吉川『三国志』の考察 第239話「国葬(こくそう)」

洛陽(らくよう)にいた曹操(そうそう)のもとに、孫権(そんけん)から関羽(かんう)の首が届けられる。

曹操は、司馬懿(しばい)の進言によって孫権の意図を悟るが、その受け取りを拒むことなく、王侯の礼をもって盛大に関羽の国葬を執り行う。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

第239話の展開とポイント

(01)荊州(けいしゅう。江陵〈こうりょう〉?)

孫権は、呂蒙(りょもう)の死に万斛(ばんこく)の涙を注ぐ。爵を贈り、棺槨(かんかく。柩〈ひつぎ〉。棺は死体をじかに入れる箱。槨は棺を入れる外側の箱)を備え、その大葬を手厚く執り行った後、建業(けんぎょう)から呂覇(りょは。呂霸)を呼ぶよう言った。

呂覇は呂蒙の子である。やがて張昭(ちょうしょう)に連れられて荊州へ来た。孫権は可憐(かれん)な遺子を眺め、「父の職をそのまま継ぐがよい」と慰めた。

ここでの書き方だと、呂覇は父の大葬に関わっていないことになる。彼の生年はわからないが、そういう解釈でいいのだろうか?

その折に張昭は、死せりといえど関羽の処置が重要だと言う。関羽の死は、もともと曹操の指図であり、曹操の所業(しわざ)であると、この禍いの鍵を魏(ぎ)へ転嫁してしまうに限ると。

孫権はこの言を珍重し、すぐに使者を選び、関羽の首を持たせて魏へ遣わした。

(02)洛陽

このとき曹操は、すでに凱旋(がいせん)して洛陽にあった。呉(ご)の使者が関羽の首を献じてきたと聞くと、群臣とともに引見する。

だが、この席で司馬懿が怒鳴った。

「大王大王。ご喜悦のあまり、呉が送ってきた大きな禍いまでを、ともに受け取ってはなりませんぞ!」

曹操がなぜかと尋ねると、司馬懿は憚(はばか)りなく断言した。

「これは呉が禍いを転じ、蜀(しょく)の恨みを魏へ向けさせんとする恐ろしい謀計です。関羽の首をもって魏蜀の相克を作り、二国戦い疲れるのを待つ呉の奸知(かんち)たることに間違いありません」

曹操はおぞけを震い、司馬懿の言は、真に呉の意中を看破したものだとうなずく。関羽の首をそのまま返そうかとまで評議したが、ここでも司馬懿の意見が採られた。

「いや、それでは大王のご襟度が小さくなります。ひとまず納めて、何げなく使者をお帰しになったうえで、また別にお考えを施せばよろしいでしょう」

やがて呉の使者が引き揚げると、曹操は喪を発し、100日間、洛陽の音楽を停止させた。

そして沈香(ジンコウ)の木をもって関羽の骸(むくろ)を刻ませ、首とともに洛陽南門外の一丘に葬らせる。葬祭は王侯の礼をもって執行され、葬儀委員長には司馬懿があたった。

なおこの盛大な国葬の式場には、特に魏王(ぎおう)曹操から奏請した勅使が立ち、地下の関羽へ「荊王(けいおう)の位を贈りたまう」と、贈位の沙汰まであった。呉は禍いを魏へ移し、魏は禍いを転じて蜀へ恩を売った。

(03)成都(せいと)

ここで時は少しさかのぼるが――。成都にある劉備(りゅうび)は、これ以前に劉瑁(りゅうぼう)の未亡人で呉氏(ごし)という同宗の寡婦(やもめ)を後宮に入れ、新たに王妃とした。

ここで名のみ登場している劉瑁は劉璋(りゅうしょう)の兄。呉氏は呉懿(ごい。呉壱〈ごいつ〉)の妹。呉氏を同宗(の寡婦)としていたのは気になったが、劉瑁の妻だったという関係からきた表現だろう。

なお『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第77回)では、「以前、呉氏は劉瑁と婚約していたが、劉瑁が早死にしたため……」とあり、いくらかニュアンスが異なっている。

呉氏は貞賢で顔色も優れていた。劉備が荊州にいたころ、孫権の妹を娶(めと)ったこともある。だが、この呉妹と別れ去ってからは、久しく寂寞(せきばく)な家庭に置かれていた。

その劉備も、若い王妃の呉氏との間にふたりの男子を儲けた。兄は劉永(りゅうえい)、あざなを公寿(こうじゅ)。弟は劉理(りゅうり)、あざなを奉孝(ほうこう)という。

このころ荊州方面から蜀へ来た者の話が、おもしろおかしく伝わる。

「呉の孫権が関羽を抱き込もうとして、彼の娘を嫡子に迎えようと使者を遣ったところ、関羽は『虎の子を犬の児(こ)の嫁にはやれん』と断ったそうですよ」

このうわさが諸葛亮(しょかつりょう)の耳に入ったのは、だいぶ後だった。

荊州に変が起こると直覚した諸葛亮が、「誰か代わりを遣って関羽と交代させないと、荊州は危うくなりましょう」と劉備に注意したころには、すでに荊州から戦況をもたらす早馬が日夜、蜀へ入ってきていた。

けれど、みな勝ち戦の報ばかりだったので、むしろ劉備も喜んでいた。

やがて(建安〈けんあん〉24〈219〉年の)秋10月の一夜、劉備は机に寄ってウトウトと居眠っているところを、王妃の呉氏に呼び起こされる。そこで、今ふと見た夢に慄然(りつぜん)と辺りを見回した。

吉川『三国志』の設定としては矛盾がないが、井波『三国志演義(5)』(第77回)では、関羽が処刑されたのは建安24(219)年の冬12月となっていた。

管理人「かぶらがわ」より

どうも荊王が気になります。官職の追贈ならともかく、王位が追贈されたというなら、関羽の息子の関興(かんこう)などが継いで当然ではないかと……。

ですが、そういったことには一切触れられていません。これでは『三国志演義』の安っぽい持ち上げに見えても仕方がなく、納得できない設定でした。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました