吉川版『三国志』の考察 第309話 「秋風五丈原(しゅうふうごじょうげん)」

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諸葛亮(しょかつりょう)の禱(いの)りはあと一夜というところで成就しなかった。だが、攻め寄せた魏軍(ぎぐん)にも取り乱すことなく、魏延(ぎえん)に命じて追い払わせる。

諸葛亮は自ら著した24編の書物を姜維(きょうい)に託し、楊儀(ようぎ)にも一書を入れた囊(ふくろ)を手渡す。さらに費禕(ひい)を始め信頼する者たちに後事を委ね、劉禅(りゅうぜん)への遺表を書き終え54年の生涯を閉じた。

第309話の展開とポイント

(01)渭水(いすい)の北岸 司馬懿(しばい)の本営

魏兵(ぎへい)が大勢して、仔馬(コウマ)のごとく草原に寝転んでいる。一年中で一番季節のよい、涼秋8月の夜を楽しんでいるのだった。

そのうち、不意にひとりの兵がアッと言った。またひとりが指差し、そのほかの幾人かも確かに見たと騒ぎ合う。兵たちは、めいめい営内のどこかへ去っていく。上将に告げたのだろう。まもなく司馬懿の耳にも入っていた。

折ふし司馬懿の手元には、天文方から今夕に観測された奇象を、次のように記録して報じてきたところだった。

「長星アリ、赤クシテ茫(ぼう。はっきりしない様子)。東西ヨリ飛ンデ、孔明(こうめい。諸葛亮〈しょかつりょう〉のあざな)ノ軍営ニ投ジ、三(み)タビ投ジテ二(ふた)タビ還ル」

「ソノ流レ来ルトキハ光芒(こうぼう)大ニシテ、還ルトキハ小サク、其(その)ウチ一星ハ終(つい)ニ隕(お)チテ還ラズ。占(せん)ニ曰(いわ)ク、両軍相当ルトキ、大流星アリテ軍上ヲ走リ、軍中ニ隕ツルニ及ベバ、其軍、破敗ノ徴ナリ」

兵が目撃したというところとこの報告書とは、符節を合したように一致している。司馬懿は夏侯覇(かこうは。夏侯霸)を呼び、早口に急命を下す。

「おそらく孔明は危篤に陥ちておるものと思われる。あるいはその死は今夜中かもしれぬ。天文を観るに、将星(大将に見立てた赤色の大星)もすでに位を失っている。汝(なんじ)すぐに1千余騎を引っ提げ五丈原(ごじょうげん)をうかがいみよ」

「もし蜀勢(しょくぜい)が奮然と打って出たら、まだ孔明の病は軽いと見なければならぬ。怪我なきうちに引き返せ」

夏侯覇は手勢を糾合し、星降る野をまっしぐらに進軍した。

(02)五丈原 諸葛亮の本営

この夜は諸葛亮が禱(いの)りにこもってから6日目。あと一夜である。

諸葛亮が禱りにこもっていることについては、前の第308話(03)を参照。

しかも本命の主灯がともり続けているので、諸葛亮は「わが念願が天に通じたか」と、いよいよ精神を凝らして禱りの行(ぎょう)に伏していた。

帳外を守護している姜維(きょうい)もまた同様の気持ち。ただ恐れられるのは、諸葛亮が禱りのまま息絶えてしまうのではないかという心配だけである。なので姜維は、折々に帳内の秘壇をそっとのぞいていた。

諸葛亮は髪をさばき、剣を執り、いわゆる罡(こう)を踏み斗を布(し)くという禱りの座にすわったまま、後ろ向きになっている。

新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(『罡を踏み斗を布く』とは、)北斗七星の形にステップを踏む動作のこと」だという。

「あぁ、かくまでに」と、姜維はうかがうたびに熱涙を抑えた。諸葛亮の姿は忠義の権化そのものに見えた。

すると何事か、夜も更けているのに突然陣外におびただしい鬨(とき)の声がする。すぐに姜維は守護の武者を外へ走らせた。

ところが、入れ違いに魏延(ぎえん)が駆け入ってくる。そこにいる姜維も突きのけ、帳中へ駆け込みわめいた。

「丞相(じょうしょう。諸葛亮)、丞相っ! 魏軍が寄せてきました。ついにこちらの望み通り、しびれを切らして司馬懿のほうから戦端を開いてきましたぞ」

魏延が諸葛亮の前に回り、ひざまずこうとした弾みに何かにつまずいたとみえ、壇上の祭具や供物が崩れ落ちる。そのうえ狼狽(ろうばい)し、足元に落ちてきた主灯のひとつを踏み消してしまう。

それまで化石のごとく禱りを続けていた諸葛亮は、アッと剣を投げ捨てて高く叫んだ。

「死生命あり! あぁ、われついに熄(や)む(なくなる)のほかなきか」

帳中へ躍り込んだ姜維が魏延に斬りかかると、諸葛亮は声を絞って叱る。

「主灯が消えたのは人為ではない。怒るをやめよ。天命である。何の魏延の科(とが)であるものか。静まれ。冷静になれ」

そう言って諸葛亮は床に倒れ伏したが、陣外の鼓や鬨の声を聞くと、すぐに面を上げ命じた。

「今宵の敵の奇襲は、はや仲達(ちゅうたつ。司馬懿のあざな)がわが病の危篤を察し、その虚実を探らせんため、急に一手を差し向けてきたにすぎまい。魏延、魏延。すぐに出て駆け散らせ」

悄気(しょげ)ていた魏延は日ごろの猛気を持ち返し、躍り直して出ていく。彼が陣前に現れると、さすがに鼓の音も鬨の声も一度に改まる。攻守たちまち逆転して魏兵は駆け散らされ、夏侯覇は馬に鞭(むち)打ち逃げ出していた。

諸葛亮の病状は、この時から精神的にも再び回復を望み得なくなる。翌日、彼はその重体にもかかわらず、姜維を身近く招いて言った。

「予が今日まで学び得たところを書に著したものが、いつか24編になっている。わが言もわが兵法も、またわが姿もこの内にある。いま、あまねく味方の大将を見るに、汝をおいてほかにこれを授けたいと思う者はいない」

諸葛亮は手ずから自著の書巻を積み、ことごとく姜維に授け、さらにこう言った。

「後事の多くは汝に託しておくぞ。この世で汝に会うたのは幸せのひとつであった。蜀の国は諸道とも天険。われ亡しとても守るに憂いはない。ただ陰平(いんぺい)の一道には弱点がある。子細に備え国の破れを招かぬように努めよ」

姜維が涙に暮れていると、諸葛亮は「楊儀(ようぎ)を呼べ」と静かに言いつける。

井波版『三国志演義』(第104回)では、楊儀がやってくる前に、諸葛亮は馬岱(ばたい)を呼び入れ、耳打ちして密計を授けていた。

そして楊儀にはこう言って、一書を秘めた錦(にしき。いろいろな色糸や金銀の糸を横糸に使い、きれいな模様を織り出した厚い高価な織物)の囊(ふくろ)を託した。

「魏延は後に必ず謀反するだろう。彼の猛勇は珍重すべきだが、あの性格は困りものだ。始末せねば国の害をなそう。わが亡き後、彼が背くのは必定である。その時にはこれを開いてみれば、おのずから策が得られよう」

その夕方から、また容体が悪化する。昏絶(こんぜつ)してはよみがえること数度。幾日となく死生の彷徨(ほうこう)状態が続いた。

五丈原から漢中(かんちゅう)へ、漢中から成都(せいと)へと、昼夜の分かちなく駅次ぎの早馬も飛んでいる。成都からは即刻、尚書僕射(しょうしょぼくや)の李福(りふく)が下っていた。

井波版『三国志演義』(第104回)では「尚書の李福」となっている。

劉禅(りゅうぜん)の驚きと優渥(ゆうあく)なる勅を帯し、夜を日に継いで急いでいるとは聞こえていたが、まだここ五丈原に到着をみない。

しかし幸いなことに、なお費禕(ひい)が滞在している。諸葛亮は、われ亡き後は彼に嘱するもの多きを思った。

諸葛亮は一日、その費禕を招き懇ろに頼む。

「後主(こうしゅ)劉禅の君も、はやご成人にはなられたが、遺憾ながら先帝(劉備〈りゅうび〉)のごときご苦難を知っておられない。ゆえに世をみそなわすこと浅く、民の心をくむにも疎くおわすのは是非もない」

「ゆえに補佐の任たる方々が心を傾け、君の徳を高うして社稷(しゃしょく。国家)を守り固め、もって先帝のご遺徳を常に鑑(かがみ)として政治せられておれば間違いないと思う」

「才気辣腕(らつわん)の臣をにわかに用いて軽率に旧(ふる)きを破り、新奇の政を敷くは危うい因(もと)を作ろう。予が選び挙げておいた人々をよく用い、一短あり、一部欠点のある人物とて、みだりに捨てるようなことはせぬがいい」

「その中でも馬岱は忠義諸人に超え、国の兵馬を託すに足る者ゆえ、いよいよ重く扱うたがいい。諸政の部門は卿(けい)がこれを統轄総攬(そうらん)されよ」

「また、わが兵法の機密はことごとく姜維に授けておいた。戦陣国防のことは、まだ若しといえども彼を信じ、その重責にあたらせるとも決して憂うることはなかろう」

以上の事々を費禕に遺言し終わってから、諸葛亮の面には何やら肩の重荷が取れたようなすがすがしさが表れていた。

日々そのような容体の繰り返されていたある朝のこと、諸葛亮は何を思ったか、「予を扶(たす)けて車に乗せよ」と左右の者に言いだす。人々が怪しんで尋ねると、陣中を巡見するのだという。

諸葛亮はすでに立ち、自ら清衣に改めた。千軍万馬を往来した愛乗の四輪車が押されてくる。諸葛亮は白い羽扇を持ってそれに乗り、味方の陣々を見て回った。白露は轍(わだち)にこぼれ、秋風は面を吹き、冷気は骨に徹(とお)るものがあった。

「あぁ。旌旗(せいき)なお生気あり。われ亡くとも、にわかに潰(つい)えることはない」

諸葛亮は諸陣を眺め、さも安心したように見えた。だが、病室に帰るやすぐに打ち伏し、この日以来、とみに物言うことばも柔らかになり、眉(まゆ)から鼻色には死の相が表れていた。

諸葛亮は楊儀を呼び、再び懇ろに何か告げる。また、王平(おうへい)・廖化(りょうか)・張嶷(ちょうぎ)・呉懿(ごい)などもひとりひとり枕頭(ちんとう)に招き、それぞれに後事を託するところがあった。

「呉懿」については先の第196話(05)を参照。

姜維に至っては日夜そばを離れることなく、起居の世話までしていた。諸葛亮は姜維にこう命ずる。

「几(つくえ)を備え、香を焚き、予の文房具を取りそろえよ」

やがて諸葛亮は沐浴(もくよく)して几前(きぜん)に座る。それこそ蜀の天子(てんし。劉禅)に捧ぐる遺表だった。遺表をしたため終わると、諸葛亮は一同に向かい訓(おし)えた。

「予が死んでも必ず喪を発してはいけない。必然、司馬懿は、好機逸すべからずと総力を挙げてくるだろう」

「このような場合のために、日ごろからふたりの工匠(たくみ)に命じ予の木像を彫らせておいた。これは等身大の座像だから、車に乗せ周りを青き紗(しゃ)をもって覆い、滅多な者を近づけぬようにして、孔明なお在りと味方の将士にも思わせておくがいい」

「しかる後、時を計って魏勢の先鋒を追い、退路を開いた後で初めてわが喪を発すれば、おそらく大過なく全軍帰国することを得よう」

しばらく諸葛亮は呼吸を休めていたが、やがてこう言い足す。

「予の座像を乗せた喪車には、座壇の前に一盞(いっさん)の灯明をともし、米7粒と水少しを唇に含ませよ」

井波版『三国志演義』(第104回)にも、「米7粒を口の中に入れて…」という記述は見られた。だが、これは座像の口にではなく、(諸葛亮の)遺体の口に入れるよう言いつけられていた。

参考文献に挙げた井波版『三国志演義』の訳者注によると、「米7粒は北斗七星になぞらえたもの」だという。

「柩(ひつぎ)は氈車(せんしゃ。毛織りの敷物を敷き詰めた車?)の内に安置し、汝らが左右を護って歩々(一歩一歩)粛々と通るならば、たとえ千里(せんり)を還るも軍中常のごとく、少しも乱れることはあるまい」

さらに退路と退陣の法を授け、語を結ぶにあたって言った。

「もう何も言いおくことはない。みなよく心をひとつにして国に報じ職分を尽くしてくれよ」

人々は流涕(りゅうてい)しながら違背なきことを誓う。

黄昏(たそがれ)ごろ諸葛亮は一時、息絶えたが、唇に水を受けるとまた覚めたかのごとく目を見開き、宵闇の病床から見える北斗星のひとつを指差す。

「あれ、あの煌々(こうこう)と見ゆる将星が予の宿星である。いま滅前の一燦(いっさん)をまたたいている。見よ、見よ。やがて落ちるであろう……」

言うかと思うと、たちまち面は白蠟(びゃくろう)のごとく化し、閉じた睫毛(まつげ)のみが植え並べたように黒く見えた。

黒風(暴風)一陣。北斗は雲ににじみ燦また滅、天ただ啾々(しゅうしゅう。ここでは「枯れ葉が音を立てている様子」の意か?)の声のみ。

だがその後、成都から勅使の李福が着くと、諸葛亮は再び目を見開いて言ったという。

「国家の大事を誤った者は自分だ。慙愧(ざんき)するほか、お詫びの言葉もない」

井波版『三国志演義』(第104回)とはいくらか展開が異なる。李福は諸葛亮が亡くなる前(遺表を書く前)に五丈原に到着し、諸葛亮と話した後、いったん辞去したことになっていた。そして彼が人事不省に陥った後、突然、李福が戻ってきたとあり、まもなく意識の戻った諸葛亮が、下にあるような「丞相」の後任についての考えを伝えたことになっている。

それからまた、こう尋ねたという。

「臣亮の亡き後は、誰をもって『丞相』の職に任ぜんと……。陛下には、それをば第一に勅使をもってご下問になられたことであろう。われ亡き後は、蔣琬(しょうえん)こそ丞相たる人である」

李福が重ねて尋ねる。

「もし蔣琬がどうしてもお受けしないときは、誰が適任でしょう?」

諸葛亮が答えた。

「費禕がよい」

李福が次のことを尋ねると、もう返事がない。諸人が近づいてみると息絶え、まったく薨(こう)じていたというのである。

時は蜀の建興12(234)年の秋8月23日。寿54歳。これのみは多くの史書も『演義』の類書もみな一致している。

彼の死は、蜀軍をして空しく故山に帰らしめ、また以後の蜀の国策も一転機するのほかなきに至ったが、個人的にもずいぶん影響は大きかったらしい。

蜀の「長水校尉(ちょうすいこうい)」を務めていた「廖立(りょうりゅう)」という者は、前から自己の才名を頼み、同僚にもこのように放言していたくらいの男だった。

「孔明がおれを用いないなどというのは、人を使う目のないものだ」

その覇気と自負が過ぎるので、諸葛亮は一時、彼の官職を取り上げ、「汶山(ぶんざん。岷山〈びんざん〉)」という僻地(へきち)へ追い謹慎を命じた。

廖立は諸葛亮の死を聞くと、自己の前途を見失ったように嘆き、「吾(われ)終ニ袵(えり)ヲ左ニセン」と言ったということである。

「左袵(さじん)」は、着物の襟を下にして着る未開人の着方。

また、先に梓潼郡(しどうぐん)に流されていた前軍需相(ぜんぐんじゅしょう)の李厳(りげん)もこう言った。

「孔明が生きてあらんほどには、いつか自分も召し還されることがあろうと楽しんでいたが、あの人が亡くなられては自分が余命を保っている意味もない」

その後ほどなく、李厳も病を得て死んだと言われている。

李厳が梓潼郡に流されたことについては、先の第300話(08)を参照。なお、当時の蜀に「軍需相」なる官職があったわけではない。

とにかく諸葛亮の死後は、しばらくの間、天地も寥々(りょうりょう)の感があった。ことに蜀軍の上には、天愁(うれ)い地悲しみ、日の色も光がない。姜維や楊儀らは遺命に従い深く喪を秘し、やがて一営一営と静かに退軍の支度をしていた。

管理人「かぶらがわ」より

まさに蜀そのものだった、とも言える諸葛亮の死。司馬懿との戦いに明確な決着はつきませんでしたが、やはりこれは「司馬懿の勝ち」ということになるのでしょうね。

吉川版『三国志』は『演義』をベースにされているので仕方ないのですけど……。李福が着いた後、諸葛亮を生き返らせる必要があったのか? とは感じました。

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