吉川『三国志』の考察 第305話「七盞燈(しちさんとう)」

蜀(しょく)に情報は届いていないものの、魏(ぎ)の側面を突く形で出兵した呉軍(ごぐん)が引き揚げたことにより、祁山(きざん)の諸葛亮(しょかつりょう)は、渭水(いすい)の司馬懿(しばい)を自力で討ち破るしかなくなった。

しかし、司馬懿は一向に動く気配を見せない。そこで諸葛亮は馬岱(ばたい)を葫蘆谷(ころこく)へ入れ、極秘裏に大掛かりな策を施す。

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第305話の展開とポイント

(01)祁山 諸葛亮の本営

呉はたちまち出て、たちまち退いた。その総退却は弱さではなく、国策だったと言ってよい。なぜならば呉は、自国が積極的に戦争へ突入する意思をもともと持っていないのである。

蜀をして魏の頸(くび)をかませ、魏をして蜀の喉に爪を立たせ、両方の疲れを見比べていた。しかも呉蜀条約というものがあるので、蜀から要請されると無碍(むげ)に出兵を拒むこともできない。

そこで出兵はするが、魏に当たってみて、「これはまだ侮れぬ余力がある――」と観た。陸遜(りくそん)は、巣湖(そうこ)へ捨てた損害のごときはなお安価なものであるとして、さっさと引き揚げてしまったものだった。

それに引き替えて蜀の立場は絶対的である。小安をむさぼって守るを国是となさんか、たちまち魏呉両国は欲望を相結んで、この好餌を二分して分かたんと攻めかかってくるや必せりである。

座して滅ぶを俟(ま)たん(期待する)よりはと、出でて蜀の活路を求めんとせんか、それは諸葛亮の唱える大義名分と現下の作戦以外には、絶対ほかに道はないのだった。

かくて祁山と渭水の対陣は、蜀の存亡にとっても、諸葛亮の一身にとっても、今は宿命的な決戦場となった。ここを退いて蜀の生きる道はない生命線だったのである。

近ごろ、魏の陣営は洛陽(らくよう)の厳命により、まったく守備一方に傾いていた。「みだりに敵を刺激し、令なく戦線を越ゆる者は斬らん」という厳戒まで諸陣地へ触れていた。

動かざる敵を討つは至難である。諸葛亮も計の施しようがない。

しかし彼は無為に留まっていなかった。その間に、食糧問題の解決と占領地の宣撫(せんぶ)にかかる。屯田兵制度を作り、兵をして田を作らせ、放牧に努めさせた。

けれどその屯田兵は、みな魏の百姓に立ち交じって、百姓の助けをなすものということを原則とする。収穫は、まず百姓が3分の2を取り、蜀軍はその一(3分の1)を取るという規則だった。

一、法規以上を追求して、百姓に過酷なる者。
一、私権を振る舞って百姓の怨嗟(えんさ)を買い、田に怠りの雑草を生やす者。
一、総じて、軍農の間に不和を醸す者はこれを斬る。

この三章の下に、魏農と蜀兵の協和共営が土に生まれだす。ひとつ田に、兵と百姓とは脛(すね)を埋めて苗を植えた。働く蜀兵の背中に負われている赤ん坊を見ると、それは魏の百姓の子であった。

畦(あぜ)や畑や開墾地で、ともに糧を食い、湯を沸かし、兵農一家のごとく、睦(むつ)み合っている団欒(だんらん)も見られる。随所にこうしたほほえましい風景が、稲や麦の穂とともに成長してきた。

「近ごろ祁山の辺りでは、みな業を楽しんでいるそうだよ」

逃散(ちょうさん)していた百姓は、諸葛亮の徳を伝え聞き、続々とこの地方へ帰ってきた。

(02)渭水 司馬懿の本営

こういう状況をつぶさに見てきた司馬懿の長男の司馬師(しばし)は、ある日、父の籠居している営中の一房を訪ねる。

司馬師は、土民に変装し、敵地の状況を視察してきたと話す。そしてこう詰め寄り、戦場では親子の妥協も許されないというような顔色を示した。

「諸葛亮は長久の策を立てています。魏の百姓はみな家に帰り、蜀兵と睦み合うて、ともに田を作っております。要するに、渭水から向こうの地方は日々、蜀の国土となりつつあるのが実情。父上もそれはご存じでしょう」

「いったい、なぜ魏軍はこれほどの大軍を擁しながら、むなしく戦わずにいるのですか? 私には解せません」

司馬懿は苦しげに言い訳した。

「いや、わしも思わぬことではないが……。如何(いか)んせん、固く守って攻めるなかれ、という洛陽の勅命じゃ。勅に背くわけにはいかん」

しかし司馬師は、麾下(きか)の将士はみな、さようには解しておりませんよと言い、やはり父上が諸葛亮に圧倒され、手も足も出せない格好になったものだと思っているとも言う。

すると司馬懿は、自分の知謀がとうてい諸葛亮に及ばないことを認める。

それでも司馬師は、魏軍が蜀軍の約3倍する兵力を擁していると言い、方針転換を促す。

だが、司馬懿は言った。

「勝算がない。いかに心を砕いても、孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)に勝ち得る虚が見いだせんのじゃ。正直、いまのところ、わしはただ負けぬことに努めるだけで精いっぱいだ」

司馬師もこれ以上、父の懊悩(おうのう)を見る気になれない。胸中の不満は少しも減じないが、やむなくそのまま引き下がった。

それから数日後のこと、陣前の兵が何かワイワイ騒いでいる。河岸の斥候(ものみ)が何事か知らせてきたらしく、将士が陣を出て一方を眺めていた。

司馬師も行ってみると、なるほど、渭水の向こう岸に、一群の蜀兵がこちらへ向かって何事かわめいている。大勢の真ん中に旗竿(はたざお)を差し上げているのだ。

竿の先には燦爛(さんらん)たる黄金の兜(かぶと)を差し掛け、それを振り回し、児戯のごとく悪口を吐いている者もある。

蜀の廖化(りょうか)の追撃から逃れるため、司馬懿がわざと兜を落としたことについては、先の第303話(08)を参照。

さらされているのが父の兜だとわかると、司馬師は歯がみをした。諸将も地団太を踏み、営中へ帰るやいな、司馬懿のところへ押しかける。そして蜀兵の悪口雑言を告げ、早々に一戦を催し、敵を討ち懲らさんと口々に迫った。

司馬懿は笑っているだけで、つぶやくように言う。

「聖賢の言葉を思い出すがよい。『小サキヲ忍バザル時ハ大謀モ乱ル』とある。今は守るを上計とするのだ。血気の勇を頼んではいけない」

かくのごとく、彼は動かず逸(はや)らず、また乗ぜられなかった。これには蜀軍もほとほとあぐねたらしくみえ、慢罵挑発の策もそのうちにやめてしまった。

(03)祁山 諸葛亮の本営

ここ数か月、馬岱は葫蘆谷へ入り、諸葛亮の設計にかかる寨(さい)や木柵などの構築にあたっていた。ようやく既定の工事が完了したとみえて、諸葛亮のもとへ報告に来る。

馬岱が言った。

「お言いつけの通り、谷の内には数条の塹壕(ざんごう)を掘り、寨の諸所には柴(シバ)を積み、硫黄や煙硝(火薬)をあちこちに隠して地雷を埋めました」

「火を引く薬線は、谷の内から四山の上まで縦横に張り巡らせ、目には見えぬよう十分に注意しておきました」

諸葛亮は、設計図通りに遺漏がないことを確かめると、こう命ずる。

「よし。司馬懿を引き入れて百雷の火を馳走(ちそう)せん。汝(なんじ)は、葫蘆谷の後ろの細道を切り開いて隠れよ。司馬懿が魏延(ぎえん)を追うて谷間に駆け入ったとき、伏勢を回して、前なる谷の口を封鎖せい」

「ひとたび一火を投ずれば、万山千谷みな火となって震い崩れ、司馬懿の全軍は地底のものとなるだろう」

馬岱が退出すると、次に魏延が呼ばれ、また高翔(こうしょう)も入って何事か秘議し、命を授けては各方面へ差し向けるなど、諸葛亮の帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)にようやく活発な動きが見られた。

(04)葫蘆谷の近く 諸葛亮の本営

やがて諸葛亮も一軍を編制し、自ら葫蘆谷へ向かう。移動に先立ち、残余の大軍にこう訓示した後、子細に作戦を指令してから去った。

「各位は心をひとつにして、ただよくこの祁山を守れ。そして司馬懿の麾下が攻めてきたときは、大いに偽り敗れよ。司馬懿自身が寄せてきたと見たら、力闘抗戦し、その間隙を計り、渭水の敵陣へ迂回(うかい)して敵の本拠を突け」

こうして諸葛亮は、本陣を葫蘆谷の近くに移す。布陣を終えると、谷の後ろへ回るよう、先に急派しておいた馬岱を呼び、秘命を授けた。

「やがて戦端が開かれたら、谷を囲む南の一峰に、昼は七星旗を立て、夜は七盞(しちさん)の灯火を掲げよ。司馬懿を引き入れる秘策ゆえ、切に怠らぬようにいたせ。汝の忠義を知ればこそ、かかる大役も申しつけるのだ。わが信を過たすなよ」

馬岱は感激して帰る。

(05)渭水 司馬懿の本営

魏軍はこれら蜀陣の動きを見逃さず、夏侯恵(かこうけい)と夏侯和(かこうわ)は、さっそく司馬懿を説いた。

「ぜひ我ら両名を出撃させてください。今ならば蜀陣の弱点を突き、敵の根拠を粉砕し得る自信があります」

ふたりは、蜀軍が意味なき兵力の分散を行っていると言うが、司馬懿は敵の計だと応じ、相変わらず気乗り薄な顔つき。

それでもふたりは食い下がり、今こそ天与の機会だと言って説く。

「蜀が葫蘆の天険に、久しい間、土木を起こしていたのは、不落の大基地を構築するために違いありません。また蜀兵が祁山を中心に、広く田を耕し、撫民(ぶみん)と農産に努めていたのは、自給自足の目的でなくて何でしょう」

「その自給と長久策が、今や完成しかけたので、諸葛亮もその拠地を、徐々に祁山から移し始めたものに違いないのです」

司馬懿が納得すると、さらにふたりはこうも言った。

「人工と天険で固めた葫蘆盆地へ移陣し、食糧にも困らなくなった後は、もう再び彼を討とうとしても到底、不可能でしょう。祁山をもって前衛基地とし、葫蘆をもって鉄壁の城寨(じょうさい)となしたうえは……」

司馬懿は夏侯恵と夏侯和をそばに留め、夏侯覇(かこうは。夏侯霸)と夏侯威(かこうい)を呼ぶ。そして兵1万をふた手に分け、蜀陣へ向かえと攻撃を命じた。

『三国志演義(7)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第103回)では、このような展開は見られず、そのまま夏侯恵と夏侯和が出撃していた。

(06)祁山へ向かう夏侯覇と夏侯威

夏侯覇と夏侯威は、電撃的に祁山へ進撃した。しかし、その途中で蜀の高翔ひきいる輸送隊にぶつかり、戦いは広野の遭遇戦に始まる。

ここで魏軍は、多くの木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)に加え、蜀兵の捨てて逃げた馬具・金鼓・旗指物などを数多く鹵獲(ろかく)し、凱歌(がいか)もにぎやかに帰ってきた。

木牛流馬については先の第302話(08)を参照。

管理人「かぶらがわ」より

葫蘆谷での仕込みを終えた諸葛亮。こういった重要な任務では、馬岱が指名されることが多いですね。

夏侯淵(かこうえん)の4人の息子たちがそろって、何だか戦隊モノみたいなことに……。これに加わる者としては、先の夏侯楙(かこうも)もいましたが、こちらは史実では夏侯惇(かこうとん)の実子だということでした。

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