徐州(じょしゅう)の統治を任されていた車冑(しゃちゅう)のもとに、許都(きょと)の曹操(そうそう)から劉備(りゅうび)を殺害せよとの密命が届く。
この話を陳登(ちんとう)に聞かされた関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)は、劉備に相談しないまま、車冑と一族を独断で始末する。
第085話の展開とポイント
(01)徐州
仮の太守(たいしゅ)として徐州を治めている車冑のもとに、許都の曹操から劉備を殺せとの密命が届く。
車冑が相談したところ、陳登は城門の内に伏兵を置き、劉備を招いて十方から剣槍(けんそう)の餌とするよう勧める。また、自分も櫓(やぐら)にいて、劉備に続く部下の者をつるべ撃ちに射伏せてみせるとも言う。
さっそく車冑は兵の手配にかかると、城外の劉備に使いを遣り、城楼の仰月台(ぎょうげつだい)での酒宴に招いた。
★『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第21回)では、このとき劉備が戦乱の間に逃げ散った住民に帰還を促すため城外へ出ていたとあり、車冑は彼が戻ったところを一刀の下に斬り捨て、陳登は城壁の上から後続の軍勢に矢を浴びせるという手はずになっていた。
(02)徐州 陳登邸
陳登は帰宅するや、父の陳珪(ちんけい)に車冑との話を打ち明けて顔色をうかがう。陳珪の劉備に対する誼(よしみ)は以前と少しも変わっておらず、この企てをそっと知らせてやるよう言った。
(03)徐州 劉備邸
陳登は夜を待って自ら屋敷を訪ね、劉備ではなく関羽と張飛を呼び出し車冑の企てを話す。話を聞いたふたりは劉備の耳に入れず、黙って自分たちで片づけようとする。
★井波『三国志演義(2)』(第21回)では、陳登は城外へ馬を飛ばして劉備への報告に向かい、その途中で関羽と張飛に出くわしていた。
(04)徐州
関羽は、先に許都からついてきた5万の軍勢が持っている曹操の旗印を利用し、まだ霧の深い暁闇のころ、粛々と徐州の濠際(ほりぎわ)まで兵馬を進めていく。
そして大音声で開門を求め、声を作って曹操の急使の張遼(ちょうりょう)だと呼びかける。疑わしくば旗印を見よとも。
車冑は思い迷ったが、すでに城内に帰っていた陳登は開門を促す。それでも車冑は疑いを解かず、夜明けを待ってから開けても遅くはないと言い張る。
そこで関羽は、車冑に異心があることがわかったと言い放ち、後に従う隊伍の者に、引き返せとわざと大声で号令を発した。狼狽(ろうばい)した車冑が城門を開かせると、白い朝霧とともに関羽らが入ってくる。
異変を感じた車冑は素早くどこかへ逃げてしまったが、まだ眠っていた城兵の多くは、関羽と張飛の手勢1千によって皆殺しの目に遭った。
陳登はいち早く城楼に駆け登り、かねて伏せておいた弩弓手(どきゅうしゅ)に車冑の部下を射るよう命ずる。
弩弓手は味方を射ろとの命令にまごついたが、陳登が剣を抜いて後ろに立っているので、逃げ惑う味方に一斉に矢を注ぎかけた。
車冑は厩舎(うまや)から馬を引き出すと、一目散に門楼を越えて逃げ出したが、追ってきた関羽に討ち取られる。
夜が明けると、変を聞いた劉備は徐州城に駆けつけようとしたが、すでに関羽が車冑の首を鞍(くら)に引っくくり引き揚げてきた。劉備は車冑を殺したことを悔やんだが、張飛の姿が見えないことも案ずる。
すると張飛もひと足あとに戻り、車冑の妻子眷族(けんぞく)をことごとく斬り殺してきたと言う。劉備は狂躁(きょうそう)を深く戒めたが、叱ってみてももう及ばないことだった。
管理人「かぶらがわ」より
曹操が徐州に留めていた車冑を殺したことで、劉備と曹操との対立は決定的なものになりました。関羽と張飛の無謀な先走りにも見えますけど、これはいずれ避けられない事態だったと思います。
なお、この第85話のタイトルに使われている「霧風」は後の第207話(03)で説明されていました。大陸的な気流の激しい中に咫尺(しせき。極めて近い距離。咫は8寸、尺は10寸)も分かたぬほど濃霧が立ち込めている様子だということです。
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