で、どうしても朱桓に勝てない。

そこへまた、洞口と南郡の二方面からも敗報が伝わる。ついに曹丕はここを断念。無念を吞みながら敗旗を巻き、ひとまず魏へ引き揚げた。

井波『三国志演義(5)』(第85回)では、ここで曹丕が軍勢をひきいて洛陽へ帰還したとあった。それならば、この第257話(03)は洛陽ということでよさそう。

管理人「かぶらがわ」より

陸遜の好判断と朱桓らの奮戦。結局、魏は三方面ともに大した戦果を上げられませんでした。朱桓の年齢設定がいくらか残念か――。

あと気になったのがタイトルの「孔明を呼ぶ」。まったく無関係とまで言えませんけど、どうもしっくりこない。「濡須(の)攻防戦」とか、朱桓の活躍に絡んだタイトルのほうがよかったような……。

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