吉川版『三国志』の考察 第233話 「笠(かさ)」

関羽(かんう)が頼みにしていた烽火台(のろしだい)もまったく機能せず、呂蒙(りょもう)の知謀の前にあえなく荊州(けいしゅう)は陥ちた。

呂蒙は占領後の民心の安定にも気を配り自ら城内を巡察したが、にわか雨の中、ひとりの兵士が百姓の笠をかざし駆けてくるのを目にする。

第233話の展開とポイント

(01)荊州(けいしゅう)

荊州の本城は実に脆(もろ)く陥ちた。

ここでも「荊州城(荊州の本城)」がどこを指しているのかはっきりしない。おそらく「江陵城(こうりょうじょう)」だと思われるが……。

関羽(かんう)はあまりに後方を軽んじすぎた。戦場のみに充血し、内政と防御の点には重大な手抜かりをしていた嫌いがある。

「烽火台(のろしだい)」の備えに頼みすぎていたこともひとつだが、とりわけまずいのは国内を守る人物に人を得ていなかった点である。留守の大将の潘濬(はんしゅん)は凡将だったし、公安(こうあん)の守将たる傅士仁(ふしじん)も軽薄な才人にすぎない。

「傅士仁」については先の第226話(08)を参照。

よりによって、なぜこのような凡将を残していったかといえば、樊城(はんじょう)へ出陣する前、この二将に落ち度があった。

関羽は軍紀振粛のためその罪をいたく責め、懲罰の代わりにふたりを出征軍から省いた。留守に回されるということは、武門として軍罰を被るよりも不名誉とされていたからである。

井波版『三国志演義』(第73回)では、落ち度があったため留守に回されたのは「傅士仁」と「糜芳(びほう。麋芳)」。潘濬は関羽の命により、後から守りに派遣されたことになっていた。

潘濬が真の人物なら、この不名誉はむしろ彼を発奮させたであろうが、潘濬も傅士仁も内心で恨みを抱き、もう関羽の麾下(きか)では将来の出世はおぼつかないと、商機を計るような考えを起こした。

そして内政も軍事もまったく怠っていたところへ、「つなぎ烽火」も何の前触れもなく、いきなり呉の大軍が攻めてきた。結果から見れば実に当然の陥落だったとも言える。

呂蒙(りょもう)は占領直後、孫権(そんけん)の入城を待たずに布告した。

「一、みだりに人を殺す者。一、みだりに物を盗む者。一、みだりに流言を放つ者。以上、その一を犯す者は斬罪に処す」

荊州城にあった関羽の一族は呂蒙の指図により丁重にほかの屋敷へと移され、不安や不自由なく保護されていた。これを見た荊州の人民は「ありがたいことだ」と、呂蒙の名を口から口へささやき伝えた。

呂蒙は日々、5、6騎の供を連れ、自ら戦後の民情を見て歩く。ある日、その途中でにわか雨に遭い、なお濡(ぬ)れながら巡視を続けていると、彼方からひとりの兵士が百姓のかぶる竹笠(たけがさ)を兜(かぶと)の上にかざしながら、一目散に駆けてくるのを見かけた。

部下に命じて捕らえさせると、その兵士はよく顔を知っている同郷の男だった。しかし、呂蒙は兵士をにらんで言う。

「日ごろから私は同郷や同姓の者は殺さずという誓いを立てていたが、それは私事であり公務の誓いではない」

ここで呂蒙が話していた誓いについては、井波版『三国志演義』(第75回)では見えなかった。

「汝(なんじ)はにわか雨に遭い、百姓の竹笠を盗んだ。高札に掲げる一条を犯した以上は、たとえ同郷の者たりとも法を乱すわけにいかん。首にして街へ掛けるから観念するがよい」

仰天した兵士は雨中に哀号したが、呂蒙はただ顔を横に振るだけだった。兵士の首と竹笠が獄門となってさらされる。市人はうわさを伝え聞きその徳に感じ、呉の三軍は震い恐れ、道に落ちている物も拾わなくなった。

江上で待っていた孫権が諸将を従え入城すると、潘濬の乞いを容れて呉軍に加える。また、獄中にあった魏(ぎ)の虜将の于禁(うきん)を引き出し、「呉に仕えよ」と首枷(くびかせ)を解いてやった。

于禁が荊州の獄中にあったことについては、先の第229話(04)を参照。なお、井波版『三国志演義』(第75回)では孫権は于禁を釈放し、曹操(そうそう)のもとへ送り返したとある。

管理人「かぶらがわ」より

「たかが竹笠、されど竹笠」。ややパフォーマンス的な処刑まで活用する形で、巧みに民心を掌握したうえ軍紀まで引き締めた呂蒙。

別の屋敷に移されたという関羽の一族にもう少し触れてほしいところでしたが、そのあたりは史実でもわからないことが多いようです。

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