吉川『三国志』の考察 第032話「白馬将軍(はくばしょうぐん)」

反董卓(とうたく)連合軍の解散後、ひとまず河内(かだい)へ移った袁紹(えんしょう)は兵糧の確保に頭を悩ませていた。

そこで冀州牧(きしゅうぼく)の韓馥(かんふく)から兵糧を借りようと考えるが、逢紀(ほうき)の進言に心を動かされる。

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第032話の展開とポイント

(01)河内

その後、焦土の洛陽(らくよう)に留まっていても仕方がないと、反董卓連合軍の諸侯は軍勢をひきいて続々と本国へ帰った。

袁紹も兵馬をまとめて河内郡に移ったが、大軍を擁しているためたちどころに兵糧に窮する。そこで冀州太守(きしゅうたいしゅ)の韓馥に事情を告げ、兵糧を借りようと書状を書きかけた。

ここで韓馥を冀州太守としていたが、冀州刺史(きしゅうしし)もしくは冀州牧とするのが正しい。現にすぐ後の原文では「冀州の牧、韓馥は……」としている。なお『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第7回)では、冀州の牧の韓馥とあった。

すると侍大将(さむらいだいしょう)の逢紀が進言する。袁紹は進言を容れ、北平(ほくへい)の公孫瓚(こうそんさん)に冀州の分け取りを持ちかける一方、冀州の韓馥へも内通し、公孫瓚に対抗するため力になると伝えさせた。

ここで逢紀を侍大将としているように、吉川『三国志』では当時の官爵をわが国ふうに表現した箇所が目立つ。賛否あると思うが、その人物の家中におけるポジションを知るうえで許容範囲と考えたい。

(02)冀州(鄴城〈ぎょうじょう〉?)

冀州牧の韓馥のもとに袁紹の書状が届く。韓馥は公孫瓚が大軍をもって冀州を攻めようとしていると知らされ、大いに驚き評議を開いた。

重臣の意見は袁紹を冀州へ迎えて力を借りるという方向でまとまり、韓馥も同意。しかし、ひとり長史(ちょうし)の耿武(こうぶ)が憤然とその非を挙げて諫める。

井波『三国志演義(1)』(第7回)では、ここで別駕(べつが)の関純(かんじゅん。閔純〈びんじゅん〉)の名を出していた。吉川『三国志』では関純(閔純)を使っていない。

この諫言は用いられなかったものの、評議は紛糾。彼の説が正しいとし、席を蹴って去る者が30人に及んだ。

耿武自身も官を捨てて姿を隠したが、みすみす主家が滅ぶのを見るに忍びず、日を待って袁紹が冀州へ迎えられる機会をうかがっていた。

やがて袁紹が州内の街道に堂々と兵馬を進めてきた。その日、耿武は剣を握り木陰で待ち構えていたが、軍列が目の前に差しかかると剣を躍らせ袁紹に近づきかける。だが顔良(がんりょう)に一喝され、斬り下げられてしまう。

井波『三国志演義(1)』(第7回)では耿武とともに関純(閔純)を登場させている。耿武が顔良に、関純が文醜(ぶんしゅう)に、それぞれ斬り殺されていた。

こうして冀州に入った袁紹は、態よく韓馥を奮武将軍(ふんぶしょうぐん)に任じ、自ら藩政を執る。

井波『三国志演義(1)』(第7回)では、袁紹が韓馥を奮威将軍(ふんいしょうぐん)に任じていた。

さらに田豊(でんほう)・沮授(そじゅ)・逢紀といった腹心を要職に起用したため、韓馥の存在はまったく薄れた。韓馥は耿武の諫言を思い出して悔やんだが、ついに陳留(ちんりゅう)へ奔り、陳留太守の張邈(ちょうぼう)のもとに身を寄せることにした。

このころ公孫瓚も軍勢を進めてきたが、すでに袁紹が冀州を手に入れているのを見る。そこで弟の公孫越(こうそんえつ)を遣り、約定のごとく冀州を二分し、一半を譲るよう申し入れた。

袁紹は承知したような態度を示しつつ、国を分けることは重大な問題だから、公孫瓚自身が出向くようにと伝えさせる。ところがその帰路、公孫越は森林からの急な矢攻めに遭って射殺された。

(03)盤河(ばんが。磐河)

公孫瓚は公孫越が殺されたと聞いて激怒。盤河の橋畔まで軍勢を進め、橋を挟んで袁紹の大軍と対峙(たいじ)する。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・公孫瓚伝)によれば、袁紹と公孫瓚の戦いが行われたのは実際には(盤河〈磐河〉ではなく)界橋(かいきょう)である」という。

公孫瓚と袁紹が橋上で罵り合った後、袁紹の命を受けた文醜が公孫瓚を目がけて駆け出す。味方の中に逃げ込んだ公孫瓚を文醜が追うと、公孫瓚は壊走する味方とも離れ、ただ一騎で山間の道を逃げ走った。

そのうち文醜が追いついてきたが、公孫瓚の馬は岩につまずき前脚を折ってしまう。眼前に迫った文醜に観念する公孫瓚だったが、このとき上の崖から飛び下りてきたひとりの壮漢が、文醜と猛戦し始めた。

一命を拾った公孫瓚が壮漢について調べさせると、味方の部隊にいた者ではなく、まったくただの旅人であることがわかる。

公孫瓚から事情を尋ねられた壮漢は趙雲(ちょううん)と名乗り、つい先ごろまで袁紹の幕下にいたことを話す。袁紹を見限り、故郷の常山(じょうざん)真定(しんてい)へ帰ろうと思っているとも。

井波『三国志演義(1)』(第7回)では趙雲は袁紹を見限り、公孫瓚のもとに身を寄せようとしていたとある。

趙雲は公孫瓚の誘いを受け、しばらく留まることを約束。

翌日、公孫瓚は再び盤河のほとりに立ち、北国産の白馬2千頭を並べて大いに陣勢を張る。この白馬陣は天下に有名なものだった。

井波『三国志演義(1)』(第7回)では、このとき公孫瓚が並べた5千頭余りの馬は、ほとんどが白馬だったとある。

対岸の袁紹は顔良と文醜を両翼とし、麴義(きくぎ)に1千余騎の屈強な射手をひきいさせて射陣を布(し)かせた。

井波『三国志演義(1)』(第7回)では、麴義がひきいていたのは800人の弓および弩(ど)の射手と1万5千の歩兵。

東岸の公孫瓚は袁紹軍の動きを見て、厳綱(げんこう)を先手に河畔へ寄り詰める。このとき公孫瓚はまだ趙雲の心根を信じきれておらず、500の兵を預けて後陣へ回していた。

両軍が対陣したまま、辰(たつ)の刻(午前8時ごろ)から巳(み)の刻(午前10時ごろ)まで戦端は開かれなかった。いよいよ公孫瓚が盤河橋を踏み渡るよう命ずると、東岸の軍勢は厳綱を先頭に橋を渡り、袁紹軍の先鋒たる麴義の陣へ当たっていった。

井波『三国志演義(1)』(第7回)では袁紹軍が磐河橋の東に、公孫瓚軍が磐河橋の西に、それぞれ陣取っていた。

すると鳴りを静めていた麴義が合図の狼煙(のろし)を上げ、顔良と文醜の両翼と連係してたちまち包囲。厳綱を斬り落とし、その帥の字の旗を河に投げ込んだ。

公孫瓚は自ら防戦に努めたが麴義の猛勢に当たるべくもなく、顔良と文醜に包囲されそうになると崩れ立つ味方に混じって逃げ退いた。

勝利を確信した袁紹は自ら盤河橋を越え、敵軍の中を荒らし回る。公孫瓚軍は支離滅裂に踏みにじられてしまうが、なお後詰めに、趙雲ひきいる兵500ばかりの不可思議なひと備えがあった。

麴義が手勢をひきいて趙雲の陣へ攻めかかったところ、その陣は鮮やかに形を変えて見る間に包囲し、八方から矢を浴びせ突き殺しにかかる。

趙雲は引き返そうとする麴義を見かけるなり白馬を飛ばし、槍(やり)で一気に突き殺す。この白馬は昨日、公孫瓚から当座の礼としてもらった駿足(しゅんそく)だった。

続いて趙雲は顔良と文醜の両軍へぶつかっていく。にわかに対岸へ退こうにも退路は盤河橋のひと筋しかなかったため、河に落ちて死ぬ袁紹軍の兵は数知れなかった。

盤河橋を越えて陣を進めた袁紹は、300余騎と射手100人を左右に備え、田豊とともに駒を並べ話していた。そこへにわか雨のように矢が集まり、趙雲の手勢500が前後から攻めかかってくる。

田豊は盤河橋の崖の下まで退くよう促したが、袁紹は聞き入れず、鎧(よろい)を脱いで身軽になると真っ先に突進した。田豊も付き従って力闘し、ほかの士卒もみな獅子奮迅(ししふんじん)して戦う。

ここへ逃げ崩れてきた顔良と文醜が合流。再び盛り返して四囲の敵を追い、勢いに乗り公孫瓚の本陣まで迫った。公孫瓚は趙雲の活躍にひと息ついていたところだったが、ここへ袁紹軍が一斉に突入してきたため、馬を飛ばして逃げるしかなかった。

袁紹が5里余り追撃したところ、突如として山峡(やまかい)から劉備(りゅうび)らが姿を現す。平原(へいげん)から夜を日に継いで駆けつけたものだった。袁紹軍は我がちに逃げ戻る。

戦いが終わると公孫瓚は劉備を迎えて深く謝し、先に一命を救ってくれた趙雲とも引き合わせた。ふたりは初めて挨拶を交わしたが、互いに惹(ひ)かれ合うものを感ずる。

公孫瓚は劉備に後日の賞を約束し、趙雲には自分の愛馬1頭を与え、またの戦いに協力を励まして別れた。趙雲も拝領の白馬にまたがり自陣へ帰っていったが、意中に強く印象づけられたものは、公孫瓚の恩ではなく劉備の風貌だった。

管理人「かぶらがわ」より

うまく冀州を奪い、韓馥を追い出した袁紹。騙(だま)されて激怒した公孫瓚は盤河一帯で袁紹と激突。ここで公孫瓚の危機を救う形で趙雲、そして劉備が登場――。

肝心の戦いのほうは、両軍痛み分けといったところでしょうか?

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