吉川『三国志』(03) 草莽の巻

吉川『三国志』の考察 第066話「増長冠(ぞうちょうかん)」

20余万の大軍で徐州(じょしゅう)を攻めた袁術(えんじゅつ)だったが、呂布(りょふ)配下の陳珪(ちんけい)の切り崩しに遭い、味方から裏切り者を出してしまう。

これをきっかけに総崩れとなる袁術軍。自称皇帝(こうてい)の増長の冠は関羽(かんう)の青龍刀になぎ払われてすっ飛び、袁術は惨敗を喫し淮南(わいなん)へ引き揚げた。

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第066話の展開とポイント

(01)下邳(かひ) 嘯松寺(しょうしょうじ)

呂布(りょふ)の命を受け、一頭の牝羊(メヒツジ)を引いた陳珪(ちんけい)が戦場の中を悠々と歩いていく。やがて嘯松寺に到着。ここには袁術(えんじゅつ)配下の第6軍の韓暹(かんせん)の本営が置かれていた。

韓暹が会ってみると、初め陳珪は世間話しかせず何の用で来たのかわからない。そのうち日が暮れると陳珪は室外に出て、松の木の下でふたりきりで話したいと韓暹を誘う。

そこで陳珪は態度を正し、韓暹に呂布の書簡を渡して袁術を裏切るよう勧める。韓暹は腹を決め、言われるまま第7軍の楊奉(ようほう)も誘うことに同意。

このあたりの展開は『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第17回)とは異なっている。

(02)徐州(じょしゅう)

袁術の本営から八方へ伝令が飛び、七路の七軍が一斉に動きだす。

七路の七軍については前の第65話(06)を参照。

大粒の雨とともに雷鳴も激しい中で戦(いくさ)は開始され、呂布も防戦に出た。夜になっても戦況はわからない。

ところがどうしたことか。急に寄せ手の陣形が乱れ、流言、同士討ち、退却、督戦、また混乱と、まったく収まりがつかなくなってしまう。

夜が明けると、袁術の第1軍の張勲(ちょうくん)の後ろから、第6軍の韓暹と第7軍の楊奉が火の手を上げ討ってかかったことがわかる。

これを知った呂布は勢いを得て、敵の中央に備えている紀霊(きれい)・雷薄(らいはく)・陳紀(ちんき)らの諸陣を突破し、瞬く間に袁術の本営に迫った。

山上に姿を現した袁術を見ると、呂布は中軍の前備えを一気に蹴(け)破り峰の懐へ躍り入る。袁術に近づけまいとして、梁紀(りょうき)と楽就(がくしゅう)が呂布を挟撃。

しかし、呂布が画桿(がかん。柄の部分に彩画が施されている?)の方天戟(ほうてんげき)を振りかぶると、楽就は人馬もろとも一抹の血煙となって後ろに倒れていた。

ここで楽就が呂布に討たれた(もしくは重傷を負った)ように描かれていたが、井波『三国志演義(2)』(第17回)には見えない。

続いて呂布が逃げようとする梁紀を追うと、横合いから李豊(りほう)が槍を突っかけてくる。同時におびただしい数の袁術配下の人馬が駆け寄せ、「呂布を討て!」とわめき合った。

だがそこへ、昨夜内部から裏切り、袁術軍の前線をかく乱した韓暹と楊奉の軍勢が、間道を縫って谷あいの一方に現れ袁術の中軍を側面から突く。

そのため袁術はもうひと息というところで呂布を討ち漏らしたばかりか、形勢が逆転して追いまくられ、峰越えに高原の道を命からがら2里(り)余り逃げ延びた。

すると高原の彼方に劉備(りゅうび)の義弟の関羽(かんう)が現れる。関羽は名乗りかけて迫ると青龍刀を横殴りに払ったが、袁術が首を縮めたために刃はその兜(かぶと)にしか触れなかった。

それでも自称皇帝(こうてい)の増長の冠は頭を離れ、いびつになったまますっ飛んだ。こうして袁術は散々な敗北を喫し、紀霊を殿軍(しんがり)に残して辛くも生命を保ち淮南(わいなん)へ帰った。

呂布は存分に残敵の掃滅を行い、意気揚々と徐州へ引き揚げて盛大なる凱旋祝賀会を催す。ここでは第一に陳珪父子の功を称え、第二に韓暹と楊奉の内応の功を称える。

また、予州(よしゅう。豫州)の劉備が以前の誼(よしみ)を忘れず、旧怨(きゅうえん)も捨てて急使に応え、関羽と手勢を救援に送ってくれたことにも深い謝意を表す。祝賀の後には恩賞が行われ、その翌日、関羽は手勢をひきい予州へ帰っていった。

呂布は陳珪の考えに従い、韓暹を沂都(ぎと)へ、楊奉を瑯琊(ろうや。琅邪)へ、それぞれ役付けて赴任させる。

その後、陳珪はまた門を閉じて病室にこもってしまう。呂布から呼び出しを受けても、よほどのことでないと出ていかない。

井波『三国志演義(2)』の訳者注によると「沂都という地名は後漢(ごかん)・三国時代にはない。地理的に見ると、この地は琅邪国の役所があった開陽県(かいようけん)に相当する」という。

(03)淮南 寿春(じゅしゅん)

(建安〈けんあん〉2〈197〉年の)夏が去り秋が近くなっても、袁術はいかにして呂布への恥をすすごうかと考えを巡らせていた。かつて手元に置いていた孫策(そんさく)のことを思い出したので、協力して呂布討伐にあたりたいという書簡を送ってみる。

袁術のもとに孫策が身を寄せていたことについては、先の第54話(01)を参照。

使者は呉城(ごじょう)の孫策と会い返書を預かってきたが、そこには帝位僭称(せんしょう)を非難する辞句が並んでいた。袁術は返書を引き裂き、ただちに呉へ出兵せよと言ったが、群臣に諫められようやく怒りを抑える。

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管理人「かぶらがわ」より

徐州へ大軍を差し向けた袁術でしたが、陳珪の仕込みによる韓暹と楊奉の内応が発動されると、あえなく大敗を喫してしまいました。淮南に大きな勢力を張っていた袁術も、帝位僭称をきっかけに急速にしぼんでいきますね……。

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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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