吉川『三国志』の考察 第063話 「胡弓夫人(こきゅうふじん)」

197年、曹操(そうそう)は徐州(じょしゅう)の呂布(りょふ)の官位を進め懐柔を図ったうえで、自ら大軍をひきいて宛城(えんじょう)の張繡(ちょうしゅう)討伐に向かう。

張繡は謀士の賈詡(かく)の進言に従い戦うことなく降伏。こうして難なく宛城へ入った曹操だったが、ある夜、美しい胡弓の音を耳にする。

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第063話の展開とポイント

(01)小沛(しょうはい)

小沛へ押し寄せた呂布(りょふ)に対し、劉備(りゅうび)は城を捨て許都(きょと)の曹操(そうそう)を頼る。

関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)は2千余騎をもって殿軍(しんがり)となり、呂布配下の部将の魏続(ぎぞく)や宋憲(そうけん)らに手痛い打撃を与えたうえ、先に落ちていった劉備の後を追い慕う。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第16回)では、張飛が前軍、関羽が後軍ということになっている。

(02)許都

建安(けんあん)元(196)年の冬、劉備らが許都へたどり着くと、曹操は賓客の礼を執り、語るに上座を譲って慰める。また酒宴も設け、関羽や張飛をもねぎらった。

荀彧(じゅんいく)は、劉備を今のうちに除いておくようささやく。

しかし郭嘉(かくか)は反対。今では相当に名が知られている劉備を殺せば、天下の賢才は殿(曹操)への尊敬を失い、これまで唱えてきた大義も仁政も噓(うそ)としか聞かなくなると述べる。曹操も同じ考えで、むしろ逆境にある劉備に恩を恵むべきだとする。

朝廷に参内した日、曹操は劉備を予州牧(よしゅうのぼく。豫州牧)とするよう奏請し、ただちに叙任を伝えた。さらに彼が赴任する際には兵3千と糧米1万斛(ごく)を贈り、その行を盛んにする。

劉備は重ねがさねの好意に深く礼を述べたが、別れ際に曹操は、いずれ呂布討伐を考えていることをほのめかす。

ところがこのことが実現しないうちに、張済(ちょうさい)の甥の張繡(ちょうしゅう)が諸州の敗残兵を一手に寄せ、許都へ攻め上ろうとしていることが伝わる。

ここで「曹操は朝野の上にあって、宰相の重きをなしている」との記述があったが、どの時点で彼が宰相(丞相〈じょうしょう〉)に就任したのかの説明はここまでなかった。なお、史実の曹操が丞相となったのは建安13(208)年のこと。なので、このあたりから彼を丞相と呼んでいるのは違和感がある。

張繡は謀士の賈詡(かく)を参謀とし、荊州太守(けいしゅうたいしゅ)の劉表(りゅうひょう)と結んで宛城(えんじょう)を根拠地としていた。

曹操は張繡討伐を決意するが、一方で徐州の呂布の動きを警戒する。

すると荀彧が、呂布は欲望に目のくらむ漢(おとこ)だから、この際、官位を進めてやり、恩賞を贈って劉備との和睦を勧めるよう進言。

さっそく奉車都尉(ほうしゃとい)の王則(おうそく)が遣わされると、呂布は思わぬ恩賞の沙汰に感激し、一も二もなく従ってしまう。

曹操は大軍を整えると、夏侯惇(かこうじゅん)を先鋒に宛城へ向かった。

井波『三国志演義(1)』(第16回)では王則は奉軍都尉(ほうぐんとい)ということになっている。

(03)宛城

建安2(197)年5月、曹操軍15万が淯水(いくすい)一帯に布陣。

張繡は賈詡の進言を容れ、戦わずに降伏を申し入れる。曹操は降伏を認めて宛城に入り、城中の一郭で起居するようになった。

ある夜のこと、曹操は張繡らとともに酒宴に更け寝殿に帰ってきたが、ふと胡弓(こきゅう)の音を耳にする。甥の曹安民(そうあんみん)に尋ねると、胡弓を弾いている女は絶世の美女なのだという。

曹操が連れてくるよう言うと、曹安民は、彼女は張済の未亡人で、彼の死後、甥の張繡がこの城に引き取り世話をしていると聞いたとも話す。

それでも曹操はあきらめず、曹安民に50人の兵を付け、曹操の命としてあくまで連れてくるよう言う。

しばらくして連れてこられた未亡人は、名を問われ「鄒氏(すうし)」と答える。曹操は鄒氏にすっかり魅了されてしまう。

管理人「かぶらがわ」より

小沛から許都へ逃れた劉備でしたが、曹操の計らいですぐに予州牧として赴任することになりました。

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吉川『三国志』 (03) 草莽の巻
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