官渡(かんと)において70万もの袁紹軍(えんしょうぐん)と対峙(たいじ)することになった曹操(そうそう)。
序戦で大勝した袁紹は、官渡の北岸に人工の山を築かせ、築山の上に組ませたいくつもの高櫓(たかやぐら)から矢石を撃ち込む。曹操は劉曄(りゅうよう)の献策を容れ、発石車(はっせきしゃ)を造らせて対抗した。
第114話の展開とポイント
(01)呉城(ごじょう)
孫権(そんけん)は諸葛瑾(しょかつきん)の献策を容れ、河北(かほく)の袁紹とは絶縁することを決める。
★ここで、諸葛瑾は長く河北にいたので袁紹の帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)の内輪もめをよく知っていたとあった。諸葛瑾は若くして洛陽(らくよう)の太学(たいがく)で学んだというが、長く河北にいたとするのはどうなのだろうか?
しばらくは曹操に従うと見せ、時節が来たら討つ。それが孫権の方針の根底だった。
この決定を受け、河北から使者に来て長逗留していた陳震(ちんしん)は、何ら得るところなく追い返されてしまう。
(02)許都(きょと)
一方、曹操のほうでも孫策(そんさく)の死を好機とし、ただちに大軍を下江させて呉を討とうかと考えた。
だが、このとき都に来ていた侍御史(じぎょし)の張紘(ちょうこう)が諫めると、その卑劣を深く恥じたとみえ、以後はそのことを口にせず、呉に使者を遣わして恩命を伝えさせる。
これにより孫権は討虜将軍(とうりょしょうぐん)・会稽太守(かいけいたいしゅ)に任ぜられ、張紘も新たに会稽都尉(かいけいとい)に任ぜられて呉へ帰った。
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(討虜将軍は)雑号将軍(ざつごうしょうぐん)のひとつ。後漢初(ごかんしょ)の名将王霸(おうは)が就いた故事がある」という。
★『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第29回)では、呉に戻った張紘が顧雍(こよう)を推薦し、孫権は彼を丞(じょう。会稽丞)に任じて太守の職務を代行させたとある。だが、吉川『三国志』ではこのことに触れていない。
(03)冀州(きしゅう。鄴城〈ぎょうじょう〉?)
曹操と孫権の動きを見た袁紹は、まず曹操を打倒せよと命じ、冀州・青州(せいしゅう)・幷州(へいしゅう)・幽州(ゆうしゅう)などの河北の大軍50万が官渡の戦場に殺到した。
★井波『三国志演義(2)』(第29回)では、このとき袁紹は70万余りの人馬を動かしたとある。
袁紹自身も出陣しようとしていたところへ重臣の田豊(でんほう)が現れ、今は官渡の兵を退かせ、防備をなさることが最善策だと説く。
★ここで袁紹の居城として冀北城(きほくじょう)という名が出てきた。これまでは鄴城を冀州城と呼んでいるものと考えていたが、冀北城は別にあるのだろうか? 冀州城も冀北城も鄴城のことだと思われるのだが……。
★井波『三国志演義(2)』(第30回)では、田豊が獄中から上書して袁紹を諫めたとある。なお田豊が投獄されたことは、吉川『三国志』でも先の第101話(01)に見えていた。ただ、ここは『三国志演義』の記述のほうがわかりやすい。まぁ、いったん田豊が獄から出ることを許されたものの、ここで再び投獄されたという設定もアリか。
傍らにいた逢紀(ほうき)は日ごろから田豊と犬猿の間柄だったので、このときとばかりことさら大仰にとがめ立てる。
袁紹も怒り、田豊を血祭りにせんと猛ったものの、諸人が哀号して助命を乞うたので、首枷(くびかせ)をかけて獄中に放り込んでおけ、と言い払い出陣した。
(04)陽武(ようぶ)
ところが陽武まで進むと、今度は沮授(そじゅ)が来て諫める。曹操は速戦即決を狙っているのに、その図に乗り、急激に大軍で当たるべきではないというのだ。
これを聞いた袁紹は沮授の首にも首枷をかけ、獄へ放ってしまった。
(05)官渡
官渡の山野、四方90里にわたり、河北の軍勢70余万が陣を布(し)き曹操と対峙する。
曹操と袁紹は陣頭に出て言葉を交わす。宣言のうえでは分が悪い曹操は、ほどなく張遼(ちょうりょう)に出撃を促した。
★ここで、袁紹の馬は「春蘭(しゅんらん)」と呼ぶ牝馬(ひんば)の名駿(めいしゅん)だとあった。
★またここで、曹操が先に天子(てんし。献帝〈けんてい〉)に奏して、袁紹を冀北大将軍(きほくだいしょうぐん)に封じたと言っていた。これは先の第70話(02)のことだと思われる。そこで出てきた大将軍・太尉(たいい)というのもピンとこなかったが、冀北大将軍もよくわからなかった。
張遼が打って出て迫ろうとすると、袁紹の後ろからも勇将の張郃(ちょうこう)が躍り出す。ふたりは戟(げき)を交えて50余合激闘したが、勝負はつかない。
続いて曹操のそばから許褚(きょちょ)が突進していくと、袁紹のほうからも高覧(こうらん)が向かっていった。
このとき将台から大勢を眺めていた袁紹配下の審配(しんぱい)は、曹操軍が約3千ずつふた手に分かれ、味方の側面を挟撃しようとしているのを見る。
審配が合図を送ると、かねて隠しておいた弩弓隊(どきゅうたい)や鉄砲隊の埋伏の計が、果然として図に当たってきた。
★弩弓隊はともかく鉄砲隊というのは引っかかる。なお井波『三国志演義(2)』(第30回)では、審配が潜ませていたのは1万の弩の射手と5千の弓手。
側面攻撃に出ていた曹操配下の夏侯惇(かこうじゅん)と曹洪(そうこう)は、急に軍勢を転回する暇(いとま)もなく散々に討たれ、壊乱また壊乱の惨を呈する。この日の戦は袁紹軍の大勝だった。
それに引き換え曹操軍は、官渡の流れを渡って悲壮なる退陣をするうち、早くも日は暮れた。曹操は、後ろにそびえる大山(たいざん)のふもとを巡る官渡の流れに逆茂木を備え、険に拠って固く守りを改める。
両軍はこの流れを差し挟んで対陣したが、袁紹も力攻めは避け、ここ数日は一矢も放たなかった。
ところが一夜のうちに、官渡の北岸に山ができていた。袁紹が20万の兵に工具を担わせ、人工の山を築かせたのである。そして10日も経つと、この山は完全な丘になった。
さらに袁紹は築山の上にいくつもの高櫓を組ませると、一斉に矢石を撃ち始める。これには曹操も閉口し、前線すべてを山麓の陰へ退かせるしかなかった。
これを見た袁紹は渡河の用意を命じ、夜な夜な河中の逆茂木を切り除き、やがて味方の援護射撃の下に敵前上陸へかかる機をうかがっていた。曹操が内心に恐れを覚えてきたころ、幕僚の劉曄が発石車を作るよう献策する。
★ここで劉曄は、(発石車は)自分の領土に住む名もない老鍛冶屋が発明したもので、硝薬を用い、大石を筒に込めて飛爆させるものだと言っていた。
★新潮文庫の註解によると「(発石車は)抛車(ほうしゃ)、投石機の類か。近代の火薬による大砲ではない」という。なお、ここでは「巻頭附録『官渡の戦い…両軍の戦法』の図参照」ともあった。
曹操は無名の老鍛冶屋を奉行(ぶぎょう)に取り立て、鍛冶、木工、石屋、硝石作りなど数千人の工人を督励し、図面通りの発石車を数百輛(りょう)作らせた。
発石車から飛ばされた大石は川を越え、袁紹軍の人工の丘に無数の土煙を上げ、高櫓を木っ端微塵(こっぱみじん)に爆破する。
曹操軍の中に物識(し)りらしい者がいて、この発石車を見ると、西方の海洋から渡ってきた夷蛮(いばん)の霹靂車(へきれきしゃ)という火器だと言った。それで、いつかそのまま霹靂車と呼び習わされた。
ここで袁紹は審配の献策を容れ、新たに掘子軍(くっしぐん)を編制する。これは、土龍(モグラ)のように地の底を掘り抜いて地下道を進み、敵前へ攻め出るものだった。2万余の掘子軍は瞬く間に、ひと筋の地下道を彼方(かなた)まで掘り延ばしていく。
曹操は早くから、坑(あな)の口から外へ出された土の山を見て察しており、劉曄に対策を尋ねる。
劉曄は笑い、味方の陣地の前に横へ長い壕(ほり)を切っておけばいいと進言。その壕に官渡の水を引き込んでおけば、さらに妙だとも。
この進言により、曹操は苦もなく防御線を完成させた。物見によって知った袁紹は、あわてて掘子軍の作業を中止させる。
このようにして対戦はいたずらに延び、(建安〈けんあん〉5〈200〉年の)8月、そして9月も過ぎた。
曹操は兵糧不足に苦しみ、幾度か官渡を捨て都(許都)へ引き揚げようかと考えたほど。とにかく荀彧(じゅんいく)の意見を聴こうと、都へ使いを遣ったりしていた。
すると徐晃(じょこう)の部下の史渙(しかん)が、その日ひとりの敵兵を捕虜にしてくる。
徐晃が捕虜を手なずけ問いただしてみると、袁紹の陣でも兵糧に困りかけていることがわかった。近ごろ韓猛(かんもう)が奉行となり、各地から穀物や糧米などをおびただしく集めてきたのだと。
そこで自分は兵糧を前線へ運び入れる道案内を務めていたところ、運悪く足の裏に刃物を踏み、落伍(らくご)してしまったのだと。
徐晃から話を聞いた曹操は手を打って喜び、誰か兵糧を奪ってくる者はないかと言う。
結局、徐晃がこの役を買って出て、史渙とともにあたることになった。曹操は敵地深くに入り込むことを案じ、徐晃の先手2千人の後に、さらに張遼と許褚に5千余騎を授けて発たせる。
★井波『三国志演義(2)』(第30回)では、この役目に徐晃を推したのは荀攸(じゅんゆう)。
(06)兵糧運搬中の韓猛
その夜、韓猛は数千輛の穀車や牛馬に鞭(むち)を加え、山間の道を延々と進んできた。突然、四山の谷間から鬨(とき)の声が起こると、急に防戦の備えをする。しかし足場が悪く道は暗く、牛馬も暴れだしたので、敵を見ぬうちから大混乱を起こした。
徐晃の奇襲隊は用意していた硫黄や焰硝(えんしょう。火薬)を投げ、敵の糧車に八方から火を付ける。
(07)官渡 袁紹の本営
真夜中に西北の空が真っ赤に焼けだしたので、袁紹は陣外に立ち様子をうかがっていた。そこへ韓猛の部下が続々と逃げ帰り、兵糧が焼かれたことを伝える。袁紹は張郃と高覧に精兵を授け、敵の退路を断って殲滅(せんめつ)するよう命じた。
(08)帰還途中の徐晃
張郃と高覧は手分けして大道をひた押しに駆け、見事に敵路を先に取る。やがてそこへ、使命を果たした徐晃が差しかかった。
待ち構えていたふたりは小勢の敵を無造作に包囲し、徐晃を捜し当てるやいな、挟み撃ちにおめきかかる。ところが背後の部下は、たちまち蜘蛛(クモ)の子のように逃げ散ってしまう。
怪しんでふたりも逃げ出すと、敵には堂々たる後詰めが控えていた。これを見たふたりは戦わずに逃げ去る。徐晃は後詰めの張遼や許褚と合流し、官渡の下流を越えて陣地へ帰った。
(09)官渡 袁紹の本営
袁紹は期待していた莫大(ばくだい)な兵糧を焼き払われると、韓猛の首を陣門にさらせと赫怒(かくど。怒るさま)して命ずる。だが、哀れんだ諸将がしきりに命乞いしたため、将官の任を解き一兵卒に下した。
審配は難に遭ってから、烏巣(うそう)の守りが重要だと大いに注意を促す。そこで袁紹は審配に烏巣の兵糧の点検を命じ、同時に淳于瓊(じゅんうけい)を大将に、穀倉守備軍として2万余騎を急派した。
★井波『三国志演義(2)』(第30回)では、ここで袁紹が審配を鄴都(ぎょうと。鄴城)へ戻し、食糧や秣(まぐさ)の監督を命じたとある。
淳于瓊は生来の大酒家で、躁狂(そうきょう)広言の癖がある人物だった。そのため彼についていった呂威(りょい)・韓莒子(かんきょし)・眭元(けいげん)らは、また失態をやりだすのではないかと内心で不安を抱いていた。
★井波『三国志演義(2)』(第30回)では呂威を呂威璜(りょいこう)、眭元を眭元進(けいげんしん)とし、韓莒子は同じ表記になっていた。
烏巣そのものは天険の要害だったので、到着した淳于瓊は毎日、部下を集めて飲んでばかりいた。
袁紹軍に許攸(きょゆう)という一将校がいる。もう相当な年配ながら、掘子軍の一組頭(いちくみがしら)だったり、平常は中隊長格ぐらいで戦功も上がらず、不遇なほうだった。
★ここで許攸が不遇だったもうひとつの原因として、彼が曹操と同郷の生まれだったことを挙げていた。だが、史実の許攸は南陽郡(なんようぐん)の生まれなので、沛国(はいこく)譙県(しょうけん)の生まれである曹操と同郷とは言えない。なお井波『三国志演義(2)』(第30回)では、「(許攸は)若いころ、曹操の友人だった」とだけあり、同郷の生まれとまでは書かれていない。
その許攸が偶然ひとつの功を拾う。小隊とともに偵察に出たときうさんくさい男を捕らえたのだが、拷問してみると曹操から荀彧に宛てた書簡が見つかった。
これは、先に都の荀彧に宛てて書簡を送った曹操が、以後いまだ吉報もなく、兵糧も送られてこないので全軍に餓死が迫っているとし、急を報じて再度、荀彧に迅速な手配を求めたものだった。
許攸は袁紹に、密使が持っていた証拠の一書と口書きを示し、5千騎をひきいることを願い出る。間道の難所を越え、敵の中核たる許都の府へ一気に攻め入るという。
許攸は熱心に説いたが、袁紹は書簡が偽状かもしれないなどと言い、容易に聞き届けようとしない。
そのうち審配の使いが来たので袁紹が席を立つと、侍臣がそっと耳打ちする。許攸の嘆願は僭越(せんえつ)の沙汰だとか、冀州にいたころから彼は行いがよくなかった、などという讒言(ざんげん)だった。
戻ってきた袁紹は、まだ残っていた許攸を叱って退がらせる。
外へ出た許攸は憤懣(ふんまん)のあまり、剣を抜き自分の首を刎(は)ねようとした。しかし、急に思い直して塹壕(ざんごう)に隠れる。
そしてその夜、わずか5、6人の手兵とともに暗に紛れて官渡の浅瀬を渡り、一散に敵の陣地へ駆け込んだ。
管理人「かぶらがわ」より
官渡での戦いが本格化する曹操と袁紹。双方とも兵糧に苦しみますが、より厳しいのは曹操のほう。袁紹は許攸の進言を退けたことで、せっかくのチャンスを逃しましたね。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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