吉川『三国志』の考察 第116話「十面埋伏(じゅうめんまいふく)」

官渡(かんと)での大敗後、捲土重来(けんどちょうらい)を期していた袁紹(えんしょう)は再び30万の軍勢を集め、倉亭(そうてい)の辺りまで進出し曹操(そうそう)と対峙(たいじ)する。

このときも序盤は袁紹軍が優勢に戦いを進めたが、ここで曹操は程昱(ていいく)の献策による十面埋伏の計を容れる。袁紹はまんまとはまり、またもぶざまな敗走を強いられて血を吐くに至り、ついに命を落とした。

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第116話の展開とポイント

(01)黎陽(れいよう)

袁紹はわずか800騎ほどの味方に守られ、辛くも黎陽まで逃げ延びる。だが、味方の連絡はズタズタに断ち切られてしまい、これから西すべきか東すべきか、その方途にさえ迷ってしまった。

黎山(れいざん)のふもとに寝た明け方ごろ、袁紹がふと目を覚ますと、老幼男女の悲泣哀号の声が天地に満ちて聞こえる。親を討たれた子や兄を失った弟、夫を亡くした妻などが、こもごもに肉親の名を呼び、捜す叫びだった。

ここへ逢紀(ほうき)と義渠(ぎきょ。蔣義渠〈しょうぎきょ〉)が諸所の味方を集めて到着。ようやく袁紹は蘇生の思いをし、冀州(きしゅう)へ帰っていったが、その道中でも民の哀号と恨みが聞こえてくる。

袁紹が田豊(でんほう)の諫言を聞き入れなかったことを悔やむと、田豊と仲の良くない逢紀がこう讒言(ざんげん)した。

「城中から迎えに来た者たちの話を聞くと、獄中の田豊は味方の大敗を聞き、手を打って笑い、それ見たことかと誇り散らしているそうです」

またも袁紹はこのような讒言に動かされ、内心で再び田豊を憎悪し、帰城しだい斬刑に処してしまおうと心に誓っていた。

(02)冀州(鄴城〈ぎょうじょう〉?)

城内の獄中にいた田豊は官渡の大敗を聞いて沈吟し、食事も取らなかった。田豊に心服している典獄(てんごく)の奉行(ぶぎょう)が密かに獄窓を訪れて慰めたものの、彼は自身の死を覚悟している様子だった。

その予想通り、袁紹が帰還すると即日一使が来て、「獄人に剣を賜う」と自刃を迫る。

田豊は自若として獄を出ると、蓆(むしろ)に座り一杯の酒を酌み、剣を受けて自らの首に加えた。その死を伝え聞き、人知れず涙を流した者も多かった。

袁紹は城内の殿閣に深くこもり、怏憂(おうゆう)と煩憂の日を送る。劉夫人(りゅうふじん)は自分が生んだ三男の袁尚(えんしょう)を跡継ぎに立てたいと考えていたので、しきりと説いていた。

袁紹も意中では袁尚を第一に考えていたが、青州(せいしゅう)にいる長男の袁譚(えんたん)や幽州(ゆうしゅう)にいる次男の袁熙(えんき)を差し置き、三男を立てたらどういうことになるか?

迷い苦しみ重臣たちの意向を探らせると、逢紀と審配(しんぱい)は袁尚を立てたがっていて、郭図(かくと)と辛評(しんぴょう)は袁譚を立てようとしているらしい。

そこである日、彼ら4人を翠眉廟(すいびびょう)の内に招き、宗家の世継ぎとして近く袁尚を立てるつもりだと打ち明ける。

すると真っ先に郭図が反対を唱え、いにしえから兄を置いて弟を立て、宗家の安泰を得た例しはないと諫めた。

このところ沮授(そじゅ)や田豊などという忠良の臣を失い、その言葉が思い出されていた袁紹。今度は反省し、考え直す様子を見せる。

それから数日の間に、幷州(へいしゅう)にいた甥の高幹(こうかん)が5万の軍勢をひきいて駆けつけた。長男の袁譚も青州から5万余騎を整えて駆けつけ、これに前後して次男の袁熙も6万の軍勢を引っ提げ城外に到着する。

城下が味方の旗で埋められたのを見て、袁紹は一時の気落ちから安心を取り戻した。

一方で曹操の動きを探らせてみると、急な深入りはせず、大勝を収めた後はひとまず黄河(こうが)の線に全軍を集め、おもむろに装備を改めながら兵馬に休養を取らせているらしかった。

(03)曹操の本営

ある日、曹操のもとに土民の老人ばかりが数十人も訪ねてくる。100歳を超える者がいたり、みな80歳を超えていると聞くと、曹操は「めでたい者たちだ」と酒を飲ませたり帛(きぬ)を与えたりした。

このとき百何歳という一翁が殷馗(いんき)の予言の話をする。50年前のこと、村にやってきた殷馗が星を観て、50年後に希世の英傑が宿する兆しがあると言っていたのだと。

ここで翁が、50年前は桓帝(かんてい。劉志〈りゅうし〉)の御宇(治世。桓帝の在位は146~167年)だったと言っていた。時期的な矛盾はない。

曹操は民の身や生活を保護する軍令を出し、土民たちを喜ばせる。このため曹操軍は兵糧や馬糧に困らなくなり、しばしば有利な敵の情報を聞くことができるようになった。

(04)倉亭

袁紹は捲土重来して4州(冀州・青州・幽州・幷州)から30万の兵を催し、再び倉亭の辺りまで進出する。曹操も全軍を押し進めると、戦書を交わして堂々と対峙した。

開戦初日、曹操と袁紹は陣頭に出て言葉を交わす。袁紹の声に応じて袁尚が打ってかかると、曹操のほうからは徐晃(じょこう)の部下の史渙(しかん)が躍り出る。

たちまち袁尚は鋭い槍先(やりさき)に追われて逃げ出すが、追ってきた史渙に向かい一矢を放つと、その矢は彼の左目に立つ。

『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第31回)では、左目に矢が当たった史渙は馬から転がり落ちて死んだとある。

わが子の武勇を目の当たりにし、袁紹も大いに意を強めた。装備においても兵力においても、依然として袁紹軍が圧倒的な優位を保持している。初日も2日目も、さらにそれ以後も連戦連勝の勢いだった。

ここで曹操が程昱に諮ったところ、十面埋伏の計を献策される。そこでにわかに退却を開始し、黄河を後ろに布陣を改めた。そして部隊を10に分けると、おのおの緊密な連絡を取り、迫り来る敵の大軍を待った。

袁紹はしきりに物見を放ちながら、30万の大軍を徐々に進める。曹操が背水の陣を布(し)いたと聞くと、うかつには近寄らない。

だが一夜、曹操配下の許褚(きょちょ)が奇襲を仕掛けると、袁紹は初めて行動を起こし、この部隊を捕捉しようと包囲にかかる。許褚はかねて計のあることなので、戦っては逃げ、戦っては逃げ、ついに黄河のほとりまで敵を誘うことに成功した。

(05)黄河のほとり

突如として方20里にわたる野や丘や水辺から、曹操が配置した10部隊の兵士たちが鯨波(ときのこえ)を上げて起こる。

袁紹父子は、本営と敵との間には分厚い味方があり、敵とも距離があると信じていたが、その五寨(ごさい)の備えはすでに間隙だらけになっていた。

瞬く間に十方から敵の喚声が近づくと、袁紹は3人の息子とともに夢中で逃げ出す。後ろに続く旗本の将士も、途中で徐晃や于禁(うきん)の兵に挟まれ散々な討ち死にを遂げた。

このときの曹操軍の十方の備えは以下の通り。右翼の第1隊は夏侯惇(かこうじゅん)、第2隊は張遼(ちょうりょう)、第3隊は李典(りてん)、第4隊は楽進(がくしん)、第5隊は夏侯淵(かこうえん)。左翼の第1隊は曹洪(そうこう)、第2隊は張郃(ちょうこう)、第3隊は徐晃、第4隊は于禁、第5隊は高覧(こうらん)。

(06)倉亭

袁紹らは馬を乗り捨て、また拾い乗ること四度。辛くも倉亭まで逃げ走り、味方の残存部隊と合流した。しかしホッとする間もなく、ここへも曹洪と夏侯惇の部隊が電雷のごとく突撃してくる。

袁熙は深手を負い、高幹も重傷を負う。夜もすがら逃げに逃げて100余里を駆け続け、翌日に友軍を数えてみると、何と1万にも足らなかった。

(07)敗走中の袁紹

敗走行を続けるうち老齢な袁紹の心身の疲労が極限に達し、馬のたてがみにうつ伏したまま血を吐く。

袁尚や旗本の諸将が懸命に手当てをすると、袁紹は蒼白(そうはく)な面を上げ、強いて眸(ひとみ)を見張った。

そこへ急に前隊が雪崩を打ち戻ってくる。強力な敵の部隊が早くも先へ迂回(うかい)して道を遮断し、こちらへ向かってくるという。

十分に意識が戻らない袁紹を再び馬の背に乗せ、袁譚が抱きかかえ、数十里を横道へ逃げに逃げる。やがて袁紹が苦しいと言いだすと、森の木陰に戦袍(ひたたれ)を敷き、仰向けに寝かせた。

袁紹は息子たちに、本国に帰って兵を調え、再び曹操と雌雄を決するよう言い残すと、黒血を吐き四肢を突っ張る。最後の躍動だった。兄弟は号泣しながら父の遺骸を馬の背に奉じ、なお本国へ急いだ。

井波『三国志演義(2)』(第32回)では、袁紹は冀州(鄴城?)へ帰り着いた後で亡くなっている。

(08)冀州(鄴城?)

こうして城へ戻ると、袁紹が陣中で病んで帰ったと触れ、三男の袁尚が仮に執政となり、審配らの重臣が彼を助けた。次男の袁熙は幽州へ、長男の袁譚は青州へ、それぞれ帰り、(袁紹の)甥の高幹もひとまず幷州へ引き揚げる。

(09)冀州

大勝を得た曹操は思いのまま冀州へ進出したが、諸将から稲の熟す時期であることなどを諫められると一転し、兵馬を都(許都〈きょと〉)へ返す。

その道中で相次いで早馬が着き、汝南(じょなん)にいる劉備(りゅうび)が劉辟(りゅうへき)や龔都(きょうと。共都)らと語らい、数万の勢を集めて都の虚をうかがっていると伝えた。

管理人「かぶらがわ」より

官渡の敗戦から再度の決戦を挑んだ袁紹でしたが、倉亭でも大敗。ついに生涯を終えることになりました。

名門袁氏の総帥として、最も天下に近かったはずの袁紹。桁外れの才能を備えた曹操の台頭に、天下取りの夢も砕かれてしまいましたね。

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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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