吉川『三国志』の考察 第134話「出廬(しゅつろ)」

ようやく諸葛亮(しょかつりょう)との対面がかなった劉備(りゅうび)は、漢室(かんしつ)再興にかける熱い思いを語り、彼の意見に耳を傾ける。

だが諸葛亮は、いささか所見を述べたのは、たびたび訪ねてくださった非礼を詫びる気持ちからだと言い、出廬に応じてくれない。しかし劉備も引き下がらず、ついに――。

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第134話の展開とポイント

(01)隆中(りゅうちゅう) 諸葛亮の草廬(そうろ)

10年語り合っても理解し得ない人と人もあるし、一夕の間に100年の知己となる人と人もある。劉備と諸葛亮は、互いに一見旧知のごとき情を抱いた。

諸葛亮は所見を述べ、この荊州(けいしゅう)から起って益州(えきしゅう)を討ち、両州を跨有(こゆう)したうえでなら、曹操(そうそう)と対立することが可能だと説く。

また、呉(ご)とは和戦両様の構えで外交を行う。こうすれば漢室の復興という希望も、はや痴人の夢ではないのだと。

諸葛亮は童子を呼び、書庫にある西蜀(せいしょく)54州の地図を持ってこさせる。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「(ここでいう54州は)正しくは54県。益州を指す」という。「ただし、益州の管轄下にある県の数は実際には全部で118あり、54というのは、このうち巴(は)・蜀・広漢(こうかん)・漢中(かんちゅう)・犍為(けんい)の5郡のみの合計である」ともいう。

范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』(郡国志〈ぐんこくし〉)を見ると、確かに言われている通りの数になっていた。

諸葛亮は天地の大なることを示すが、劉備は荊州の劉表(りゅうひょう)、そして益州の劉璋(りゅうしょう)とも自分と同じ漢室の宗親なので、その国を奪うのは忍びないとためらう。

これに対し諸葛亮は、心配には及ばないと断ずる。劉表の寿命は早晩おのずから尽きる。劉璋は健在とはいえ、国政の乱れに民は苦しみ、それを正すのを誰が仁義なしと言うのかと。

劉備はひと言の下に心服し、事ごとに大義と小義とを混同している自己の蒙(もう)を悟る。そこで改めて出廬(しゅつろ)を乞うが、諸葛亮は急に言葉を変えて言った。

「今日いささか所信を述べたのは、先ごろからの失礼を詫びる寸志のみです。朝夕おそばにいるわけにはいきません。やはり自分は分を守り、ここに晴耕雨読していたい」

ここで諸葛亮が述べた考えを、吉川『三国志』では「支那三分(しなさんぶん)の計」と、『三国志演義』(第38回)では「天下三分の計」と、それぞれ表現していた。

そして『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・諸葛亮伝)では諸葛亮が、今の曹操とは戦えないこと、江東(こうとう)の孫権(そんけん)とは敵対せず味方にすること、荊州と益州を支配下に置くこと、西南の異民族を手なずけることをポイントに挙げている。

そのうえで、まずは内政に励みつつ、ひとたび天下に変事があれば、将軍に命じて荊州の軍勢を宛(えん)から洛陽(らくよう)へ向かわせ、劉備自身も益州の軍勢をひきいて秦川(しんせん。渭水〈いすい〉の流域、すなわち長安〈ちょうあん〉方面)へ出撃すれば、漢王朝の復興を果たせると述べていた。天下三分ではなく、あくまで漢王朝の復興が最終目標であることに留意しておきたい。

劉備は落涙し、先生(諸葛亮)が起たれなければ、ついに漢の天下は絶え果ててしまうと嘆く。

この様子を見ていた諸葛亮は、やがて唇を開くと、静かに、しかし力強い語韻で言った。

「いや、お心のほどよくわかりました。もし長くお見捨てなくば、不肖ながら犬馬の労を取って、ともに微力を国事に尽くしましょう」

劉備は「あまりにうれしくて、何やら夢のような心地がする」と言い、関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)を呼んで子細を語る。そして供に持たせてきた金帛(きんぱく)の礼物を、主従固めの印ばかりにと贈った。

諸葛亮は辞して受けなかったものの、大賢を聘(へい)すには礼儀もある。志ばかりの物だからと言われると、弟の諸葛均(しょかつきん)に納めさせた。

さらに諸葛亮は諸葛均に妻(黄承彦〈こうしょうげん〉の娘の黄氏)のことを頼み、草廬の留守を任せる。

その夜、劉備はここに一泊。翌日には駒を並べて草廬を発った。岡を下ると、昨夜のうちにこの趣を供の者が新野(しんや)へ告げに行ったとみえ、迎えの車が村まで来ていた。

劉備は諸葛亮とひとつの車に乗り、帰る途中も親しげに語り合う。このとき劉備は47歳、諸葛亮は27歳だった。

ここはちょっと残念。前の第133話(01)では、年が明けて建安(けんあん)13(208)年になったと書かれていた。ならば劉備と諸葛亮の年齢もひとつずつ増やし、48歳と28歳とすべきだろう。

(02)新野

新野に帰ってからも、劉備と諸葛亮は寝るにも部屋をともにし、食事をするにも卓を別にしたことがない。昼夜天下を論じ、人物を評し、史を案じ、令を工夫していた。

諸葛亮は新野にわずか数千の兵しかおらず、財力も極めて乏しいことを知る。そこで劉備に、劉表に勧めて戸簿を整理し、遊民を簿冊に入れ、非常の際はすぐ兵籍に加え得るようにしなければならないと言った。

また自ら保券の証人となり、南陽(なんよう)の富豪の大姓黽氏(たいせいぼうし)から銭1千万貫を借り受ける。これを密かに軍資金に回し、その内容を強化した。

大姓黽氏についてはよくわからず。大姓(権力のある家柄)の黽氏から資金を借りたということだろうか? なお『三国志演義』では、諸葛亮が借財した件に言及していない。

管理人「かぶらがわ」より

劉備の三顧の礼に応え、いよいよ出廬する諸葛亮。まさにお互い「あなたがいてよかった」という感じなのでしょう。

でもちょっと意地悪な見方をすれば、いくら胸に大略を抱いていても、誰も諸葛亮を迎えに来なかったら――。この先の展開はどうなっていたのでしょうね?

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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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