吉川『三国志』の考察 第304話「豆を蒔く(まめをまく)」

蜀(しょく)の要請を受けて魏(ぎ)へ出兵した呉軍(ごぐん)だったが、巣湖(そうこ)の諸葛瑾(しょかつきん)が満寵(まんちょう)らに敗れ、出鼻をくじかれる。

だが、呉の総帥たる陸遜(りくそん)は、魏の国力に驚きながらも冷静に状況を見極め、本営の兵士に陣外を耕し豆を蒔(ま)かせるなどしたうえ、魏の裏をかいて総引き揚げを断行する。

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第304話の展開とポイント

(01)洛陽(らくよう)

自国の苦しいときは敵国もまた同じ程度に、あるいはそれ以上、苦しい局面にあるという観察は、大概な場合まず誤りのないものである。

この前後、魏都の洛陽は、蜀軍より深刻な危局に立っていた。それは、蜀呉条約の発動による呉軍の北上である。

しかも、かつて見ないほど大規模な水陸軍であると伝えられたので、曹叡(そうえい)は渭水(いすい)の司馬懿(しばい)へ急使を派して厳命した。

「この際、万一にも蜀に乗ぜられるような事態を招いたら、それは決定的に魏全体の危殆(きたい)を意味する。いよいよ守るを主として、必ず自ら動いて戦うなかれ」

一面、曹叡は時局の重大性に鑑みて言う。

「今は座してこの収拾を俟(ま)って(期待して)いてよいような事態ではない」

「先帝(ここでは曹丕〈そうひ〉に加え、曹操〈そうそう〉も含めた意か)の経営と幾多の苦心に倣い、朕も親しく三軍をひきい、自ら陣頭に立って、呉を撃滅し尽くさなければやまないであろう」

魏は劉劭(りゅうしょう)を江夏(こうか)方面へ急派し、田予(でんよ。田豫)にも大軍を授けて襄陽(じょうよう)を救わせる。そして曹叡自身は、満寵らの諸将を従えて合淝城(がっぴじょう。合肥城)へ進出した。

(02)巣湖

魏の先陣に立った満寵は巣湖の辺りまで来ると、遥か彼方(かなた)の岸を見た。呉の兵船は湖口の内外に檣頭(しょうとう。帆柱の先)の旗を翻し、林のごとく密集している。

いささか敵の陣容に気を吞まれた形の満寵は、大急ぎで駒を引き返し、曹叡にこの由を復命した。

さすがに曹叡は、魏の君主だけあって大気である。満寵の言を聞くと、むしろ笑って言った。

「富家の猪(イノコ)は脂に肥え、見かけは強壮らしいが、山野の気を失って、いつの間にか鈍重になっている」

「だが我には、西境北辺(北の果て)に連年戦うて、艱苦(かんく)の鍛えを受けた軽捷(けいしょう)の兵のみがある。何をか恐れん」

ただちに諸将を集めて軍議を凝らし、「敵の備えなきを討つ」と、奇襲戦法を採ることになった。

魏の驍将(ぎょうしょう)たる張球(ちょうきゅう)が、もっとも盛んな軽兵5千を引っ提げて湖口から攻めかかる。その背にはたくさんの投げ炬火(たいまつ)を負わせていた。

また満寵も同じく強兵5千を指揮し、その夜の二更(午後10時前後)、ふた手に分かれて呉の水寨(すいさい)へ近づいた。

呉軍は夜襲を受けてあわてふためく。曹叡が看破した通り、彼らはあまりに重厚な軍容の内に安心していたのだ。

刀よ、物の具よ、櫓(ろ)よ、櫂(かい)よ、と騒ぎ合う間に、火雨のごとき投げ炬火が一船を焼き、別の一船に燃え移る。瞬く間に、水上の幾百の船影は大小を問わず、炎々と燃え狂わざるなき狂風や熱水と化す。

この手の呉の大将は諸葛瑾だった。赤壁(せきへき)以来、船団の火攻は呉が奥の手としているものなのに、不覚にも序戦において、かく大失態を演じてしまったのである。

一夜の損傷は、武具・兵糧・船舶・兵力にわたって、実に莫大(ばくだい)なものを失った。諸葛瑾は残る兵力を沔口(べんこう)まで退き、味方の後軍に救援を求める。

魏軍は「幸先よし」と勇躍し、さらに次の作戦に向かって満を持していた。

(03)荊州(けいしゅう。江陵〈こうりょう〉?)

蜀の諸葛亮(しょかつりょう)と魏の司馬懿。このふたりに比する者を呉に求めるなれば、それは陸遜であろう。

陸遜は呉の総帥として、その中軍を荊州まで進めていた。だが、巣湖の諸葛瑾が大敗したとの報を受け、早くも当初の作戦を一変して、新たな陣容を工夫した。

魏の出撃が予想以上に迅速で、かつその反抗力の旺盛なことも、彼のやや意外としたところである。陸遜はこう言って、底知れない魏の国力に、いまさらながら驚く。

「連年あれほど渭水で、軍需や兵力を消耗(しょうこう。『しょうもう』は慣用読み)していながら、なおこれだけの余力を保有しておるか」

そして表をもって孫権(そんけん)に奏した。それはいま、新城(しんじょう。合淝新城)へ攻めかかっている味方を魏軍の後ろへ迂回(うかい)させ、曹叡の本軍を、大きな包囲環の内に取り込もうという秘策。

初め陸遜も諸葛瑾も、おそらく魏の主力は新城の急に釣られて、その方面へ全力を向けるだろうと思っていたのである。この予想が外れたことが、巣湖の一敗となり、陸遜の作戦変更を余儀なくしてきた一因でもあった。

ところがどうしたことか、この第二段の新作戦も、その機密が敵側へ漏れてしまう。

沔口の諸葛瑾は、陸遜に書簡を送って献言する。

「いまお味方の士気は弱く、反対に魏の気勢は日々強く、その勢いは侮りがたい。かてて加えて、士気の乱れより、とかく軍機も敵側へ漏れ、事態は憂慮に堪えぬものがあります」

「ここは一応本国へお引き揚げになり、さらに陣容を改められ、時をうかがって北上せられてはいかがでしょうか?」

しかし、陸遜は使いの者にこう言った。

「諸葛瑾に伝えるがいい。あまりに心を労さぬがよいと。そのうちおのずから我に計もあれば」

(04)沔口 諸葛瑾の本営

諸葛瑾はそれだけの伝言では安んじきれず、使いの者にいろいろ尋ねる。

「陸都督(りくととく。陸遜)の陣地では、軍紀正しく、進撃の備えをしておるのか?」

使いの者が答えた。

「いや。こう申しては恐れありますが、軍紀は甚だ乱れ、上下とも怠りすさんでおり、用心の態すら見えません」

正直な諸葛瑾は、いよいよ不安を抱き、自ら陸遜に会いに行く。

(05)荊州(江陵?) 陸遜の本営

諸葛瑾が見ると、なるほど、諸軍の兵は陣外を耕して豆など蒔いているし、当の陸遜は轅門(えんもん。陣中で車の轅〈ながえ〉を向かい合わせ、門のようにしたもの)のほとりで、諸将と碁を囲んでいた。

諸葛瑾はいささかあきれ、夜宴の後で陸遜とふたりきりになったとき、味方の態勢と魏の勢いとを比較して、善処を促す。

陸遜は諸葛瑾の言うことを率直に認め、飾りけなく語った。

「私もここは一度退くべきときと考えているが、退軍には万全を要する。急に退くときは、魏はこの機会に呉楚(ごそ)を吞まんと、大追撃を起こしてくるかもしれない」

「さればとて、積極的に出ようとしたわが秘策は敵に漏れたゆえ、曹叡を包囲中に捕らえる手段も今は行われない」

しかし、囲碁に閑日を消していることも、兵に豆を蒔かせていることも、もちろん、彼が魏を欺く偽態であったことは言うまでもない。

魏はそれをうかがい、陸遜軍がなお年を越えるまで、この地方に長陣を決意しているものと観察していた。

ところがやがて、諸葛瑾が沔口に立ち帰るとまもなく、その水陸軍も、陸遜の中軍も、一夜のうちに、長江(ちょうこう)の下流へ急流のごとく引き揚げてしまった。

「陸遜は誠に呉の孫子(そんし)だ」

後で知った曹叡は舌を巻いて褒めた。さらに魏は後続軍の新鋭を加え、呉の脆弱面(ぜいじゃくめん)を徹底的に破砕すべく、二次作戦を計っていたところだったのである。

瞬前に、網から逸れた鳥群を見送るように、曹叡は残念に思いつつ、その敏捷(びんしょう)な退軍ぶりを、敵ながら鮮やかなりと嘆賞したのだった。

管理人「かぶらがわ」より

呉の攻勢を迎え撃つべく親征を決行した曹叡。史実では、曹叡が寿春(じゅしゅん)に着かないうちに、孫権のほうが全軍の撤退を決断していました。

豆を蒔いた話は『三国志演義』の創作のようですね。ただ陸遜にも、これくらいの盛りがあってもいいと思います。

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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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