吉川『三国志』の考察 第242話「曹操死す(そうそうしす)」

曹操(そうそう)は華陀(かだ。華佗)の治療を拒んだばかりか、投獄して処刑する。

その後、曹操の容体はいくらか持ち直すも、回復に至らず。建安(けんあん)25(220)年正月、66年の生涯を閉じた。

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第242話の展開とポイント

(01)洛陽(らくよう)

せっかく名医に会いながら、曹操は華陀(華佗)の治療を受けなかった。のみならず、その言を疑い、獄へ投じてしまったのである。まさに、彼の天寿もここに尽きるの兆(しるし)というほかない。

ところが典獄(てんごく)の呉押獄(ごおうごく)は、罪なき華陀の災難を気の毒に思い、夜具や酒食を差し入れたり、拷問にかけよと命ぜられても密かにかばい、報告だけしていた。

『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第78回)では、呉という姓で、呉押獄と呼ばれている牢番がいたとある。

華陀は深く恩を感じ、ある日、人目のない折に落涙して言う。

「呉押獄。情けはありがたいが、もし上司に知れたら、たちまち御身(あなた)は免職になるであろう。わしもすでに老齢じゃ。長からぬ命と今は悟っておる。以後はどうか放っておいてほしい」

それでも呉押獄は、自分は姓と同じく呉の生まれで、若いころには医者の書生となって勉強したこともあったと明かし、そのような心配はいらないと言った。

井波『三国志演義(5)』(第78回)では、呉押獄が呉の生まれだったという設定はうかがえない。

華陀は恩返しの一端に、金城(きんじょう)の自宅に秘蔵している『青囊(せいのう)の書』を譲ろうと言い、家人あてに手紙を書く。

『三国志演義 改訂新版』(立間祥介〈たつま・しょうすけ〉訳 徳間文庫)の訳者注によると、「(ここでいう金城は)洛陽北西角の金墉城(きんようじょう)」だという。

このころ曹操の病が重体と伝わり、宮門の内外も各役所も何となく繁忙と緊張を加えていた。そのため呉押獄は、華陀からもらった手紙を深く肌身に秘し、つい10日余りを過ごしていた。

するとある日の早暁、突然、剣を提げた7人の武士が獄府へ来る。魏王(ぎおう。曹操)のご命令だと言って、牢番に華陀のいる獄の扉を開かせ、中へ躍り込んだかと思うと、一声のうめき声が外まで聞こえた。

呉押獄がそこへ来て見たときは、血刀を提げた7人が悠々と帰っていくところだった。魏王のご命令で成敗したのだという。華陀が毎晩のように夢の中に現れるゆえ、斬殺してこいとのお言いつけだったとも。

呉押獄はその日のうちに役を辞め、金城へ旅立つ。そして華陀の家を訪ねて手紙を渡し、『青囊の書』を乞い受けて郷里に帰った。

このあたりの記述(役をやめて金城へ旅立った)からは、金城が涼州(りょうしゅう)の金城郡と解釈されている印象を受けるが……。

(02)呉 呉押獄の家

「俺は典獄を辞め、これからは医者で立つ。しかも、天下の大医になってみせる」

呉押獄は久しぶりに酒など飲み、妻にも語り、その晩はわが家に寝た。翌朝、ふと庭面を見ると、妻が落ち葉を積んで焚き火をしている。

呉押獄はあっと驚き、「ばかっ。何をするか!」と、焚き火を踏み消して叫んだが、もう『青囊の書』は落ち葉の火とともに灰になっていた。

だが妻は、血相を変えて怒り立つ夫へ、灰のごとく冷ややかに言い返す。

「たとえあなたの身が、どれだけ流行るお医者になってくれても、そのことから捕らわれて獄へ引かれたら、それまでではありませんか?」

「私は禍いの書を焼き捨てたのです。いくら叱られても構いません。夫を獄中で死なせるのを、妻として見ているわけにはまいりませんから――」

ために華陀の『青囊の書』は、ついに世に伝わらなかったのだという。

(03)洛陽

(建安24〈219〉年の)冬の初め、ひとたびは曹操の危篤が伝えられたが、12月に入ると容体は持ち直してきた。そこへ呉の孫権(そんけん)から見舞いの使節が入国する。

孫権は書簡に自ら「臣孫権」と書き、「魏が蜀(しょく)をお討ちになるならば、臣の軍勢はいつでも両川(りょうせん。東川〈とうせん〉と西川〈せいせん〉。漢中〈かんちゅう〉と蜀)へ攻め入り、大王の一翼となって忠勤を励むでしょう」と、媚(こび)を示していた。

ここに至って、漢朝(かんちょう)の廷臣や侍中(じちゅう)・尚書(しょうしょ)などの職にある一部の策動家の間に、曹操を大魏皇帝の位に上せ、あるかなきに等しい漢朝を廃し、自分たちもともに栄耀(えいよう)を図ろうとする運動が密かに進んでいた。

しかし曹操は、「予はただ周(しゅう)の文王(ぶんのう)たればよし」と言うのみで、自身が帝位に即こうとは言わない。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(周の文王は)周王朝の事実上の始祖。文王自身は終生、殷(いん)の臣下であったが、その子の武王(ぶおう)が殷を伐(う)ち、周を開いた」という。

また曹操は司馬懿(しばい)の進言を容れ、孫権を驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)・南昌侯(なんしょうこう)とし、荊州牧(けいしゅうぼく)を兼ねさせることにする。

その晩、曹操は夢を見た。3頭の馬がひとつの飼桶(かいおけ)に首を入れ、餌を争い食っている。そのような夢を見たのだった。

朝になって話すと、賈詡(かく)は笑って言った。

「馬の夢は吉夢ではありませんか。ですから馬の夢を見ると、民間ではお祝いをするくらいですよ」

何(いずく)んぞ知らん、この一夢は、やがて曹家に代わって司馬家が天下を取る前兆ではあった、と後になって付会して語る人々もあった。

新潮文庫の註解によると「飼桶(槽)が曹氏(槽と曹は同音)を、三馬が司馬父子(司馬懿・司馬師〈しばし〉・司馬昭〈しばしょう〉)を暗示している」という。

12月の半ばごろから、曹操の容体は再び険悪になった。一代の英雄児も病には勝てない。彼は昼夜となく悪夢にうなされた。

侍臣は、天下の道士を集め、ご祈とうを命ぜられるようにと勧めたが、曹操は苦笑して退ける。その後、すべての重臣を枕頭(ちんとう)に呼び、厳かに言った。

「予には4人の子があるが、4人ともがみな俊英秀才というわけにもいかない。予の観るところは、平常のうちにお前たちにも語っておる。汝(なんじ)らよくわが意を酌み、忠節を継ぎ、予に仕えるごとく、長男の曹丕(そうひ)を立て、長久の計を図れよ。よろしいか」

話を簡単にするため4人の子としたのだろうが、史実の曹操には25人の息子がいた。また、先の第206話(02)で娘が献帝(けんてい)の皇后に立てられていることからも明白ながら、もちろん曹操には娘もいた。ちなみに、ここでいう4人の子はみな卞氏(べんし。後の武宣卞皇后〈ぶせんべんこうごう〉)の子で、同母兄弟だった。

こう言うと、曹操はその瞬間に66年の生涯を一望に回顧したのであろう。涙雨のごとく頰を濡らし、一族や群臣の嗚咽(おえつ)する眸(ひとみ)の中に、忽然(こつぜん)と最期の息を終わった。

時は建安25(220)年の春正月の下旬、洛陽の城下に石のような雹(ひょう)が降っていた。

管理人「かぶらがわ」より

まさに『三国志』の巨星落つの観。やはり、この時代の主役は曹操だったのだと、思わずにはいられません。

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『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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