漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)が葭萌関(かぼうかん)に攻め寄せたとの急報が届くと、すぐさま劉備(りゅうび)は軍勢をひきいて迎撃に向かう。
この動きをつかんだ孫権(そんけん)は、劉備不在の荊州(けいしゅう)を一気に突こうと考えるが、嫁がせた娘の身を案ずる母公の許しが出ない。そこで孫権は張昭(ちょうしょう)の献策を容れ――。
第192話の展開とポイント
(01)涪城(ふじょう)
その後も蜀(しょく)の文武官は、たびたび劉璋(りゅうしょう)を諫めた。
「劉備に二心はないかもしれません。しかし、彼の幕下はみな蜀に虎視眈々(こしたんたん)です。何とか口実を設け、今のうちに荊州軍(劉備軍)を引き揚げさせるご工夫をなされてはいかがですか?」
だが、劉璋は依然としてうなずかない。
こうしているうち、国境の葭萌関から飛報が来る。漢中の張魯がついに大兵を挙げ、攻め寄せてきたという。
さっそく劉璋はこの由を劉備に伝え、協力を乞う。劉備は少しも辞すところなく、ただちに兵をひきいて国境へ馳(は)せ向かった。
これにホッとした蜀の諸将は、この間に自国の守りを鉄壁にするよう、再三再四の献言を行う。
あまりに諸将が憂えるので、劉璋も彼らの意に従い、白水之都督(はくすいのととく)の楊懐(ようかい)と高沛(こうはい)に涪水関(ふすいかん)の守備を命じ、自身は成都(せいと)へ立ち帰った。
(02)南徐(なんじょ。京城〈けいじょう〉?)
蜀境の戦乱は、まもなく長江(ちょうこう)千里の南の呉(ご)へも聞こえてきた。
孫権が重臣を一堂に集めて意見を聴くと、顧雍(こよう)が、ついに劉備は火中の栗(クリ)を拾いに出たものだと言う。呉の無事なる兵をもって荊州の留守を突けば、一鼓して彼の地盤は覆りましょうとも。
孫権も同じ考えだったので、みなに出師(すいし。出兵すること)の準備にかかるよう命ずる。
ところが孫権の母公たる呉夫人が、劉備に嫁がせた娘かわいさに許さず、評議は一決せずに終わってしまった。
★呉夫人については先の第136話(02)を参照。
孫権が一室に沈吟していると、張昭が一計をささやく。母公のお叱りは、ただただ愛娘への情に引かれておいでになるだけのことだとして、ひとりの大将に500騎ほどを授け、急きょ荊州へ差し向けられるようにと。
そして妹君に密書を送り、「母公の病篤し、命旦夕にあり、すぐ帰りたまえ」と促すのだと。その折に劉備の一子である阿斗(あと)をも連れ呉へ下ってこられたなら、後はもうこちらのものだと。それを人質に荊州を返せと迫るのだとも。
孫権は妙計だと言い、張昭が薦めた周善(しゅうぜん)を呼び、妹への密書を託す。
★『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第61回)では、ここで周善の起用を言いだしたのは孫権自身だった。
周善は張昭にも会い、つぶさに密計を授けられると、勇躍して夜のうちに揚子江(ようすこう。長江)を出帆。500の兵はみな商人に仕立て、上流へ交易に行く商船に偽装し、船底には武具を隠していた。
(03)荊州(襄陽〈じょうよう〉?)
周善は伝手(つて)を求め、首尾よく荊州城の大奥へ入り込む。さらに多くの賄賂を遣い、ようやく劉備の夫人に会うことができた。
夫人は兄の手紙を読むうちに、もう紅涙潸々(さんさん)。手もわななかせ、顔も象牙彫(ぞうげぼり)のように血の色を失ってしまう。
夫人は周善に言われるまま身支度を整える。周善は諸方の口を見張りながら、その間に早口に告げた。
「そうそう、和子さまもお連れあそばせよ。御母公には、日ごろから劉皇叔(りゅうこうしゅく。天子〈てんし〉の叔父にあたる劉備)の家には、愛らしい一子ありとお聞きになって、ひと目見たいと口癖におっしゃっておられました」
夕暮れごろ、今年5歳の阿斗を懐に、夫人は車に隠れて城中から忍び出た。呉以来、そば近くにかしずいている30余人の侍女は、みな小剣を腰に佩(は)き、弓を携えて夜道を急ぐ。
★阿斗(劉禅〈りゅうぜん〉)は建安(けんあん)12(207)年生まれ。このとき5歳だったとすると(今は)建安16(211)年になってしまい、設定と1年ずれてくる。ちなみに井波『三国志演義(4)』(第61回)では、阿斗は7歳ということになっていた。ただ、こちらも史実とは1年ずれている。
(04)沙頭鎮(さとうちん)
夫人の車が沙頭鎮の埠頭(ふとう)に着くと、さっそく船に乗り換える。制止する趙雲(ちょううん)らの声を背に、周善は水夫たちを叱咤(しった)した。
(05)長江
趙雲は船の影を追いながら、岸沿いに馬を飛ばす。部下の兵とともに10里も駆けると、ある漁村にかかった。ここで趙雲は漁夫の一舟に飛び乗り、「あの船へ漕(こ)ぎ寄せろ」と先回りした。
この小舟が近づこうとすると、船上の周善は長い矛を持ち、「射殺せ、突き殺せ」と必死の下知に声をからす。
趙雲は槍(やり)を投げ捨て、腰なる青釭(せいこう)の剣を抜くと、雨と降る矢を切り払う。
★青釭の剣については先の第143話(03)を参照。
そして、小舟の舳先(へさき)が敵船の横へ勢いよくぶつかった瞬間、わめきながら船べりに飛びつき、ついによじ登って船中へ躍り込んだ。
趙雲がとがめると夫人は、呉にいる母公が危篤だと聞き、軍師(諸葛亮〈しょかつりょう〉)に相談している暇(いとま)もなく、急いで便船に乗ったのだと話す。
それでも趙雲は納得せず、夫人の膝から阿斗を取り返す。だが、乗ってきた小舟はすでに流されており、呉船の艫(とも。船尾)で立ち往生してしまう。
すると、いつの間にか近づいていた田舎町の河港の口から、十数艘(そう)の早舟の群れが近づいてくる。趙雲は色を失ったが、やってきたのは張飛(ちょうひ)。
張飛が船上に跳び上がると、出会い頭に周善が矛で斬りかける。しかし張飛が蛇矛(じゃぼう)をひと振りすると、周善の首は遠くへ飛んでいた。
★『三国志演義 改訂新版』(立間祥介〈たつま・しょうすけ〉訳 徳間文庫)の訳者注によると、「(蛇矛は)穂先が蛇のように曲がっている矛」だという。
やがて張飛も夫人をとがめ、城へ帰るよう言う。
夫人は許しを乞うが、母公のご危篤に前後もなく枕元へ行くのだと言って聞かない。もし強って荊州へ連れ戻るというのなら、長江へ身を投げるとも言う。
張飛は趙雲と相談して阿斗だけを取り返し、このまま夫人は呉へ遣ることにした。ふたりは阿斗を抱えて早舟の一艘に跳び下り、ほかの十数艘をひきいて近くの油江口(ゆこうこう)に上陸。馬に乗って荊州へ帰った。
★油江口(すなわち公安〈こうあん〉)に上陸後、馬に乗って荊州へ帰ったとあるので、このあたりでは荊州が襄陽ではなく、公安を指しているように見える。だが、ここまでの記述と整合性が取れていない印象も受けるので、一応「襄陽?」としておく。
(06)荊州(襄陽?)
「よかった。実によかった。阿斗の君の無事を得たのは誠にふたりの働きである」
諸葛亮はこの子細を書簡にしたため、蜀の葭萌関にある劉備のもとへ早馬で報告しておいた。
管理人「かぶらがわ」より
趙雲が張飛とともに長江を遮って阿斗を取り戻した話は、『三国志』(蜀書・趙雲伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『趙雲別伝』に見えました。ホント、劉禅(阿斗)は趙雲と縁があります。
この幼少期、劉禅の周りには武芸や学問に優れた師が多かったと思うのですけど……。どうやら活かせなかったようですね。
あと余談ながら、この第192話のタイトルの「珠(たま)」は、先の第31話と同じだったりします。何か特別な意図があるのでしょうか?
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『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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