吉川『三国志』の考察 第155話「風を呼ぶ杖(かぜをよぶつえ)」

諸葛亮(しょかつりょう)を除くことこそできなかったものの、曹操軍(そうそうぐん)から10万本の矢を得た周瑜(しゅうゆ)。だが、敵の堅固な要塞には容易に手を出せず、頼みの火計を実行するめども立たなかった。

しかし、曹操側から蔡和(さいか)と蔡仲(さいちゅう。蔡中)が降ってきたことをきっかけに、自軍の黄蓋(こうがい)と密談したうえ、皆の前でひと芝居打つ。

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第155話の展開とポイント

(01)長江(ちょうこう)の北岸 曹操の本営

諸葛亮の計に乗せられて十数万の無駄矢を射たことが知れ渡ると、江北(こうほく)の陣地はすこぶる士気が上がらなかった。

曹操軍が十数万の無駄矢を射たことについては、前の第154話(02)を参照。

荀攸(じゅんゆう)は苦念の末、内情を探るため呉軍(ごぐん)に埋伏の毒を飲ませるよう献策。

曹操は最上の計だと認めながらも、兵法では最も難しい謀略と言われていることにも触れ、適任者がいるかと尋ねる。

荀攸は、先に丞相(じょうしょう。曹操)がご成敗になった蔡瑁(さいぼう)の甥に、蔡和と蔡仲(蔡中)という者がいると話す。ふたりが丞相を恨んでいると誰もが考えるであろうことこそ、この策の狙いどころなのだとも。

荀攸は許しを得ると、翌日に謹慎中のふたりを訪ね、まずは赦免の命を伝えて恩を売る。その後、ふたりを伴い曹操の前に出た。

曹操は酒を勧めて将来を励まし、「叔父(蔡瑁)の汚名をそそぐ気で、ひとつ大功を立ててみぬか?」と計画を話してみる。

ふたりとも非常な意気込みを示したので、曹操も満足。このことが成功した暁には恩賞はもちろん、末永く重用するであろうと約束した。

大言を残し、蔡兄弟は翌日に出発。数隻の船に部下の兵500ばかりを乗せ、取るものも取りあえず命がけで脱走してきた、というふうを装う。

(02)長江の南岸 周瑜の本営

軍中を巡察していた周瑜は、敵陣からふたりの将が兵500を連れて投降したと聞くと、明らかに喜色を表し、すぐ連れてくるよう言った。そして、蔡和と蔡仲から事情を聴くと陣中に留まることを許し、甘寧(かんねい)の配下に付ける。

そのあと魯粛(ろしゅく)が疑わしげに心事を確かめたが、周瑜は笑うのみで省みるふうもなかった。

(03)長江の南岸 諸葛亮の船住居

その日、魯粛は例の船中で諸葛亮と会い、周瑜の軽忽(けいこつ)な処置を嘆息して語る。ところが諸葛亮も、ニヤニヤ笑ってばかりいた。

魯粛がなじると初めて、周瑜の心に計のあることに違いないと、自分の考えを解いて聞かせる。蔡和と蔡仲の降参は明らかに偽りだと。なぜなら妻子を江北に残しているからだと。

周都督(しゅうととく。周瑜)も看破されたに違いないが、互いに江を隔ててよき手がかりもないところ、これは絶好な囮(おとり)と、わざと彼らの計に乗った顔をして、実はこちらの計に用いようと深く企んでおられるものと考えられる、とも。

魯粛は笑えず、どうして自分は人の心を見るに鈍なのかと、むしろ己の不敏に哀れを催すと、深く悟って帰る。

(04)長江の南岸 周瑜の本営

その夜、呉軍第一の老将の黄蓋が先手の陣からそっと本営を訪ね、周瑜と密談していた。黄蓋は、味方の寡兵をもって敵の大軍を討つには火計のほかないと思う、と激し込んで言う。

ここで周瑜は、偽降してきた蔡和と蔡仲を留めてあり、敵の謀略の裏をかき、こちらの謀略を行うつもりだと打ち明ける。

さらに、この奇策を行うためには呉からも敵陣へ偽りの降人を送り込む必要があるが、恨むらくは適当な人がいないと嘆息を漏らす。

すると黄蓋がその役目を引き受けると言う。そこで周瑜は何事か示し合わせ、暁に立ち別れる。

一睡から覚めた周瑜はただちに中軍へ出、鼓手に命じて諸人を集めた。諸葛亮もやってきて、陣座の傍らに床几(しょうぎ)を置く。

周瑜は、近く敵に向かい大行動に移ると宣言。各兵船に3か月分の兵糧を積み込んでおくよう命じた。

ここで先手の部隊から進み出た黄蓋がひどい言葉で罵る。

激怒した周瑜は黄蓋を斬るよう左右を叱咤(しった)するが、甘寧をはじめとする諸将が哀願したため、一時、命は預けておくと言う。

ここで周瑜と黄蓋の間に入った甘寧が刎(は)ね飛ばされたとあった。『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第46回)では、黄蓋を許すよう懇願した甘寧に対し、周瑜が左右の者に命じ、滅多打ちにして叩き出させたとある。

それでも黄蓋に百杖(ひゃくじょう)の刑を加えるよう言い、陣中での謹慎を命ずる。杖打が100近くなったときには、はや黄蓋は虫の息となり昏絶(こんぜつ)。

井波『三国志演義(3)』(第46回)では、杖打が50回になったところで諸将から再度の哀願があり、周瑜は残りの50回を預かりとしていた。

周瑜が営中へ休息に入ると、諸将は黄蓋を抱きかかえて運んでいった。その間にも血は流れてやまず、蘇生しては絶え入ることが幾度か知れないほどだったので、日ごろ親しい者や苦楽をともにしてきた老将たちは、みな涙を流して痛ましがった。

(05)長江の南岸 諸葛亮の船住居

この騒ぎを後に、諸葛亮は黙々と自分の船へ帰っていく。そしてひとり沈吟にふけりながら、流るる水を見入っていた。

後を追ってきたらしい魯粛が、なぜ黄蓋のために執り成してくださらなかったのかとなじると、諸葛亮は、これも曹操を欺く計だと応ずる。明白な企み事だが、私がそう言ったということは、問われても周都督には必ず黙っていてくださいよ、と口止めもした。

(06)長江の南岸 周瑜の本営

その夜、周瑜は帳中で密かに魯粛と語り、今日のことを陣中ではどう沙汰しているかと尋ねる。魯粛は「滅多に見ないお怒りようと、みな恐々としておりますよ」と答えた。

続いて周瑜は諸葛亮の反応も尋ねたが、魯粛は「都督も情けないお仕打ちをすると言って悲しんでおりました」と答えてしまう。

手を打って喜び、この計の成功を確信する周瑜。会心の笑みを漏らし、初めて心中の秘を打ち明けた。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(呉書〈ごしょ〉・周瑜伝)によると、そもそも江北の曹操軍への火計を周瑜に進言したのは黄蓋なのですよね。

黄蓋が偽降したことも同伝に見えますけど、その際に苦肉の計らしきことは行われていませんでした。改めて吉川『三国志』や『三国志演義』のすごさを感じます。

ちなみに蔡和と蔡仲(蔡中)の名も、正史『三国志』には見えません。

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『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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