吉川『三国志』の考察 第042話「秋雨の頃(あきさめのころ)」

反董卓(とうたく)連合軍の解散後、曹操(そうそう)は兗州(えんしゅう)に拠って地盤を固め、彼のもとには有能な人材が集まりつつあった。

ここで曹操は瑯琊(ろうや。琅邪)に隠居していた父の曹嵩(そうすう)のことを思い出し、泰山太守(たいざんたいしゅ)の応劭(おうしょう。応邵)に命じて迎えに行かせるが――。

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第042話の展開とポイント

(01)兗州(東武陽〈とうぶよう〉?)

諸州の浪人の間では、近ごろ兗州の曹操がしきりと賢を招いて士を募り、有能な者を厚遇しているとの評判が広がっていた。これを聞き、兗州へ志して行く勇士や学者が多かった。

『三国志演義 改訂新版』(立間祥介〈たつま・しょうすけ〉訳 徳間文庫)の訳者注によると、「(兗州は)ここでは兗州の東郡(とうぐん)東武陽県を指す。曹操は初平(しょへい)2(191)年の後半に東郡太守となり、東武陽県城を郡治(郡の役所が置かれた場所)として駐屯していた」という。

そのうち青州(せいしゅう)地方で再び黄巾賊(こうきんぞく)が蜂起すると、朝廷は曹操に討伐を命ずる。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第10回)では、太僕(たいぼく)の朱儁(しゅしゅん)が曹操を推薦していた。

曹操の精兵はたちまち掃滅。朝廷は功を嘉(よみ)して鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)に任じた。

このとき曹操は、叙任の恩典より遥かに大きな実利を得ていた。100日の討伐戦を繰り広げる間に賊軍の降兵が30万。これに領民の中から屈強な若者を選び、総勢100万近い軍勢を新たに加えることができたのだった。

済北(さいほく)や済南(さいなん)の地は肥沃であり、それらを養う糧草や財貨も有り余るほどあった。

時は初平3(192)年11月。こうして曹操の門には、いよいよ諸国から賢才や勇猛の士が集まってくる。曹操が「わが張子房(ちょうしぼう。張良〈ちょうりょう〉)である」と評価した荀彧(じゅんいく)もこのころ召し抱えられたが、まだ29歳だった。

史実の荀彧は延熹(えんき)6(163)年生まれ。29歳なら、初平2(191)年に召し抱えられたという計算になるはずだが……。

荀彧の甥の荀攸(じゅんゆう)も、行軍教授(こうぐんきょうじゅ)として兵学の才をもって仕える。

井波『三国志演義(1)』の訳者注には、「『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・荀彧伝)によれば、荀攸は曹操の軍師になっている。なお、後漢(ごかん)・三国時代に行軍教授という官名はない」とある。

このほかにも山中から招かれた程昱(ていいく)や野に隠れていた大賢人の郭嘉(かくか)など、みな礼を厚くしたので、曹操の周囲には偉材が綺羅星(きらぼし)のごとくそろう。

井波『三国志演義(1)』(第10回)では、劉曄(りゅうよう)・満寵(まんちょう)・呂虔(りょけん)・毛玠(もうかい)・于禁(うきん)といった面々も加入しているが、吉川『三国志』では省かれていた。

また、陳留(ちんりゅう)の典韋(てんい)が数百人の手勢を引き連れ仕官を望むと、曹操は腕力を見込んで即座に召し抱え、白金襴(しろきんらん。金襴〈金の糸を模様に織り込んだ美しい織物〉の類い)の戦袍(ひたたれ)と名馬を与えた。

井波『三国志演義(1)』(第10回)では、夏侯惇(かこうとん)が典韋を連れてきたことになっていた。

そんなある日のこと、ふと曹操は故郷の父を思い出す。父の曹嵩はこのころ故郷の陳留にはおらず、瑯琊(琅邪)の片田舎に隠居していた。

曹操は山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)一帯に地盤もできたことから、この機会に父を迎えようと思い、泰山太守の応劭(応邵)を瑯琊へ遣わす。

(02)瑯琊

迎えを受けた曹嵩は非常に喜び、一族40余人と100人を超す召し使いたち、それに家財道具を100余輛(りょう)の車に積んで兗州へ向かう。折から秋の半ばだった。

ここで「秋の半ば」とあるので、初平4(193)年の秋のことだと思われる。

(03)徐州(じょしゅう)

曹嵩一行が徐州まで来ると、徐州太守の陶謙(とうけん)が自ら郡境まで出迎え、徐州城へ招き2日間にわたって歓待した。

徐州の州治(州の役所が置かれた場所)は後漢の時に郯(たん)、そして下邳(かひ)へ移り、魏(ぎ)の時は彭城(ほうじょう)だった。

吉川『三国志』や『三国志演義』ではたびたび徐州城という呼称が出てくるが、これがどの城を指しているのかわかりにくい。注釈のしようがない場合は、そのまま徐州城という曖昧な表記を用いざるを得ない。

陶謙はかねてから曹操の盛名を慕っており、折があれば誼(よしみ)を結びたいと思っていたが、これまではよい機会がなかった。そこへ彼の父が一家を挙げ、領内を通過して兗州へ移ると聞いたので、一行を城内に泊めて精いっぱい歓待に努めたのだった。

曹嵩は恩を謝し、3日目の朝に徐州を発つ。このとき陶謙は、特に部下の張闓(ちょうがい)に500の兵を付けて護衛を命じた。

(04)華費(かひ)

華費の山中まで来たところで大粒の雨が降り、曹嵩一行は近くの山寺に泊めてもらう。

華費はひとつの地名ではなく、華(県)と費(県)というふたつの地名からなる。

夜中、張闓は兵の伍長(ごちょう)を人けのないところへ呼び出すと、曹嵩の金や家財を横取りして山寨(さんさい)に立て籠もろうとささやく。

ここで、張闓がもともと黄巾賊で、陶謙に征伐されやむなく仕えていたことが語られていた。

三更(午前0時前後)に近いころ寺の周りで喚声が湧き上がったため、曹操の弟の曹徳(そうとく)が寝衣のまま廊へ飛び出すと、張闓が物も言わずに斬り殺す。

曹嵩の肥えた愛妾(あいしょう)は、絶叫しながら方丈(住職の居室)の墻(かき)を越えて逃げようとしたが、転げ落ちたところを張闓の手下に槍(やり)で突き殺された。

そして曹嵩も厠(かわや)に隠れているのを見つかり、ズタズタに斬り殺された。そのほかの一族や召し使いなど100余人もみな血の池に葬られた。

曹操の命を受け随行していた応劭は、わずかな従者とともに危難を脱した。だが、自分だけ助かってはと後難を恐れ、曹操のもとへ帰らずに袁紹(えんしょう)を頼って逃亡。

夜が明けると、まだそぼ降っている秋雨の中に、火を放たれた山寺が焼けていた。しかし張闓と一味の凶兵は、もうひとりもいなかった。

(05)兗州(東武陽?)

曹操は父が殺されたことを聞き激怒する。この遭難をあくまで陶謙の罪として恨み、即日大軍動員の命令を下した。曹操の徐州進攻のうわさが諸州へ聞こえ渡った前後、陳宮(ちんきゅう)が陣門を訪ねてくる。

ここで陳宮が、かつて都落ちした曹操と出会ったことなどが語られていた。この中で、曹操の性行を知った陳宮が恐れをなし、途中の旅籠(はたご)から彼を見限り、行方をくらましたという記述があった。これは先の第25話(01)で述べた話と異なる。

陳宮は曹操とともに陳留の曹嵩邸へたどり着き、彼のために檄文(げきぶん)を書いたりもしていた。その話とは無関係のどこかの旅籠から行方をくらました、という解釈ができないこともないが、だいぶ苦しいと思う。何か勘違いがあるのだろう。

井波『三国志演義(1)』(第10回)では陳宮の話の前に、九江太守(きゅうこうたいしゅ)の辺譲(へんじょう)が自ら5千の軍勢をひきい、陶謙の救援に駆けつけていた。辺譲は曹操の命を受けた夏侯惇に途中で斬り殺されたとあったが、吉川『三国志』では辺譲を使っていない。

陳宮が東郡従事(とうぐんじゅうじ)を務めていると聞いた曹操は、徐州の陶謙から頼まれて説得に来たことを察する。

陳宮は陶謙を「世にまれな仁人で君子である」と言い、徐州への進攻を思いとどまるよう説くが、一喝され退けられた。陳宮は不成功を復命する勇気もなく、そこから陳留太守の張邈(ちょうぼう)のもとへ奔った。

(06)徐州

曹操の大軍は行く先々で民の墳墓を発(あば)いたり、敵に内通する疑いのある者などを仮借なく斬って通ったので、民心は極端に恐れわなないた。陶謙は諸将を集め、自分の首と引き換えに百姓や城兵の命乞いをすると告げたが、みな承知しない。

そこで策を議すと、北海(ほっかい)に急使を遣わし孔融(こうゆう)に助けを頼むことにした。

ここで孔融が孔子(こうし)の20世の孫で、泰山都尉(たいざんとい)の孔宙(こうちゅう)の子であることが語られていた。

(07)北平(ほくへい)

折からまた黄巾の残党が集結し、各地で騒ぎだしていた。北平の公孫瓚(こうそんさん)も国境へ征伐に向かっていたが、その旗下にあった劉備(りゅうび)は徐州の兵変を聞き、義のため仁人の君子といううわさのある陶謙を助けに行きたいと話してみる。

公孫瓚は賛成しなかったものの、劉備は強いて暇(いとま)を乞う。そして幕僚の趙雲(ちょううん)を借りたうえ5千の軍勢をひきい、曹操軍の包囲を突破して徐州への入城を果たす。陶謙は劉備の来援を涙で迎えた。

井波『三国志演義(1)』(第11回)では、平原(へいげん)にいた劉備が孔融からの救援要請に応え、関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)とともに3千の精鋭を集めて北海郡へ向かっていた。つまりいきなり徐州の陶謙のもとへ行ったのではなく、まずは北海の孔融のもとへ行っている。

また、陶謙が北海へ遣わした使者が糜竺(びじく。麋竺)だったり、孔融が平原に遣わした使者が太史慈(たいしじ)だったりするが、吉川『三国志』では彼らの登場するタイミングを変えている。

北海城下では黄巾の残党の管亥(かんがい)に孔融配下の部将の宗宝(そうほう)が斬られ、その管亥が(救援に到着した)関羽に斬られていた。ここで挙げた管亥と宗宝は吉川『三国志』では使われていない。

そして管亥らの賊軍を大破した後、北海城内で祝宴が開かれ、孔融によって劉備が糜竺と引き合わせられ、徐州の陶謙が救援を求めていることを知る、という流れになっている。

さらに孔融は先に糜竺を徐州へ帰し、ほどなく自身も支度を整えて出発。太史慈は孔融に別れを告げ、揚州刺史(ようしゅうしし。楊州刺史)の劉繇(りゅうよう)のもとへ出発。一方の劉備は公孫瓚のもとへ行き、兵馬に加えて趙雲を借り受け徐州へ向かう。ここで再び吉川『三国志』の筋とつながったということに。

管理人「かぶらがわ」より

着々と地盤を固めていた曹操を襲う、突然の父の惨劇。ただ、これは陶謙にとっても悲劇でした。

吉川『三国志』などの小説では温厚な君子として描かれることが多い陶謙。ですが、正史『三国志』ではそういった人格者というイメージはありません。

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