吉川『三国志』の考察 第227話「生きて出る柩(いきてでるひつぎ)」

樊城(はんじょう)の曹仁(そうじん)が関羽(かんう)に包囲されると、曹操(そうそう)は援軍の総大将に于禁(うきん)を指名したうえ、豪勇の龐徳(ほうとく。龐悳)を副将とし、七手組(ななてぐみ)と呼ぶ、自身の親衛軍も添えることにした。

すでに副将の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を授かった龐徳だったが、夜半に曹操から急な呼び出しがあり、軍令の変更を伝えられる。その理由を聞いた龐徳は――。

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第227話の展開とポイント

(01)樊城

樊城は包囲された。弱敵に囲まれたのと違い、名だたる関羽とその精鋭軍に包囲されたのであるから、落城の運命は当然に迫った。

(02)鄴都(ぎょうと) 魏王宮(ぎおうきゅう)

樊城から来援を乞う早馬が着くと、魏王宮中は大いに憂える。

『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第73回)では、このとき曹操は長安(ちょうあん)にいた。

曹操は評議の席に臨むと、列座を見回して于禁を指名。

于禁は重責を感じ、この命を受けるとともに、誰か先手の大将たるべき豪勇の人を添えてほしいと願い出る。

すると龐徳(龐悳)が名乗り出た。漢中(かんちゅう)進攻で捕らわれて以来、曹下の禄を食(は)んでいた者である。

曹操はこれを許したうえ、七手組を加勢に付けた。彼の親衛軍七手の大将で、魏軍数百万から選び挙げた豪傑たちだった。

ところがその夜、七手組の董衡(とうこう)が密かに于禁を訪ね、副将として龐徳が先陣にあたることへの不安を述べる。

龐徳は西涼(せいりょう)の生まれで、馬超(ばちょう)の腹心だった者。その馬超は、いま蜀(しょく)で劉備(りゅうび)に重用され、五虎大将軍(ごこだいしょうぐん)のひとりに加えられている。

五虎大将軍について、井波『三国志演義(5)』(第73回)では五虎大将となっていた。

のみならず、龐徳の兄の龐柔(ほうじゅう)も蜀にいる。そういう危険な陰影を持っている人物を先陣に立てて、蜀軍とまみえることは、何とも複雑な神経を抱かせるのだと。

これを聞いた于禁は、夜中ながら曹操に目通りを願い、その由を告げた。曹操はひとまず聞き置くとし、別に使いを遣って龐徳を呼び寄せる。

曹操が軍令の変更を伝え、いったん授けた印綬を取り上げると、龐徳は面色を変えて訴えた。

曹操は、予自身は汝(なんじ)に二心がないことをわかっているが、衆口は何とも防ぎようがないとなだめる。

龐徳は冠を解き、床に座し、頓首(とんしゅ。頭を地面に打ちつけて礼をすること)して自己の不徳を詫びた。

なお龐徳は激しく語り続け、兄の龐柔とは多年、義絶している仲であること。また馬超とは別離以来、一片の音信も通じていないこと。

ことに馬超のほうから自分を捨てて、蜀へ降ったものであるから、今日その人に義を立て、蜀軍に弓を引けないような筋合いはまったくないのだと述べた。

曹操は龐徳の身を助け起こし、いと懇ろに苦悶(くもん)をなだめた。

こうして印綬が戻されると、龐徳は感涙にむせび、誓って大恩にお応えせんと、百拝して退出した。

(03)鄴都 龐徳邸

龐徳の屋敷には、出陣の餞別(はなむけ)を呈するため、知己朋友(ほうゆう)が集まった。

井波『三国志演義(5)』(第73回・第74回)の筋に従うなら、ここも鄴都ではなく長安になるが、話の展開と合わない。吉川『三国志』では、ここは鄴都だという設定で話が進んでいる。

帰宅した龐徳は召し使いを走らせ、死人を納める柩(ひつぎ)を買いに行かせる。そして妻の李氏(りし)に、柩を酒席の正面に飾っておくよう言う。

井波『三国志演義(5)』(第74回)では、帰宅した龐徳が職人に木棺を作らせたとあった。

龐徳は着替えたあと客間に臨んだが、客はみな正面の柩をいぶかり、お通夜のように潜まり返っていた。

龐徳は今宵の顚末(てんまつ)を逐一話し、魏王の大恩に感泣して帰ってきた心事を一同へ告げ、関羽との決戦に臨む覚悟を述べた。

悲壮な主の決心を知り、満座みな袖を濡らしたが、妻の李氏は、かいがいしく侍女や下僕を指図して、夜の白むまで夫や客の酒間に立ち働き、ついに涙を見せなかった。

夜が白むと、鄴都の街は鉦太鼓(かねたいこ)の音がやかましい。于禁の一族や七手組の大将が、それぞれ出陣する触れである。

龐徳の屋敷でも、はや門を開かせ、掃き清めた道を、やがて主人が郎党を従えて出てきた。見れば彼の兵は列の真っ先に、白錦襴(しろきんらん。金襴〈金の糸を模様に織り込んだ美しい織物〉の類い)で覆いをした柩を高々と担っている。

門外に堵列(とれつ)していた500余人の部将や士卒はびっくりした。葬式が出てきたと思ったからである。

龐徳は馬上から、生きて帰らぬ決心と魏王の大恩を告げた。さらに、もし自分が関羽に討たれてむなしき屍(しかばね)となったときは、この柩に亡骸(なきがら)を納め、魏王の見参に入れてくれとも話す。

(04)鄴都 魏王宮

曹操は龐徳の出陣ぶりを聞き、喜悦を表す。

ここも井波『三国志演義(5)』(第74回)では、長安での出来事として描かれている。

すると、そばにいた賈詡(かく)が注意を促した。武勇だけなら龐徳は関羽とも互角だが、知略では到底及ばないだろうと。魏のまたなき大将を、むざむざ死なせに遣るようなことは、決して良計とは思えないとも。

曹操は使いを遣り、龐徳に王命を伝えさせた。戦場に着いても、必ず軽々しく仕掛けるな。敵を浅く見るな。関羽は知勇兼備の聞こえある者。くれぐれも大事を取り、仕損ずるなかれと。

管理人「かぶらがわ」より

味方から起用を危ぶむ声が出て、男泣きに忠心を示す龐徳。これほどの勇将が曹操に付いたことは、劉備にとっては痛手でしたね。

もちろん馬超や馬岱(ばたい)は活躍してくれましたが、それに龐徳も加わっていたら――。諸葛亮(しょかつりょう)の作戦にも少なからず影響を与えたはず……。

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