吉川版『三国志』の考察 第019話 「蛍の彷徨い(ほたるのさまよい)」

大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)が暗殺されると宮中は大混乱に陥り、新帝(弁皇子〈べんおうじ〉。辯皇子)と陳留王(ちんりゅうおう。協皇子〈きょうおうじ〉)も十常侍(じゅうじょうじ)の張譲(ちょうじょう)らによって城外へ連れ去られる。

しかも観念した張譲が途中で河に飛び込んでしまったため、残された幼いふたりは衣の袂(たもと)を結び合わせ、蛍が舞う姿に心を奮い起こして歩き続けることに……。

第019話の展開とポイント

(01)洛陽(らくよう) 青鎖門(せいさもん)

何進(かしん)が殺されたとわかると、中軍校尉(ちゅうぐんこうい)の袁紹(えんしょう)は呉匡(ごきょう)とともに500の精兵をひきい、宮門に火を放ってなだれ込む。たちまち宮殿は土足の暴兵に占領され、宦官(かんがん)らしき者は見つかりしだい殺された。

十常侍(じゅうじょうじ)の趙忠(ちょうちゅう)や郭勝(かくしょう)らは、西宮(せいきゅう)の翠花門(すいかもん)まで逃げ転んだが鉄弓で射止められ、虫の息で這(は)っているところをズタズタに切り刻まれた。

井波版『三国志演義』(第3回)では、ここに「程曠(ていこう)」と「夏ウン(かうん。忄+軍)」の名も見えた。「夏ウン」については吉川版『三国志』では「夏輝(かき)」とあり、先の第13話(02)で既出。一方の「程曠」については吉川版『三国志』では使われていないようだ。

(02)洛陽 北宮(ほくきゅう) 翡翠門(ひすいもん)

十常侍の張譲(ちょうじょう)と段珪(だんけい)のふたりは新帝と何太后(かたいこう)、それに新帝の弟で陳留王(ちんりゅうおう)の協皇子(きょうおうじ)を黒煙の中から助け、北宮の翡翠門から逃げ出す準備をしていた。

井波版『三国志演義』(第3回)ではここに「曹節(そうせつ)」と「侯覧(こうらん)」の名も見えたが、吉川版『三国志』ではふたりとも使われていないようだ。なお、ここでいう「曹節」は曹操(そうそう)の曾祖父にあたる「曹節」とは別人。

そこへ中郎将(ちゅうろうしょう)の盧植(ろしょく)が駆けつけ大喝したが、彼が馬から下りている間に張譲らは新帝と陳留王を連れて逃げる。

何太后だけは手元に引き留めることができた盧植。ちょうど宮中各所の火災を消し止めていた校尉の曹操に出会う。盧植と曹操は、何太后に新帝が帰還するまで大権を執るよう要請。諸方に兵を遣り新帝と陳留王の後を追わせる。

(03)洛陽の郊外

張譲らは新帝と陳留王を連れ逃げ落ちてきたが、一隊の人馬が追ってくるのを見て観念。張譲は河へ飛び込んで自殺した。

新帝と陳留王は河原の草むらの中で抱き合い、近づいてくる兵馬にしばらく耳を澄ませる。これは河南(かなん)の中部掾史(ちゅうぶえんし)の閔貢(びんこう)ひきいる一隊だったものの、何も気づかずに駆け去っていった。

井波版『三国志演義』(第3回)では河南中部の掾吏(えんり。属官)の閔貢とある。

陳留王に促されて立ち上がる新帝。ふたりは衣の袂(たもと)と袂とを結び合わせ、闇の中を歩き始める。目の前に現れた蛍の一群に元気づけられ、夜明けごろまで歩き続けた。

やがて疲れきったふたりは眠ってしまうが、そのうちひとりの男に起こされる。この男は先朝に仕えていた司徒(しと)の崔烈(さいれつ)の弟で、「崔毅(さいき)」という者だった。

陳留王が自分たちの身分を明かすと、崔毅はふたりを自宅である荘院の中へ迎え入れ、改めて礼を施した。

この夜明けごろ、先に河へ身を投げて死んだ張譲を見捨て、ひとり野道を逃げ惑ってきた段珪だったが、途中で閔貢の隊に見つかり斬られた。

(04)崔毅の荘院

崔毅はふたりに食事を捧げ、しばらく眠るよう勧めると、自ら外の見張りに立つ。半日もすると馬の鞍(くら)に段珪の生首を結いつけた閔貢がやってきた。

崔毅は、厩(うまや)から一頭の痩馬(そうば)を引いてきて新帝に献上。閔貢は自分の馬に陳留王を乗せ、二頭の口輪をつかむと、門を出て諸所へ散らかっている兵を呼び集めた。

井波版『三国志演義』(第3回)では、新帝(少帝〈しょうてい〉)が崔毅の献じた痩せ馬に乗ったというのは同じだったが、陳留王のほうは閔貢の馬に一緒に乗ったことになっていた。

(05)洛陽の郊外

閔貢が新帝と陳留王を伴って2、3里(り)ほど来ると、校尉の袁紹らと出会う。司徒の王允(おういん)に太尉(たいい)の楊彪(ようひょう)、さらに左軍校尉(さぐんこうい)の淳于瓊(じゅんうけい)、右軍(ゆうぐん。「右軍校尉」)の趙萌(ちょうぼう)、後軍校尉(ごぐんこうい)の鮑信(ほうしん)らもそれぞれ数百騎をひきいて来合わせ、新帝にまみえてみな泣いた。

よく出てくるので補足しておくと、「左軍校尉」「右軍(右軍校尉)」「後軍校尉」はみな「西園八校尉(せいえんはちこうい)」をイメージしたものだと思われる。「西園八校尉」は、中平(ちゅうへい)5(188)年に霊帝(れいてい)により新設された直属軍。

范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉)の李賢注(りけんちゅう)に引く楽資(がくし)の『山陽公載記(さんようこうさいき)』によると、「小黄門(しょうこうもん)の蹇碩を『上軍校尉(じょうぐんこうい)』とし、虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)の袁紹を『中軍校尉』とし、屯騎校尉(とんきこうい)の鮑鴻(ほうこう)を『下軍校尉(かぐんこうい)』とし、議郎(ぎろう)の曹操を『典軍校尉(てんぐんこうい)』とし、趙融(ちょうゆう)を『助軍左校尉(じょぐんさこうい)』とし、馮芳(ふうほう)を『助軍右校尉(じょぐんゆうこうい)』とし、諫議大夫(かんぎたいふ)の夏牟(かぼう)を『左校尉(さこうい)』とし、淳于瓊を『右校尉(ゆうこうい)』とした。全部で8校尉あり、みな蹇碩の統率下に置かれた」という。

これと比べてみると、吉川版『三国志』の設定はだいぶ異なっていることがわかる。一部の校尉職については「西園八校尉」を意識したものでないのかもしれない。

段珪の首は先に早馬で洛陽へ送られ、市街でさらし首にされる。同時に、新帝の無事と還幸が布告された。

こうして新帝の御駕(ぎょが。天子〈てんし〉の乗り物)が洛陽へ向かって進むと、にわかに董卓(とうたく)が軍勢をひきいて姿を現す。董卓は袁紹の大喝を意に介さず、御駕の間近まで迫ってくる様子。

みな呆気(あっけ)に取られて阻めずにいたところ、御駕のすぐ後ろから馬を進めた陳留王が涼やかに叱りつける。あわてて馬上で礼をする董卓。

陳留王は来訪の意図をただし、下馬するよう命ずる。その威厳に打たれた董卓はふた言もなく、またもあわてて馬から飛び下り、道の傍らで車駕(天子の乗る車)を拝す。

ほどなく新帝は洛陽への還幸を果たしたが、董卓の心の中には陳留王を帝位に即けようとの大野望が芽生えていた。

管理人「かぶらがわ」より

権勢を振るった十常侍が始末され、何とか洛陽に戻ることができた新帝と陳留王。西涼(せいりょう)の暴れん坊も、ここでは陳留王に叱りつけられてしまうのでした。

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