吉川『三国志』の考察 第172話「柳眉剣簪(りゅうびけんさん)」

劉琦(りゅうき)の死をきっかけに、孫権(そんけん)は再び劉備(りゅうび)に荊州(けいしゅう)の返還を要求し、使者として魯粛(ろしゅく)を遣わす。

ところが劉備は、諸葛亮(しょかつりょう)の助言を得てうまくかわそうとしたため、魯粛は周瑜(しゅうゆ)と相談のうえ、ある女性を劉備に娶(めあわ)せてはどうかと考える。

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第172話の展開とポイント

(01)荊州(江陵〈こうりょう〉?)

その後、劉備の身辺にひとつの異変が生ずる。劉琦の死であった。亡き劉表(りゅうひょう)の嫡子として劉備はあくまで劉琦を立ててきたが、生来多病の彼は若くして襄陽(じょうよう)城中で長逝した。

諸葛亮が、その葬儀委員長の任を済ませて荊州へ帰ると、すぐに劉備にこう求めた。

「琦君(劉琦)の代わりに、誰かただちに彼処(かしこ)の守りにお遣わしください」

劉備が適任者を尋ねると、やはり関羽(かんう)だという。諸葛亮も心では、何と言っても関羽の人物を認めていた。

それから20日ばかり後、孫権の名代として魯粛がやってくる。劉琦の喪を弔うために来たのだという。

魯粛は城中の祭堂に礼物を供えてお悔やみを述べると、劉備が設けた酒宴に臨み、四方山(よもやま)の話に時を移していたが、やがて本題に触れた。琦君が世を去られた今、もう荊州は呉(ご)へお返しになるべきでしょう、と。

劉備は、いずれまた改めて談合しましょう、などとはぐらかしたが、魯粛はしつこく念を押す。

すると諸葛亮が傍らから口を挟み、主君に代わって一応の道理を申し述べると言う。

そして、主君は中山靖王(ちゅうざんせいおう。劉勝〈りゅうしょう〉)の後裔(こうえい)にして、現皇帝(献帝〈けんてい〉)の皇叔(こうしゅく。叔父)にあたる。劉表とも血縁で、主君はその義弟である。

いま血統が絶え、荊州に主がいなくなるに至り、義弟として義兄の業を受け継ぐのに何の不義や不可とする理由があろうかと。さらに孫権の素性に言及したうえ、大漢(たいかん)は劉氏の天下たるを知らないのかと説く。

魯粛は、何の抗弁もないとは言いながらも、それでは先生(諸葛亮)もあまりに利己主義だと言い返す。

以前、劉皇叔が曹操(そうそう)に大敗を被り、当陽(とうよう)で敗れ果てた後、先生を一帆に乗せて呉へ伴い、わが主を説き、周瑜を動かし、当時まだ保守的だった呉に、全面的な出兵をみるに至らしめたのは誰だったかと。

諸葛亮が、それは言うまでもなくあなただと答えると、魯粛は、その私がこうして窮地に立たされているのに、何の同情もお持ちにならないのかと訴える。

そこで諸葛亮は、新たにこう提議した。

「では、あなたの面目を立て、荊州はしばらくわが君がお預かりしているということにしましょう。後日どこか適当な領地を攻略したら、そのとき荊州は呉へ明け渡すということにして証書を入れたら、あなたも主君にお顔が立つだろう」

魯粛が、どこの国を取るつもりかと尋ねると、蜀(しょく)を取るつもりだとの答え。

諸葛亮は劉備を促し、孫権あての国際証書を作成。これに諸葛亮も保証人として連署し、君臣一家の連帯では公約にならないからと、魯粛にも署名を求めた。

ついに魯粛も妥協し、この一札(いっさつ)を持って呉へ帰ったが、途中で柴桑(さいそう)に立ち寄る。

ここでは一札とあった。このことに関する以前の疑問については、先の第159話(01)を参照。

(02)柴桑

魯粛が見舞いがてら荊州での経緯を逐一物語ると、周瑜は、また貴公は孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)に出し抜かれたのか、何たるお人よしだと痛嘆。

こう腹を立てたものの、心では魯粛に十分な同情を抱いた。それに周瑜は困窮していたころ、魯粛の田舎の家から糧米3千石(せき)を借り、助けられたことがある。それを思い出したので、ともに腕をこまぬいて懸命に思案した。

周瑜が魯粛から米の援助を受けた話は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・魯粛伝)にも見える。ただそこでは、ふたつあった3千斛(ごく)の米蔵のひとつを(貸したのではなく、)そっくり周瑜に与えたとあった。

ふと周瑜は、主君の妹にあたる弓腰姫(きゅうようき)が頭に浮かぶ。年はまだ16、7だった。弓腰姫というのは臣下が付けたあだ名である。深窓の姫君でありながら、この呉妹は生まれつき剛毅で武芸を好んだ。

脂粉霓裳(げいしょう)の装いも凜々(りんりん)として、剣の簪(かんざし)を結び、腰には常に小弓を佩(は)いている。腰元たちもみな薙刀(なぎなた)を持って室に侍しているという、誠に一風変わった女性だった。

脂粉は紅と白粉(おしろい)、霓裳は美しい裳裾(もすそ。女性の衣服の裾)のこと。

周瑜は、呉妹を劉備に嫁がせるよう仲立ちの骨折りを勧める。これは貴公の失敗を償い、荊州を取り返すに絶好な妙策であり、今がそのまたなき機会であるのだとも。

啞然(あぜん)とする魯粛に、周瑜は、すでに劉備の正室の甘夫人(かんふじん)が病死していることを告げる。間者の知らせでは劉琦が死ぬ以前、荊州城に白い弔旗が掲げられていたのだと。

なお魯粛が、劉備と呉妹との年齢差などに難色を示していると、周瑜は、この婚儀は初めから謀略に決まっていると言う。挙式を呉で執り行うことにして劉備を招き、機を計って刺し殺してしまうのだとも。

どうしても魯粛が渋るので、周瑜は子細を手紙に書くことにする。魯粛はこの手紙を持って呉都へ帰った。

(03)呉都(京城〈けいじょう〉?)

さっそく魯粛は孫権にまみえ、ありのままを復命。帰路で周瑜から預かった手紙も併せて差し出す。

ここでは呉都とだけあったが、どこのことなのかよくわからず。

『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第54回)では、このとき孫権は南徐(なんじょ)にいるような記述があった。南徐については前の第171話(06)を参照。

初めに劉備の証文を見たときは、案の定、孫権は苦りきって、たちまち魯粛の上に大鉄槌(だいてっつい)でも下しそうだった。だが、次に周瑜の手紙を一読すると、しごく妙だと、しばらく熟慮にふける。

やがて孫権は気色を一変させ、魯粛に休息せよとねぎらう。

数日後、魯粛は再び召されたが、今度は重臣の呂範(りょはん)も同席した。孫権を中心に周瑜の献策を密々と協議し、呂範が荊州へ行くことになる。もちろん表面は呉の修交使節だが、目的は例の呉妹君の婚縁にあった。

(04)荊州(江陵?)

呂範は劉備に会うと、まず両国友好の緊密を力説してから、おもむろに縁談を持ちかける。

劉備は子細を聞くと、願ってもない良縁だとは言いつつ、自分はすでに50歳なので、呉妹とはふさわしくない配偶ではないかと答えた。

このときは建安(けんあん)14(209)年の設定だと思うので、正しくは49歳ではないだろうか? ただ井波『三国志演義(4)』(第54回)でも、劉備は呂範に「私はすでに齢50を越え、髪に白いものが交じっています」と言っている。

それでも呂範は、年の近いとか少ないとか、そのような数合わせみたいな問題ではないと言う。

孫権とその母、そして呉妹君が熱望しているとも話し、いま皇叔をもって呉妹君と配せば、それこそいわゆる「淑女ヲ以テ君子ニ配ス」という古語の通りになる、と弁才を振るった。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(『淑女ヲ以テ君子ニ配ス』は)『詩経(しきょう)』関雎(かんしょ)を典拠とする言葉」という。

この日、諸葛亮は次室の屛風(びょうぶ)の陰にいて、ジッと主客の話を聴いていた。彼の几(つくえ)の上には、いま立てた易占(うらない)の算木が、吉か凶か、卦面(けめん)の変爻(へんこう)を示していた。

ひとまず呂範は客館へ退がり、劉備の返事を待つことにした。

その夜、劉備は諸葛亮以下の腹心の諸将を集め、呉妹を娶(めと)ることの可否、また呉へ行くことの善悪などについて、忌憚(きたん)なき意見を求める。

諸葛亮は、ぜひご承諾をお与えなさい、そして呉へおいでなさいと勧める。会見中に易を立てて占ってみたところ、大吉の卦が出たのだという。

のみならず、ここは彼の策に乗り、かえってわが策を成すところだと言い、速やかに呉の国に臨み、ご婚儀の典を挙げられるがよいかと思うとも述べた。

それを危険だとする議論ももとより百出したが、諸葛亮が万事を任せてほしいと請け合うと、諸臣も異議なしと一致する。

なお劉備は危ぶんでいたが、諸葛亮は力づけ、まず答礼の使いを遣ることにした。その意味で呂範とともに呉へ下っていったのは、家中の孫乾(そんけん)だった。

月日を経て帰ってきた孫乾は、孫権が落胆していたと報告。呂範とともにわが君がすぐ呉へおいでになるものと、独り決めに予期していたらしいと。

孫権は縁談の成立を熱望しているといい、ぜひ一日も早く参られるよう劉皇叔に勧めてもらいたいと、懇ろなご希望だったとも伝える。

まだ劉備には迷っている節があったが、諸葛亮は着々と準備を運び、随員の大将に趙雲(ちょううん)を任じた。そして、彼に3つの錦囊(ふくろ)を授ける。

呉へ行って事窮まるときは、この錦囊を開けてみるがいい。あらかじめ私が肝胆を砕いた3か条の計を、錦囊に秘めておいたと。

建安14(209)年の冬の初め、華麗なる10艘(そう)の帆船は、劉備と趙雲以下、随行の兵500人を乗せて荊州を離れる。船団は長江(ちょうこう)の大河に入り、悠々千里を南下して呉へ向かった。

井波『三国志演義(4)』(第54回)では、このとき孫乾も随行したことが見える。

(05)呉都(京城?)

呉の都門を入るに先立ち、趙雲は諸葛亮から渡された錦囊を思い出し、そのひとつ目を開けてみた。中の一文には「まず喬国老(きょうこくろう。橋国老。大喬〈たいきょう。大橋〉と小喬〈しょうきょう。小橋〉の父)を訪え」と書いてある。

趙雲は劉備と相談したうえ、船中の佳宝や物産を掲げ、兵士に羊を引かせて酒を担わせると、都街の人目をそばだたせながら、いきなり喬国老の屋敷を訪ねた。

大喬(大橋)と小喬(小橋)については、先の第148話(01)を参照。

管理人「かぶらがわ」より

荊州返還の意思がないことを公然と示す諸葛亮。そこで旧情に訴え、形ばかりの証文を持ち帰った魯粛。

さらに、呉妹を使った周瑜の新たな計略。これに3つの錦囊で応ずる諸葛亮――。ここで錦囊が出てくるというのが、語り物から生まれた『三国志演義』っぽいですよね。

なお、この第172話のタイトルに使われている「柳眉」は、柳の葉のような、形のいい美人の眉のことです。

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吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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