吉川版『三国志』の考察 第193話 「日輪(にちりん)」

劉備(りゅうび)に嫁いでいた妹が南徐(なんじょ)へ戻ってくると、いよいよ孫権(そんけん)は荊州(けいしゅう)を突こうとするが、そこに曹操(そうそう)の大軍が南下を開始したとの知らせが届く。

そして曹操と孫権は濡須(じゅしゅ)で対峙。今回は曹操の出陣まで時間がかかったため、すでに孫権は十分な防備を整えていた。ある晩、曹操は日輪にまつわる不思議な夢を見る……。

第193話の展開とポイント

(01)南徐(なんじょ。京城〈けいじょう〉?)

孫権(そんけん)の妹でもある劉備(りゅうび)の夫人は、やがて呉(ご)の都へ帰り着いた。

「南徐」については先の第171話(06)を参照。

孫権が聞くと、周善(しゅうぜん)は江上で張飛(ちょうひ)や趙雲(ちょううん)に阻められ、斬殺されたという。阿斗(あと)も取り上げられたため、連れてくることができなかったとも。

周善が殺されたことについては、前の第192話(05)を参照。

阿斗が取り上げられたことについても、前の第192話(05)を参照。

夫人はすぐに母公との面会を求めた。だが孫権から、母公は至極お達者だと言われいぶかる。

孫権は政閣に臨み、群臣に荊州(けいしゅう)を攻める考えを伝えたうえで策を聴く。すると議事の半ばに江北(こうほく)の諜報(ちょうほう)が届き、曹操(そうそう)が40万の大軍を催し、赤壁(せきへき)の仇(あだ)を報ぜんと、刻々と南下していることが伝わった。

ところへまた内務吏から、先ごろから病中にあった張紘(ちょうこう)が今朝、遺言の一書をしたため終わって果てたとの知らせも入る。

孫権は、張紘が遺書の中で勧めた遷都を実行し、その居府を「建業(けんぎょう)」へ遷す。建業には「白頭城(はくとうじょう)」が築かれ、旧府の市民もみな移ってきた。また、呂蒙(りょもう)の意見を容れ、濡須(じゅしゅ)の水流の口から一帯にかけて堤を築く。

新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(『白頭城』とは)『石頭城(せきとうじょう)』のこと。南京(なんきん)には現在も城壁跡が残る」という。

(02)許都(きょと)

すでに40万の大編制が整い、曹操がいよいよ許都を発しようとしたとき、長史(ちょうし)の董昭(とうしょう)がおもねって勧めた。

「およそ古来から、臣として丞相(じょうしょう。曹操)のような大功を挙げられた御方は、これを歴史に見ても求めることはできません。周公(しゅうこう)も呂望(りょぼう)も比較にはならないでしょう」

新潮文庫の註解(渡邉義浩氏)によると、「(『周公』と『呂望』は)『周公旦(しゅうこうたん)』と『太公望(たいこうぼう)』。ともに周の創業を支えた宰相」という。

「今はよろしく、『魏公(ぎこう)』の位に昇って『九錫(きゅうしゃく)』を加え、その威容と功徳を天下に見せ示すべきでありましょう」

ここで出てきた「功徳」はルビが「くどく」となっており、イマイチつかめず。「こうとく」なら功績や徳行という意味でいいのだろうが、「くどく」とすると仏教色の濃い意味になると思う。ここは前者のほうが解釈しやすいように感じたが、あえてルビを「くどく」としてあることが消化しきれなかった。

新潮文庫の註解(渡邉義浩氏)によると「『公』は『諸侯王』と『列侯(れっこう)』の間の爵位。後漢(ごかん)において臣下の爵は『列侯』が最上であった」という。

曹操は何を憚(はばか)る考えもなくすぐその気になり、朝廷に許しを求めた。もちろん意のままになる。彼は以後「魏公」と称し、出るも入るも九錫の儀仗(ぎじょう)に護られる身となった。

ここで「九錫の礼」について、本文での説明と註解があった。

新潮文庫の註解(渡邉義浩氏)によると、「(『九錫』は)天子(てんし)の用いる9種の威信財。皇帝(こうてい)の権威と同格であることを示す」という。

以下は本文における説明。

一 車馬
大輅(たいろ)、戎輅(じゅうろ)。大輅ハ金車、戎輅ハ兵車ノ事。黄馬八匹。

二 衣服
王者ノ服。袞冕赤舃(こんべんせきせき。王者の衣服と赤い履〈くつ〉)。朱ノ履タル事。

三 楽県(がっけん)
軒県ノ楽、堂下ノ楽。昇降必ズ楽ヲ奏ス。

四 朱戸
門戸ハ紅門ヲ以テ彩ル。

五 納陛(外から見えないように上下と両側を覆った階段)
朝陛ヲ登ル自由。

六 虎賁(こほん)
常時門ヲ衛ル軍三百人、虎賁軍トイウ。

七 鈇鉞(ふえつ)
鈇鉞各々一、鈇ハスナワチ(つまり)金斧(きんぷ)、銀斧(ぎんぷ)ナリ。

八 弓矢
彤弓(とうきゅう。赤い弓)一、彤矢(とうし。赤い矢)百、ロ弓(ろきゅう。黒い弓)十、ロ矢(ろし。黒い矢)一千、朱弓、黒弓ナリ。

九 秬鬯(きょちょう。黒い黍〈キビ〉で造った香り酒)
祭祀ヲ行ウタメノ酒。

この九錫についての説明は、井波版『三国志演義』(第61回)のものと比べるといくらか異同や省略があるように感ずる。また、すべての項目に注釈を付けていくとかえってわかりにくい気もするので、ここは主要部分にとどめておいた。何となくイメージできると思うので……。

これを見た荀イク(じゅんいく)は悲しんだ。以前の曹操とは次第に変わってくるのを冷静にそばで眺めていたのは、彼より年下のこの荀イクという一忠臣だった。

荀イクは延熹(えんき)6(163)年生まれ。曹操より8歳年下だった。

荀イクは涙を含んで諫めたが、曹操は席を立ち、「おいおい、董昭を呼べ」と近侍に言いつけながら大歩して去ってしまう。以来、荀イクは病と称し自邸に引きこもってしまった。

建安(けんあん)17(212)年の冬10月、南下の大軍は都を出ることになったが、荀イクは曹操から呼びに来ても、「このたびはお供できません」と参加を辞した。

井波版『三国志演義』(第61回)では、曹操から南征への同行を命ぜられた荀イクは、病気を口実にして寿春(じゅしゅん)に留まったとある。

その後、曹操から見舞いの使者が来る。使者は「魏公からのお見舞いである」と、食べ物の入っている一器を置いていった。

見ると器の上には「曹操親(みずか)ラ之ヲ封ス」という紙がかけてある。だが後から開けてみると、器の中には何も入っていなかった。

「お気持ちはわかった。あぁ……」

その夜、荀イクは自ら毒を飲み死んだ。

(03)行軍中の曹操

南征の大軍は水陸から続々と呉へ下っていく。途中、曹操は荀イクが自害したとの知らせを受ける。

井波版『三国志演義』(第61回)では、荀イクの死を息子の荀ウン(じゅんうん。忄+軍)が知らせたとあった。吉川版『三国志』では「荀ウン」が使われていない。

曹操はほろ苦い眉(まゆ)をひそめ瞼(まぶた)を閉じた。そしてしばらく黙っていたが、やがてこう言った。

「荀イクはちょうど50歳だったな。不憫(ふびん)なことをした。『敬侯(けいこう)』と諡(おくりな)してやれ」

(04)濡須

日を重ねて行軍は安徽省(あんきしょう)に入り、濡須の堤を前に200余里(り)にわたる陣を敷いた。

吉川版『三国志』ではたまにこういうケースが見られるが……。ここでいきなり「安徽省」などと現代の省名を持ち出されると、ムードがぶち壊しだと思う。

曹操が山に登って呉陣を見、下りかけたところ、どこかで一発の石砲が轟(とどろ)く。山のふもと近くの江から喚声が起こり、蘆荻(ろてき)の陰から無数の小艇が現れたかと思うと、呉の精猛が堤を越え突貫してくる。

曹操は山を下りると、陣頭に出て乱れ立つ味方を整えた。その時、彼方の堤の上にいた孫権が曹操を認め馬を飛ばしてくる。

わざと大喝し曹操が避けようとすると、孫権の左右から韓当(かんとう)と周泰(しゅうたい)が分かれて飛び出し、後ろに迫った。しかし曹操の味方もまた、鼓を鳴らして孫権の後ろを突き崩す。

乱軍の相を呈しかけた機に、魏の許褚(きょちょ)が刀を舞わせて韓当と周泰を退け、辛くも曹操を救い出し中軍へ帰った。

ところがこの晩、一度は退いたかと見えた呉軍が夜半に夜襲してくる。四面の野や小屋には火が放たれた。

遠征の疲労にあった魏軍は不覚にも不意を突かれ駆け破られる。おびただしい数の死者を捨てて総軍50里ほど後退のやむなきに立ち至った。

(05)濡須 曹操の本営

曹操は悶々(もんもん)と自己を責め、幾日かを空しく守りながら、陣小屋の内に隠れて軍書ばかり読んでいた。

そっと入ってきた程イク(ていいく。日+立)は「このたびのご出陣は遷延また遷延を重ね、ちと遅すぎました」と言う。ゆえに呉は国防に全力を賭(と)し、濡須の堤まで築いてしまったほどだとも。そして引き揚げを勧めた。

その晩、曹操は不思議な夢を見た。炎々たる日輪が雲を巻き、空中から大江の波間に落ちたと見て目が覚めたのである。

井波版『三国志演義』(第61回)では、机にうつぶせになりまどろんでいた曹操だったが、突然、潮騒の音が轟き渡り、まるで多くの馬が先を争って疾駆しているように感じた。あわてて目を遣ると長江の真ん中に一輪の赤い太陽が現れ、その光が強く目を射た。空を仰ぎ見るとさらに二輪の太陽が照っているではないか。と、不意に長江(ちょうこう)の太陽が一直線に飛び上がり、雷のような音を立てて砦(とりで)の前の山中に落下したところで、ハッと目が覚めた。陣幕の中で夢を見ていたのである、とあった。

翌日、曹操は5、60騎を連れ陣中を見回り、何気なく江のほとりを歩いてきた。ちょうど真っ赤な夕日が上流に沈みかけていたので夕べの夢を思い出し、吉夢だろうか、凶夢だろうかと左右の将に語っていた。

井波版『三国志演義』(第61回)では、曹操は午(うま)の刻(正午)ごろに目を覚ますと、ただちに50騎余りをひきいて本陣を出て、夢の中で太陽が落ちた山のふもとへ行ってみた。観察している最中に突然、一群の人馬が現れ、それが孫権だったとある。

すると、彼方の赤い靄(もや)の中から無数の旗が見え始める。真っ先に進んできたのは孫権で、鞭(むち)を上げ曹操を差し招きながら揶揄(やゆ)した。

曹操は、またも敵の仕掛けた戦(いくさ)に誘われて戦う。この日の戦闘も惨烈を極めたが、結果は魏の大敗に帰してしまった。

翌建安18(213)年の正月になってもはかばかしい戦況の展開はなく、2月に入ると毎日ひどい大雨が続き、戦争どころではなくなってしまう。

次には当然、食糧難が起こってくる。兵たちは恨みを含み郷愁を思う。諸将の意見もまちまちだった。

こういう状況の中で孫権から一書が届く。

「予モ君モ共ニ漢朝(かんちょう)ノ臣タリ、マタ民ヲ泰(やす)ンズルヲ以テ徳トシ任トスル武門ノ棟梁(とうりょう)デハナイカ。仁者相争ウヲ嘲(わら)ッテカ天ハ洪々ノ春水ヲ漲(みなぎ)ラシ、君ノ帰洛ヲ促シテイル。賢慮セヨ君、再ビ赤壁ノ愚ヲ繰返スコトナキヲ。建安十八年春二月呉侯孫権書」

ふと書簡の裏を見ると、「足下不死(そっか〈きみが〉しなずんば)孤不得安(われやすきをえず)」とも書いてある。

井波版『三国志演義』(第61回)では、ここにある書簡の裏の一文については見えなかった。

曹操は苦笑し、翌日あっさりと引き揚げを命じた。それを見て呉軍もみな秣陵(まつりょう)の建業へ帰った。

(この第193話〈01〉で)「秣陵」を改称して「建業」としたのだから、「秣陵の建業」という呼び方はいくらか引っかかる。

(06)建業

孫権はすっかり自信を得て、荊州への進軍を群臣に諮る。宿老の張昭(ちょうしょう)はいつも若い孫権に歯止めの役割をしていたが、この時も次のように言う。

「蜀(しょく)の劉璋(りゅうしょう)に一書をお遣わしあって、『劉備は呉へ後詰めを頼んできている。必ずや蜀を横奪する考えに違いない』と、まず劉璋を疑わせ、漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)にも軍需物資の援助を言い遣りしばらく劉備を苦しませ、その後、おもむろに荊州を取るのが一番の良策でしょう」

管理人「かぶらがわ」より

ページ数はそれほど多くなかったのですが、孫権の遷都やら曹操の「魏公」やら「九錫」やら。さらには濡須での戦いやら。とにかく内容が詰まっていた第193話でした。

これまでにも何度も触れてきましたが、曹操の勢力を「魏」と称していいのはこのあたりからでしょう。また、孫権の本拠地を「都」と表現したり、「遷都」などという言葉も見えましたが、これらは適切ではないと思います。

なお、荀イクの死については謎も多く、一概にこうだと決めつけられないものがあります。

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