吉川『三国志』の考察 第115話「溯巻く黄河(さかまくこうが)」

袁紹(えんしょう)を見限り、投降してきた許攸(きょゆう)を受け入れる曹操(そうそう)。さっそく彼の進言に従い、袁紹軍の兵糧が貯蔵されている烏巣(うそう)を自ら急襲する。

烏巣の守備を任されていた淳于瓊(じゅんうけい)は、まったく油断していたため惨敗。兵糧が苦しくなったことから戦況も一変し、袁紹は本営を捨てて逃げ出す羽目になった。

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第115話の展開とポイント

(01)官渡(かんと) 曹操の本営

曹操は許攸と会い、その降を容れる。

ここで許攸が曹操軍の兵士に、「わしは曹丞相(そうじょうしょう)の旧友だ。南陽(なんよう)の許攸といえば、きっと覚えておられる……」と言っていた。やはり許攸は南陽の出身。前の第114話(09)で言っていた「許攸が曹操と同郷の生まれ」ではなく、ここで言うように「許攸は曹操の旧友」とだけしておくほうがよかったと思う。

許攸は、不意に許都(きょと)を襲うよう袁紹に勧めたものの、用いてもらえなかったと話す。もしその策が容れられていたら、自陣は七花八烈になるところだったと驚く曹操。

そこで計を尋ねるが、逆に許攸は、今どれくらいの兵糧の用意があるかと反問する。曹操は、半年の支えはあるだろうと即答。

『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第30回)では、曹操は「半年は大丈夫だ」と答える前に、「一年は支えられるだろう」と答えていた。

これを聞いた許攸は面を苦りきらせ、ジッと曹操の目をなじり、それは噓だと指摘。

すると曹操は今のは戯れだと言い、正直なところを言えば、3か月ほどの用意しかないと応ずる。

許攸は笑ってこう言うと、舌打ちして嗟嘆(さたん)した。

「世間の人が、曹操は奸雄(かんゆう)で、悪賢い鬼才であるなどとよくうわさにも言うが、当たらずといえども遠からずだ。あなたはあくまで人を信じられないお方とみえる」

曹操はややあわてぎみに、許攸の耳に口を寄せ小声でささやく。味方にも秘しているが、実はすでに枯渇し、今月を支えるだけしかないのだと。

すると許攸は憤然と曹操の口元から耳を離し、ズバリ刺すように言った。

「子ども騙(だま)しのような噓はもうおよしなさい。丞相の陣には、もはやひと粒の兵糧もないはずです」

さすがの曹操も顔色を失うと、許攸は先に手に入れた書簡を示し、自分の手で使いを生け捕ったことなどをつぶさに話す。

許攸が曹操の使いを生け捕ったことについては、前の第114話(09)を参照。

曹操はすっかり兜(かぶと)を脱ぎ、辞を低くして妙計を尋ねた。

許攸は初めて真実を表し、ここから40里にある烏巣の要害に袁紹軍の兵糧が蓄えてあるが、守将の淳于瓊は酒好きで部下にも統一がなく、不意に突けば必ず崩れると話す。

さらに曹操が、どうやって烏巣へ近づけばいいかと聞くと、許攸は、屈強な味方を北国勢に仕立て、柵門を通るたび袁紹直属の蔣奇(しょうき)の手勢だと言い、兵糧の守備に増派され烏巣へ行くのだと答えれば、夜陰の中でも疑わずに通すに違いないと教える。

ただちに曹操は準備に取りかかる。まず袁紹軍の偽旗をたくさん作らせ、将士の軍装から馬飾りや幟(のぼり)までことごとく河北の風俗に倣って彩らせ、約5千の模造軍を編制した。

許攸は態よく陣中でもてなしておき、曹洪(そうこう)を留守中の大将と定め、賈詡(かく)と荀攸(じゅんゆう)を助けに添え、夏侯惇(かこうじゅん)・夏侯淵(かこうえん)・曹仁(そうじん)・李典(りてん)なども本営の守りに残す。

留守の顔ぶれの中では曹洪より曹仁が格上だと思う。ここで曹操が、なぜ大将を曹洪にしたのかよくわからなかった。なお井波『三国志演義(2)』(第30回)では、荀攸・賈詡・曹洪に命じて許攸とともに本陣を守らせ、夏侯惇と夏侯淵に一手の軍勢をひきいて左翼に潜ませ、曹仁と李典にも一手の軍勢をひきいて右翼に潜ませたとある。

そして曹操自身は5千の偽装兵を従え、張遼(ちょうりょう)と許褚(きょちょ)を先手とする。

人は枚(ばい。夜に敵を攻める際、声を出さないよう兵士の口にくわえさせた細長い木)を含み、馬は口を勒(ろく)し、その日の夕暮れごろから粛々と官渡を離れ、敵地深くへ入っていった。建安(けんあん)5(200)年の10月中旬のことだった。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(人が枚を含み、馬は口を勒すのは)銜枚(かんばい)。隠密の行軍に際して、人や馬の声を漏らさぬためにする」という。

(02)官渡 袁紹の本営

沮授(そじゅ)は袁紹に諫言して怒りを買い、軍の監獄に投ぜられていた。

その夜、沮授は獄中に独座して星を見ているうちに、兵変の凶兆を感じ取る。そこで典獄(てんごく)を通じ、袁紹へ火急の取り次ぎを嘆願した。

袁紹が面前に引かせると、沮授は、今宵から明け方までの間に必ず敵の奇襲があると言い、烏巣の名を挙げて注意を促す。

しかし袁紹は一喝して退ける。さらにこの嘆願を取り次いだ典獄を、獄中の者と親しみを交わしたという罪で、その晩に斬首してしまった。

(03)烏巣へ向かう曹操

こうしているうち曹操ひきいる模擬袁紹軍は、到るところの敵の警備陣を「蔣奇の手勢が烏巣の守備に増派されたものだ」と称し、難なく通り抜けていた。

(04)烏巣

烏巣の守備隊長たる淳于瓊は、その晩も土地の娘などをさらってきて部下と酒を飲み、深更(深夜)まで戯れていた。

ところが陣屋の諸所から異様な音がするのであわてて飛び出してみると、四面は火の海と化していた。狼狽(ろうばい)を極め急に防戦したが、何もかも間に合わない。袁紹軍の半数は降兵となり、一部は逃亡し、踏みとどまった者はみな火炎の下に死骸となった。

曹操の部下が熊手で淳于瓊を捕らえる。副将の眭元(けいげん)は行方知れずになり、趙叡(ちょうえい)は逃げ損ねて討たれた。

井波『三国志演義(2)』(第30回)では、眭元を眭元進(けいげんしん)としていた。

曹操は、まだ夜も明けきらないうちに凱歌(がいか)を上げながら引き返す。淳于瓊の鼻を削いだうえ耳を切り、馬上にくくりつけた。

井波『三国志演義(2)』(第30回)では、曹操は見せしめのため淳于瓊の耳・鼻・指を切り落とさせ、馬にくくりつけて袁紹の本陣に送り帰したとある。

(05)官渡 袁紹の本営

袁紹は不寝番に起こされ、初めて烏巣方面の赤い空を見る。そこへ急報が届くが、驚愕(きょうがく)してとっさに採るべき処置も知らない。

張郃(ちょうこう)は烏巣の急を救わねばと焦り立つが、高覧(こうらん)は反対し、むしろ曹操の官渡の本営を突くべきだと主張。火の手を見ながら、なお帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)で議論していた。

袁紹は張郃と高覧に5千騎を授けて官渡の敵陣を突かせ、烏巣へは蔣奇に1万の兵を授けて向かわせる。

井波『三国志演義(2)』(第30回)では、曹操の官渡の本営を突くよう主張したのは郭図(かくと)。

(06)烏巣へ向かう(本物の)蔣奇

蔣奇は1万の歩騎をひきいて真っ暗な山間の道を急ぐ。すると彼方(かなた)から50騎、100騎と散りぢりに駆けてきた将士が、みな蔣奇の隊に混じり込む。

これらは烏巣から引き返してきた曹操軍の将士だったが、淳于瓊の部下を装ったので怪しまれることもなかった。この中には張遼や許褚のような物騒な猛将も混じっていた。

ほどなく突然の混乱が起こる。敵か味方かわからない間に、蔣奇は何者かに槍(やり)で突き殺されていた。

井波『三国志演義(2)』(第30回)では、蔣奇が張遼にバッサリ斬られ、馬から転げ落ちたとあった。

蔣奇の兵1万の大半は殲滅(せんめつ)された。曹操は会心の声を上げて笑い、別に袁紹の本営へ人を遣り、蔣奇以下の軍勢が烏巣の敵を蹴散らしたと伝えさせる。

(07)官渡 袁紹の本営

袁紹は報告を受けてすっかり安心したが、その安夢は朝とともに霧のごとく覚め、再び惨憺(さんたん)たる現実を迎えることになった。

官渡の曹操の本営を攻めた張郃と高覧も手痛い敗北を喫した。ふたりは手ぐすね引いていた曹仁や夏侯惇の正面に寄せていき、当然のように敗れる。

さらに官渡から壊乱してくる途中、運悪く曹操の帰るのにぶつかって徹底的に叩かれた。5千の手勢のうち生還した者は1千に足らなかった。

袁紹が呆然(ぼうぜん)自失しているところへ、耳と鼻を削がれた淳于瓊が送られてくる。袁紹は怠慢をなじり、怒りに任せて即座に首を刎(は)ねた。

淳于瓊が斬られたのを見て、幕将はみな不安に駆られる。中でも郭図は早くも保身の知恵を絞っていた。昨夜(ゆうべ)、官渡の本営を突けば必ず勝つと、大いに勧めたのは自分だったからである。

この第115話(05)で曹操の官渡の本営を突くべきと主張したのは高覧。それを郭図としているのは『三国志演義』(第30回)の筋立て。

郭図は、張郃と高覧が大敗して帰ってきたら、自分も罪に問われると考えた。そこであわてて袁紹に、張郃と高覧にはもとから曹操に降ろうという二心が見えていたと讒言(ざんげん)する。

こうしておいたうえ密かに張郃と高覧のところへ人を遣り、袁紹が成敗の剣を抜いて待っていると告げさせた。

そこへ本物の伝令が来て、ふたりに早々の帰還を促す。高覧は突然、剣を払って馬上の伝令を斬り殺した。そして張郃を説くと、その日のうちに曹操の軍門に下った。

(08)官渡 曹操の本営

曹操はふたりの降伏を容れ、張郃を偏将軍(へんしょうぐん)・都亭侯(とていこう)とし、高覧を偏将軍・東萊侯(とうらいこう)とした。

その後も曹操は昼夜、手を緩めずに袁紹軍を攻め続けたが、相手はおびただしい大軍であり、一朝一夕に崩壊するようには見えない。

そのとき荀彧(じゅんいく)が献策し、敵の勢力を三分させ、個々に殲滅していくのはどうかと勧める。

それを誘導するため、味方の勢を少しずつ黎陽(れいよう)・鄴都(ぎょうと。鄴城)・酸棗(さんそう)の三方面へ分けて偽り、袁紹の本営へ各所から一挙に働く折をうかがうのだと。

曹操は、今度の戦いで荀彧が口を出したのは初めてだったので、この献策を重視して耳を傾けた。

ここでいきなり荀彧が許都から官渡へ来たように見えたが――。少し前のところでは「烏巣焼き打ち以後、兵糧難の打開もついて……」とあったので、兵糧とともに荀彧も官渡へ来たということらしい。

なお井波『三国志演義(2)』(第30回)では、この献策をしたのは荀攸。ただ袁紹側に流す偽情報として、一手の軍勢は酸棗を攻め落として鄴郡(鄴城)を攻撃し、もう一手の軍勢は黎陽を攻略して袁紹軍の帰路を断つと言い触らすとあった。吉川『三国志』とはいくらか異なっている。

(09)官渡 袁紹の本営

袁紹は、曹操軍が鄴都・黎陽・酸棗の三方面へ動いていると聞き、また何か奇手を打つものと考える。そこで辛明(しんめい)に5万騎を付けて黎陽へ向かわせ、三男の袁尚(えんしょう)にも5万騎を授けて鄴都へ急派し、さらに酸棗へも大兵を分けた。

井波『三国志演義(2)』(第30回)では、鄴郡の救援に向かったのは長男の袁譚(えんたん)。

このことを探り知った曹操は、三方に散らしていた各部隊と連絡を取り、日時を示し合わせて袁紹の本営へ急迫する。

袁紹は鎧(よろい)を着ける暇(いとま)もなく、単衣(たんい)帛髪(きんはつ)のまま馬に飛び乗って逃げた。後には嫡子の袁譚と800ほどの旗本の将士がついていっただけだった。

井波『三国志演義(2)』(第30回)では、袁紹に付き従って逃げたのは幼い下の息子の袁尚。

張遼・許褚・徐晃(じょこう)・于禁(うきん)らが争って追いかけたが、黄河(こうが)の支流で見失う。そのうち集結の角笛が聞こえ、一同はむなしく引き揚げた。

(10)官渡 曹操の本営

この日の戦果は予想外に大きく、敵の遺棄した死体は8万と数えられた。

袁紹の本営付近からは食料や重要な図書、金銀絹帛(けんぱく)の類いなどが続々と見つかり、そのほかの分捕りの武器や馬匹(ばひつ)なども莫大(ばくだい)な量に上った。

またそれらの戦利品の中には、袁紹の座側にあったらしい金革の大きな文箱などもあった。

曹操が文箱を開いてみると、幾束にもなった書簡が出てくる。思いがけない朝廷の官人の名や、彼のそばにいて忠勤顔をしている大将の名も見え、日ごろ袁紹に内通していた者の手紙はすべて見られてしまった。

荀攸が書簡に名のある者を断罪するよう言うと、曹操はニヤニヤ笑い、皆の目の前で文箱ごと書簡を焼き捨てさせる。

井波『三国志演義(2)』(第30回)では、このとき断罪を求めたのは(曹操の)左右の者。まぁ、これ(曹操の左右の者)に荀攸も含まれると見るべきか……。

その後、袁紹の陣中に投獄されていた沮授が引かれてくると、曹操は自ら縄を解いたが、彼は声を上げて情けを拒む。それでも曹操は、あくまで沮授の人物を惜しんで陣中に置き、厚くもてなした。

ところが沮授は隙を見て馬を盗み、それに乗って逃げ出そうとした。彼が鞍(くら)につかまった刹那、一本の矢が飛んできて、その背から胸までを射抜いた。

曹操は自分のしたことを悲しみ、手ずから遺骸を祭る。さらに黄河のほとりに墳(つか)を築き、その碑には「忠烈沮君之墓」と刻ませた。

管理人「かぶらがわ」より

烏巣の急襲をきっかけに敗北を重ね、壊走した袁紹。その袁紹と内通していた者たちの罪を問わず、証拠の書簡をすべて焼き捨てる曹操。

太平の世ならともかく、このような乱世では総帥の力量差がはっきりと出てしまうものなのですね……。

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