吉川『三国志』の考察 第031話「珠(たま)」

董卓(とうたく)により焼け野原と化した洛陽(らくよう)の宮殿跡を見て回る、袁紹(えんしょう)ら反董卓連合軍の諸侯。

皆が帰った後、なお孫堅(そんけん)は数名の従者とともに建章殿(けんしょうでん)の辺りをぶらついていたが、とある井戸から思わぬ宝物を見つける。

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第031話の展開とポイント

(01)洛陽

洛陽は董卓が放たせた火により7日間も焼け続ける。反董卓連合軍の総帥たる袁紹も本営を建章殿のあった辺りに置き、日夜戦後の後始末に忙殺されていた。

やがて掘り散らされた宗廟(そうびょう)に仮宮ができ上がると、袁紹は祭りを営もうと諸侯の参列を求める。粗末で形ばかりの祭事を執り行った後、諸侯は連れ立って、面影もなくなり果てた禁門(宮門)のあちこちを見て回った。

そして、まだ半焼状態の内裏(天子〈てんし〉の宮殿)の鴛鴦殿(えんおうでん。鴛鴦はオシドリの意)で小盞(しょうさん)を酌み交わして別れた。

諸侯はみな帰ったが、孫堅は2、3人の従者を連れ、建章殿の近くを逍遥(しょうよう)していた。すると郎党のひとりが、南の井戸から五色の光が見えると言いだす。

そこで井戸を調べさせると、水浸しになった若い女官の死体が見つかった。女官は紫金襴(しきんらん)の囊(ふくろ)を抱いていたが、孫堅が開けると赤い小箱が出てくる。

さらに黄金の錠を歯でねじ切ると、小箱の中には一顆(いっか)の印章が入っていた。密かに程普(ていふ)を呼んで見せたところ、伝国の玉璽(ぎょくじ)だとわかった。

程普は天から玉璽を授けられたのだと言い、早く本国へ帰って遠大の計を巡らせるよう勧める。孫堅は居合わせた郎党に玉璽のことを他言しないよう厳命し、こっそり自分の軍営に戻って眠った。

(02)洛陽 孫堅の軍営

程普は味方の者に、主君が急な病を発せられたゆえ明日には陣を引き払い、本国へお帰りになることになったと触れ、にわかに行旅の支度にかからせる。

ところがこの混雑中に、孫堅に付き従う郎党のひとりが袁紹の軍営へ行って内通し、袁紹に一部始終を告げ、わずかな褒美をもらって姿をくらました。だから袁紹は、あらかじめ玉璽の秘密を知っていた。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第6回)では、袁紹はこの男に褒美を与え、密かに自軍に留め置いていた。

(03)洛陽 袁紹の軍営

夜が明けると、孫堅は何食わぬ顔をして暇(いとま)乞いにやってくる。わざと憔悴(しょうすい)した態を装い、しばらく本国へ帰って静養したいと述べると、袁紹は横を向いて笑う。

袁紹は井戸から拾い上げた玉璽のことを問いただし、朝廷に返上するため差し出すよう迫る。だが孫堅は謀反人呼ばわりされても、玉璽を手に入れたことを認めない。

ふたりとも剣を抜いたため、満堂の諸侯が総立ちになってなだめる。こうして皆で仲直りの杯を上げて別れたものの、それから一刻も経たないうちに、孫堅の陣には一兵の影も見えなくなった。

袁紹がいらだち、諸侯の軍営も何となく動揺しだして見えたところへ、先に単独で董卓を追い、滎陽(けいよう)で大敗を喫した曹操(そうそう)がわずかな残兵をひきいて帰ってくる。

袁紹は孫堅のことを諮ろうと酒宴を設け、諸侯も呼んで曹操を慰める。すると曹操は憤然として、「しばらく山野へ帰って考え直す」と言い、この日のうちに洛陽を去り、揚州(ようしゅう。楊州)の方面へ発ってしまった。

その後、孫堅は袁紹の追手に遭ったり、諸城の太守(たいしゅ)に遮られたりと散々な憂き目に遭いながらも、ついに黄河(こうが)のほとりまで逃げ延びて一舟を拾い、辛くも江東(こうとう)へ逃げ渡った。

孫堅が本国へ帰っていく過程がよくわからなかった。このとき孫堅は長沙太守(ちょうさたいしゅ)だったはず。ここでいう本国とは長沙のことではないのだろうか? もし長沙へ帰ろうとしたのではないとしても、なぜ洛陽から南下するのに、黄河のほとりで舟を拾う必要があるのかも謎だ。

なお井波『三国志演義(1)』(第6回)では、孫堅が病を装って袁紹に帰国する旨を伝えに行った際、長沙へ帰ることをはっきり告げていた。

(04)洛陽

そのころ東郡(とうぐん。東郡太守)の喬瑁(きょうぼう。橋瑁)と刺史(しし。兗州刺史〈えんしゅうしし〉)の劉岱(りゅうたい)が陣中のつまらないことから喧嘩(けんか)になり、夜中に劉岱が軍営へ斬り込んで喬瑁を斬り殺すという事件が起こる。

諸侯の間ですらこのような状態で、その配下の将校や卒伍の乱脈ぶりもひどくなった。略奪はやまないし酒は盗む。喧嘩はいつも女や賭博のことから始まった。

洛陽の飢民からは、「こんなことなら、まだ前の董相国(とうしょうこく。董卓)の暴政のほうがマシだった」というつぶやきが聞かれるほどである。

(05)洛陽 公孫瓚(こうそんさん)の軍営

ある夜、公孫瓚は密かに劉備(りゅうび)を呼び、袁紹に見切りをつけて北平(ほくへい)へ帰る意向を伝える。劉備も同意して暇を告げると、関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)らを連れて平原(へいげん)へ帰ることにした。

井波『三国志演義(1)』(第6回)では、このとき平原まで引き揚げたところで、公孫瓚が劉備を平原相(へいげんしょう。平原国の相)に任じていた。

管理人「かぶらがわ」より

孫堅が洛陽城南の甄官井(しんかんせい)から伝国璽を得たことについては、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫堅伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』に見えます。ですが本伝(孫堅伝)に関連する記事はありません。

この出来事が孫堅、そして息子の孫策(そんさく)にも大きな影響を与えることになりました。運命とも言えそうな、何らかの力が働いていたのでしょうか?

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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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