吉川『三国志』の考察 第287話「髪を捧ぐ(はつをささぐ)」

呉(ご)の鄱陽太守(はようたいしゅ)の周魴(しゅうほう)が届けた密書が、揚州(ようしゅう。楊州)にいる魏(ぎ)の大司馬(だいしば)の曹休(そうきゅう)から、洛陽(らくよう)の曹叡(そうえい)に奉呈される。

曹叡は評議の末に司馬懿(しばい)の意見を採用し、皖城(かんじょう)・東関(とうかん)・江陵(こうりょう)の三道へ軍勢を分けて進めることになった。周魴は曹休と皖城で会見し、彼を完全に信じ込ませるべく、あるものを差し出す。

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第287話の展開とポイント

(01)洛陽

街亭(がいてい)の大勝は、魏の強大をいよいよ誇らしめた。国内では戦勝気分に拍車をかけ、「この際、蜀(しょく)へ攻め入って、禍根を絶て」という世論さえ起こったほどである。

だが司馬懿は、曹叡がそれに動かされんことを恐れ、常に軽挙を抑えていた。

「蜀に孔明(こうめい。諸葛亮〈しょかつりょう〉のあざな)あり、剣閣(けんかく)の難所あり。決してさような妄論にお耳を貸したまわぬように」

しかし、彼はただ安愉を求めているのではない。先に諸葛亮は街亭へ出て失敗しているから、次には必ず陳倉道(ちんそうどう)へ出てくるだろうと予想した。

そこで曹叡に勧め、不落の一城をその道に築き、雑覇将軍(ぞうはしょうぐん)の郝昭(かくしょう)に守備を命じた。

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によると、郝昭は雑覇将軍ではなく雑号将軍(ぞうごうしょうぐん)とある。

郝昭は太原郡(たいげんぐん)の人で、忠心凜々(りんりん)たる武人の典型である。配下の士卒もみな強く、赴任に先立ち、鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を拝して誓った。

「不肖、陳倉を守りおる以上は、長安(ちょうあん)も洛陽も高きにあって洪水をご覧ぜられるごとく、お心のどかにおわしませ」

こうして蜀境の国防方針がひとまず定まったかと思うと、呉に面している揚州(楊州)の大司馬の曹休から、以下のような上表があった。

原文「揚州の司馬大都督(しばだいととく)曹休」だが、ここは「大司馬の曹休」としておく。このとき史実の曹休は、都督揚州諸軍事(ととくようしゅうしょぐんじ)として揚州牧(ようしゅうぼく。楊州牧)も兼ねていた。

「呉の鄱陽太守の周魴は、かねてから魏の臣に列したいとの望みを漏らしておりました。いま密使をもって7か条の利害を挙げ、呉を破る計を私の手元まで送ってまいりました。右、ご一閲を仰ぎます」

この件は朝議に付され、周魴の言が真実かどうかが入念に検討される。

意見を求められた司馬懿が言う。

「周魴は呉でも知のある良将だから、偽りの内通ではないかとも疑われる。しかしこれが真実だったら、この時節もまた捨てがたい」

「ゆえに、大軍をもって三道に分かち、たとえ彼に偽りがあるとも決して敗れぬ態勢で臨むならば、兵を派しても差し支えはない。事実にあたったうえ、さらにいかような策も取れよう」

皖城・東関・江陵の三道へ向かって洛陽の軍勢が続々と南下したのは、それから約1か月後のことだった。

(02)建業(けんぎょう)

この魏の動きは、すぐに呉へ漏れていた。呉ではむしろ待っていたような観すらある。

ここは吉川『三国志』では建業を思わせる記述になっていたが、『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第96回)では、このとき孫権(そんけん)が武昌(ぶしょう)にいたとあった。

呉のほうも活発なる軍事的な動きを示す。陸遜(りくそん)を輔国大将軍(ほこくだいしょうぐん)・平北都元帥(へいほくとげんすい)に任じ、朱桓(しゅかん)と全琮(ぜんそう)を左右の都督に任じた。陸遜らは江南(こうなん)81州の精兵を擁し、三道三手に分かれて北上する。

井波『三国志演義(6)』(第96回)では、奮威将軍(ふんいしょうぐん)の朱桓が左都督に、綏南将軍(すいなんしょうぐん)の全琮が右都督に、それぞれ任ぜられていた。

江南81州について、『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「81州は正しくは(江南)81県。江南6郡を指す。ただし、江南6郡の管轄下にある県の数は実際には92である」という。なお「江南6郡」は、揚州(楊州)の九江(きゅうこう)・廬江(ろこう)・呉・会稽(かいけい)・丹陽(たんよう。丹楊)・豫章(よしょう。予章)の6郡を指すとも。

(03)行軍中の呉軍

途中、朱桓が陸遜にこう勧めた。

「聞くところによれば、すでに曹休はわが周魴の反間に計られ、もうその進退を制せられている形勢とか。さすれば彼の逃げ道はおよそ二条しかありません。一は夾石道(きょうせきどう)、二は桂車(けいしゃ。挂車)の路(みち)です」

「しかもこの二条とも険隘(けんあい)で、奇計を伏せて討つには絶好な場所。もしお許しいただけるなら、それがしと全琮とで協力し、曹休を擒(とりこ)にしてお目にかけます」

陸遜はよく聴いていたが、ほかに思案がないこともない、と答えるにとどめる。そして諸葛瑾(しょかつきん)の一軍を別に江陵へ向かわせ、その方面に下った司馬懿の兵を防がせた。

(04)皖城

序戦、焦眉の急は、まず呉の周魴に欺かれている、魏の曹休の位置にあるものとみられた。

曹休とて、そううかつに敵の謀略にかかるわけはない。周魴が長きにわたって、根気よく彼を信じさせたのである。

その反謀に応じ、魏の大軍が南下することが中央で決定をみたので、曹休もまた皖城へ来て周魴と会見した。

このとき曹休は、なおわずかな疑いも一掃しておきたいとの気持ちから、こう念を押す。

「貴公から提出された7か条の計は、中央でも容れるところとなり、わが魏の大軍が三路から南下することになった。よもやきみの献言に間違いはあるまいな」

曹休が、まだいささか疑いを抱いていると見た周魴は、やにわに小剣を抜き、自分の髻(もとどり。髪の毛を頭の上で束ねたところ)を切り落とす。それを曹休の前に差し置いたまま、嗚咽(おえつ)を吞んでうつむいた。

周魴が肩を震わせて泣く姿に、曹休もつい目を熱くしてしまう。曹休は周魴への疑いをすっかり晴らし、ともに酒宴に臨む。その場で東関進出の打ち合わせなどして、自陣に戻った。

(05)皖城の城外 曹休の本営

建威将軍(けんいしょうぐん)の賈逵(かき)が曹休を訪ねて言う。

「どうもおかしい。髪を切って異心なきを示すなどというのは、ちと眉唾な心地がします。都督、うかつに出ないことですな」

しかし曹休は皮肉を言い、考えを変えようとはしなかった。

翌日、曹休は東関へ進めと諸将に命じ、続々と軍馬を押し出す。賈逵は譴責(けんせき)を受けて後に残された。

(06)石亭(せきてい)

周魴も家中の兵をひきいて途上に出迎え、先に立って攻め口の案内を務める。曹休は周魴に勧められ、石亭の山上から要所に兵を配置した。

その2日後、魏の斥候が告げた。

「西南のふもとの辺りに、数はわかりませんが、呉の兵がいるようです」

曹休は怪しむ。周魴によれば、この辺りに呉勢はいないと聞いていたからである。ところが、また一報が届いた。

「昨夜のうちに、周魴以下の数十人がみな、行方知れずになりました」

曹休は計られたことに気づくが、張普(ちょうふ)に、ふもとの呉兵を蹴散らすよう命ずる。しかし、斥候が見てきた呉兵というのは、予想以上に有力なものだった。しかも精鋭をもって鳴る呉の徐盛軍(じょせいぐん)だったのである。

まもなく張普は散々に打ち負けて引き揚げてきた。曹休の面色も、まるで日ごろのものではなくなる。

それでもなお自軍の大兵力を頼み、「われ奇兵をもって勝つべし」と言い、こう語って準備をしていた。

「明日の辰(たつ)の刻(午前8時ごろ)を期し、われ自ら2千余騎でこの山を下り、わざと逃げ走る。汝(なんじ)らは薛喬(せつきょう)の部隊ほかと3万余人をもって、石亭の南北に分かれ、山沿いに埋伏しておれ」

井波『三国志演義(6)』(第96回)では、このとき曹休がひきいると言っていた軍勢は1千で、張普と薛喬が埋伏のためにひきいていった軍勢は2万ずつ。

だが、明日とも言わず、その晩のうちに、呉軍のほうから積極的な作戦に出てくる。曹休の計は、それを行う前に根本から齟齬(そご)を来してしまった。

要するに、曹休軍をここへ引き入れたのは、周魴が初めから陸遜と示し合わせていたことなのだ。

呉はこの好餌を完全に捕捉、殲滅(せんめつ)し去るべく、疾(と)くから圧倒的な兵力をもって包囲環を作りつつあった。

すなわち陸遜は、「魏軍の盲動近し」と悟るや、前夜に兵を分配していた。石亭の後ろへ兵を回し、南北のふもとにも堅陣を連ねたうえ、自ら采配を振るい、正面から攻め上る態をなしたのである。

それより少し前に、呉の朱桓は、石亭の裏山をよじ登り潜行していたが、折ふし魏の張普が、付近の味方の伏兵を巡視してくるのに遭遇した。

張普は味方の兵と思ったらしく、夜中の真っ暗な山腹で、どこの隊だ、大将は何者だ、などと誰何(すいか)する。

「されば、この隊は呉の精鋭。大将はかく言う朱桓だ」

朱桓は暗闇まぎれに近寄って答えるやいな、一剣の下に張普を斬った。暗夜の奇襲戦は、この手から突然に開始されたのである。

明日を待って行動を期していた魏の本軍も同時に混乱を起こす。このため曹休も防ぐすべなく、なだるる味方とともに夾石道方面へ逃げ走った。

(07)夾石道

しかし呉の備えは、この方面にも十分だったので、いわゆるお誂(あつら)え向きな戦態をもって覆い包む。敵の首を討つこと無数、約1万の投降者を得る。

たまたま呉の重囲を逃れ得た魏兵も、馬や物の具を振り捨てて素っ裸同様な姿となり、辛くも曹休に続いていた。

そして後から、「不思議にも命が助かった」と慄然(りつぜん)としたが、実にこの危地から曹休を救った者は、先に彼の忌諱(きき)に触れて、陣後に残された賈逵だった。

曹休の前途を案ずるあまり、賈逵が一軍をひきいて駆けつけ、石亭の北山に来合わせたため、危うくも曹休を救出して帰ることができたのだ。

この一角に魏が大敗を招いたので、ほかの二方面にあった司馬懿と満寵(まんちょう)も甚だしく不利な戦態に入り、ついに三方とも引き退くのやむなきに至る。

(08)建業

陸遜は、多大な鹵獲品(ろかくひん)と、数万に上る降人を引き連れて建業へ帰った。

この第287話(02)と同じく、井波『三国志演義(6)』(第96回)では、孫権が陸遜らを武昌の城外で出迎えたとあった。

孫権は自ら宮門まで出て、「このたびの功や大なり。呉の柱とも言うべきである」と、傘蓋を傾けて迎え入れたという。

わが髪を切って謀計の功を上げた周魴も、「汝の功は、長く竹帛(ちくはく)に記さん」と賞されて、のち一躍、関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(呉書〈ごしょ〉・周魴伝)には、周魴が7通の手紙を使い、曹休を見事におびき寄せたことが見えます。ただ、曹休の前で髪を切ってみせたという計については、いくらか史実と違うようです。

本伝によると、周魴が孫権に密計を献策したころ、しばしば中央から郎官が遣わされ、詔(みことのり)をもって諸般の事態につき、詰問を受けたことがあった。

そのことで周魴が郡の役所の門まで出かけ、剃髪(ていはつ)して謝罪したことがあり、曹休はこれを伝え聞いていたため、周魴が呉に背いて内応したいと申し出てきたことに疑いを抱かなかったのだという。

周魴の剃髪も計だったことが見えますので、ここで描かれたような創作はアリだろうと感じました。

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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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