年が明けると、劉備(りゅうび)はみたび諸葛亮(しょかつりょう)を訪ねると言いだす。関羽(かんう)も張飛(ちょうひ)も反対するが、劉備の決意は固かった。
こうして隆中(りゅうちゅう)の草廬(そうろ)まで行ってみると、今度は諸葛亮が在宅だった。ところが彼は昼寝中で――。
第133話の展開とポイント
(01)新野(しんや)
明けて建安(けんあん)13(208)年、劉備(りゅうび)は立春の祭事を済ませると、卜者(ぼくしゃ)に命じ吉日を選ばせ、3日間の潔斎をして身を清める。
そして関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)を呼び、「みたび孔明(こうめい。諸葛亮〈しょかつりょう〉のあざな)を訪れん」と触れだす。ふたりは喜ばない顔をし、口をそろえ諫める。しかし劉備の信は固く、結局ふたりともついていくことになった。
★ここでの信は信用ではなく、信念という意味合いで使われているようだ。
(02)隆中(りゅうちゅう) 諸葛亮の草廬(そうろ)
劉備は100歩前から駒を下り徒歩で進む。叩門(こうもん)すると諸葛均(しょかつきん)が奥から駆けてきて、兄の諸葛亮が昨日の暮れ方に帰っていることを告げる。
柴門(さいもん)を入って少し進むと、傍らに風雅な内門が見えた。いつもは開いているそこの木戸が、今日は閉まっていた。
木戸を叩くといつもの童子が顔を見せる。取り次ぎを頼むと、いま諸葛亮は草堂で午睡(ひるね)しているという。
そこで劉備は関羽と張飛を内門の外に控えさせると、自身は草堂の階下で叉手(さしゅ。両手を胸の前で重ね合わせる敬礼の一種)し、彼が目を覚ますのを待つ。
やがて退屈してきた張飛は、墻(かき)の破れ目から中をのぞき込む。すると一刻(30分?)余りも劉備を階下に立たせたまま、諸葛亮が牀(しょう。寝台)の上で悠々と午睡しているのが見えた。怒って草廬に火を付けると息巻くが、これを関羽がなだめる。
童子がそばへ寄り諸葛亮を起こそうとしたが、階下の劉備は黙って首を振ってみせた。
さらに半刻(15分?)ほど経つとようやく目を覚ます。そして童子から劉備の来訪を聞き、後堂へ入っていった。
その後、口をそそいで髪をなで、衣服や冠も改め再び出てくると、謹んで劉備を迎え無礼を詫びる。賓主は座を分かち、しごく打ち解けた様子を見せた。そこへ童子が茶を献ずる。
諸葛亮は、昨冬に残された書簡を見たと話すが、若年かつ非才の身では期待に応えることはできないと言う。
★劉備が諸葛亮あてに書簡を残したことについては、前の第132話(02)を参照。
それでも劉備は、今日は孔子(こうし)の時代より痛切な国患の秋(とき)だとし、なお出廬を乞うた。
管理人「かぶらがわ」より
みたびの訪問で、ついに諸葛亮との対面を果たした劉備。
劉備が景帝(けいてい。劉啓〈りゅうけい〉)の末裔(まつえい)だという話には疑わしいところもあると思っているのですけど……。諸葛亮が劉備に説かれて出廬を決めたことは事実なので、これは彼が何かを持っていたという強烈な証明になるとも思います。
諸葛亮は、自分を管仲(かんちゅう)と楽毅(がっき)に擬するほど高い矜持(きょうじ)を保っていたそう。当時の群雄を見回してみても、やはり劉備ほど彼と合いそうな人がいないのですよね。

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