吉川『三国志』の考察 第232話「呂蒙と陸遜(りょもうとりくそん)」

呂蒙(りょもう)の進言を容れる形で、密かに曹操(そうそう)と結ぶことを決めた孫権(そんけん)。

呂蒙は任地の陸口(りくこう)に戻って進撃の機会をうかがうも、荊州(けいしゅう)の関羽(かんう)が厳重に備えていることを知る。そこで病と称して建業(けんぎょう)に帰り、孫権に陸遜(りくそん)を抜てきするよう求めた。

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第232話の展開とポイント

(01)建業

陸遜は呂蒙より10幾歳も年下だった。まだ当時は呉郡(ごぐん)の一地方に置かれ、その名声は低く、地位も佐官級ぐらいにとどまっていた。

だが、彼の才幹は呉侯(ごこう。孫権)も日ごろから愛していたところだし、なおさら呂蒙は深く観て、その将来に嘱目していた。

陸遜は光和(こうわ)6(183)年生まれで、呂蒙は光和元(178)年生まれ。史実では陸遜が5歳年下になる。

ここで陸遜の名声や地位がまだ低かったとあったが、先の第211話(01)では10万の味方をひきいて濡須(じゅしゅ)へ駆けつけていた。10万もの大軍をひきいるほどの人物が佐官級と言えるのだろうか?

呂蒙と陸遜は同船して、陸口から建業へ帰る。そして孫権にまみえ、荊州の実情を詳しく告げた。併せて呂蒙は、自分の仮病は敵方に対する当面の一謀にすぎない旨を語り、心を煩わせたことを詫びた。

さらに呂蒙はこうも言い、自分の後任として陸遜を推す。

「この機会に陸口の守りには、ぜひ誰か別人をご任命ください。それがしがおっては、関羽は防御の手を緩めません」

初めは陸遜の起用に難色を示した孫権も、呂蒙に説かれて決断。まもなく陸遜は偏将軍(へんしょうぐん)・右都督(ゆうととく)に昇った。

この肩書きを見る限り、それほど破格な昇進とは思えないが……。

こうして陸口への赴任が発令されると、驚いた陸遜は何度も辞退したが、孫権は聞き入れない。

馬1頭と錦2段(たん)、それに酒肴(しゅこう)を贈ったうえ、「はや行け」と餞別(はなむけ)した。

(02)陸口

是非なく陸口に着任すると、すぐに陸遜は礼物に書簡を載せ、関羽の陣に新任の挨拶を申し送った。この使者を前に置き、関羽はたいへん笑ったという。

「呂蒙病んで、いま黄口の小児に陸口を守らしむ。時なるかな。以後、荊州の守りは安し。祝着祝着」と、ひとり悦に入りながらしきりに笑っていたともいう。

帰ってきた使者から様子を聞くと、陸遜も同じように、「祝着祝着。それでよし」と、限りなく喜んだ。

その後、わざと陸遜は軍務を怠り、ひたすらジッと関羽の動静をうかがう。すると関羽は、ようやく臂(ひじ)の矢傷が癒えてくるとともに、樊城(はんじょう)の占領に意を注ぎ始めた様子。

先ごろから目立たぬように、陸口方面の兵力を割いて、樊城のほうへぼつぼつ動かしだしたようだった。

「時いたる」。陸遜はその由を、すぐ建業へ急報した。

(03)建業

急報を受けた孫権は呂蒙を呼び、陸遜と協力して荊州を攻め取るよう命を下し、後陣の副将として、特に自身の弟の孫皎(そんこう)を添える。

孫皎は孫権の弟とあったが、実は従兄弟。孫皎の父の孫静(そんせい)が孫堅(そんけん)の弟で、孫権にとって叔父にあたる。なお『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第75回)では、孫権が従弟の孫皎と話しており、孫皎が孫静の次男(正史『三国志』では三男)であると説明されていた。

一夜のうちに、精兵3万が80余艘(そう)の速船(はやぶね)や軍船に乗り込む。参軍の諸将には韓当(かんとう)・蔣欽(しょうきん)・朱然(しゅぜん)・潘璋(はんしょう)・周泰(しゅうたい)・徐盛(じょせい)・丁奉(ていほう)など名だたる猛者のみが選ばれた。

この中の10艘ほどは商船を装い、商人に変装した者ばかりが、山をなす商品を積んで、半日ほど先に長江(ちょうこう)をさかのぼっていった。

(04)象山(ぞうざん)

日を経て、呉の偽装船団は潯陽江(じんようこう)の北岸へ漂い着く。漆のような闇を風浪のすさぶ夜だったが、帆を休める暇(いとま)もなく、すぐ一隊の兵に発見される。船から出た7人の代表者は、そのまま彼らの屯営へ拉致(らち)されていった。

番兵は関羽の麾下(きか)である。この象山には例の烽火台(のろしだい)があり、陸路荊州まで斜めに数百里の間、同じ備えが諸所にあった。

屯営は山の下にあり、7人の代表者は厳重な調べを受ける。もちろん彼らは呉の武人だが、言葉巧みに商人と信じ込ませ、夜明けまで岸辺に留まる許可を求めた。

こもごもに嘆願したうえ、船中から携えてきた南方の佳酒や珍味を取り出して、番将へ賄賂を贈ると、にわかに吟味も和らぐ。

番将が言う。

「ではまず大目に見ておくが、ここは烽火台もある要塞地帯じゃ。夜明け早々、潯陽のほうへ船を移せよ」

やがてひとりが岸へ戻り、さらに十数人の船夫(ふなこ)を連れてくる。手に手に酒の壺(つぼ)や食べ物を提げ、船中一同の感激を述べ、これを献上したいと申し出た。

番将は先に受け取った酒を開け、すでにほろ酔い気分。彼に続き、たちまち部下たちも酔いだす。船から上がってきた面々は、蛮歌や民謡などの隠し芸まで披露して興を添えた。

そのうち番兵が異変に気づく。外へ飛び出すと、一陣の騎兵が取り巻いている。烽火台のほうも、山の裏から這(は)い上がった別動隊に占領されていた。

夜が明けてみれば、昨夜の商船ばかりか、80余艘の艨艟(もうどう。突撃艦)が江上を圧している。

艨艟は既出だが、「もうどう」と「もうしょう」でルビに揺れが見られる。

荊州の守備兵は、みな呆然(ぼうぜん)とした顔つきで生け捕られた。呂蒙は上陸して捕虜を見ると、懇ろに諭す。

「驚くな。恐れるな。お前たちの命を取りはしない。むしろ汝(なんじ)らは今日以後、手柄次第では、将来の大きな出世を約束されているものだ」

そして、金品を与えて実際に優遇を示した後、捕虜の中から確実な降人とみられる者を選んで放した。「次の烽火台を守っている番将を説け。もし説き伏せて功を上げたら、取り立ててやる」と。

(05)荊州(江陵〈こうりょう〉?)

この策は次々に功を奏し、呂蒙の大軍は日々荊州へ近づいた。こうして、敵が非常に備えていたつなぎ烽火をほとんど効なきものとし、やがて荊州城下へなだれ込む。

先に呂蒙は莫大(ばくだい)な恩賞を懸け、降人の一群を城下へ紛れ込ませ、流言を放って敵を攪乱(こうらん)していた。

別の降人の一隊は荊州城の下まで来て、「門を開けろ。一大事がある!」とわめく。城中の者が味方と見て城門を開けると、たちまち呉軍がなだれ入り、八方へ放火。ここも混乱のるつぼと化してしまった。

管理人「かぶらがわ」より

せっかくの烽火台がまったく機能せず、いとも簡単に呉軍の侵入を許した荊州。さすがの関羽にも油断があったのか? それとも、彼の部下への信頼が仇(あだ)になったのか?

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