吉川『三国志』の考察 第243話「武祖(ぶそ)」

曹操(そうそう)の跡を継ぎ、魏王(ぎおう)となった曹丕(そうひ)は、長安(ちょうあん)から10万の軍勢をひきいて駆けつけた弟の曹彰(そうしょう)と話をつける。

次いで「建安(けんあん)」を「延康(えんこう)」と改元したうえ、鄴都(ぎょうと)で大喪を執り行うと、亡き父に武祖(ぶそ)の諡(おくりな)を奉った。

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第243話の展開とポイント

(01)洛陽(らくよう)

曹操の死は天下の春を一時寂闇(せきあん)にした。魏一国だけでなく、蜀(しょく)や呉(ご)の人々の胸へも言わず語らず、人間は、ついに誰であろうと免れがたい天命の下にあることを、いまさらのように深く内省させた。

ここしばらくというもの、洛陽の市人は寄ると触ると彼の死を悼み、その逸話を語り、その人物を評し、何かにつけてその生前を偲(しの)び合っていた。

ここで曹操の出自や風采、趣向について、正史『三国志』や裴松之注(はいしょうしちゅう)を踏まえて振り返る記述があった。

その中で触れられていた、陳琳(ちんりん)が袁紹(えんしょう)のために檄文(げきぶん)を作ったことは、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・袁紹伝)の裴松之注に引く孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』などに見える。

ただ、吉川『三国志』では先の第101話(01)において、袁紹が河北(かほく)4州へわたり檄文を発したことには触れていたが、檄文を作ったのが陳琳だったことは書かれていなかった。

(02)鄴都 魏王宮

かくて魏は、次の若い曹丕の世代に入る。彼は父の臨終のとき鄴都の城にいた。やがて洛陽を出た喪の大列をここに迎える日、曹丕は哀号を上げて城外の門に拝した。

ここで侍側の司馬孚(しばふ)が言う。

「太子(曹丕)には、いたずらに悲しみ沈んでおられるときではありません。また左右の重臣たちも、なぜ嗣君(世継ぎ)を励まし、一日も早く治国万代の政策を掲げ、民心を鎮めたまわぬか」

すると重臣たちは、いまだに太子が魏王の位を継ぐことを許すとの勅命が下っていないと答える。

これを聞いた兵部尚書(ひょうぶしょうしょ)の陳矯(ちんきょう)は、やにわに声を荒らげ、たとえ勅命が遅くとも、ただちに太子を上せて王位に即け奉るべきだと述べた。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「『三国志演義』では陳矯がこの職(兵部尚書)に就いたことになっているが、後漢(ごかん)・三国時代にはこの官名はなかった」という。

また「(正史『三国志』の)『魏書・陳矯伝』によれば、彼は尚書や吏部尚書(りぶしょうしょ)を歴任した。なお漢魏時代の尚書台では、軍事をつかさどる官署は五兵(ごへい)と呼ばれており、兵部尚書が置かれたのは隋(ずい)・唐(とう)時代のことである」ともいう。

そこへ亡き曹操の股肱(ここう)のひとりである華歆(かきん)が、許昌(きょしょう)から馬を飛ばしてきた。華歆はまず先君の霊壇にぬかずき、太子の曹丕に百拝を終えてから、満堂の諸臣を見回して罵る。

「魏王の薨去(こうきょ)が伝わり、全土の民は天日を失ったごとくに震動哀哭(あいこく)し、職も手につかない心地である」

「御身(あなた)ら多年高禄を食(は)みながら、今日このとき無為茫然(ぼうぜん)。いったい何をまごまごしておられるのか?」

「なぜ一日も早く太子をお立てし、新しき政綱を掲げ、天下に魏の不壊(ふえ。堅固)を示さないのか?」

諸人が口をそろえ、すでにそのことは議しているが、まだ漢朝から何らのご沙汰も下らないので、差し控えているところであると陳弁した。

華歆はあざ笑い、自分が漢朝へ迫って天子(てんし。献帝〈けんてい〉)に奏し、ここに勅命を頂いてきたと言い、懐中から詔書を取り出して読み上げる。

このときの詔書は、建安25(220)年春2月付のものだった。史実で曹丕が魏王を継いだ時期とも合っている。

こうして名分ができ、形式も整うと、ここに曹丕は魏王の位に即いて百官の拝賀を受け、同時に天下へその由を宣示した。

このとき曹丕の弟で鄢陵侯(えんりょうこう)の曹彰が、自ら10万の軍勢をひきいて長安から到着したとの知らせが届く。

曹丕は会わないうちからひどく恐れた。曹彰は曹操の次男だが、兄弟中では武剛第一の男である。察するに、王位を争わんためではないかと邪推し、恐々と対策を考え始めた。

曹家には4人の実子があった。生前の曹操が最もかわいがっていたのは、三男の曹植(そうしょく)だった。

しかし華奢(きゃしゃ)なうえ、あまりに文化人的な繊細さを持ちすぎてもいた。そのため愛しはしても、「わが跡を継ぐ質ではない」と、つとに観ていた。

四男の曹熊(そうゆう)は多病だし、次男の曹彰は勇猛ながら経世の才に乏しい。ということで、後事を託すに足るとしていたのは、やはり長男の曹丕でしかなかった。

曹丕は親の目から見ても、篤厚にして恭謙。多少は俗に言う総領の甚六的なところもあるものの、輔弼(ほひつ)の任に良臣さえ得れば、曹家の将来は隆々たるものがあろうと、重臣たちにもその旨は遺言されてあった。

総領の甚六は、落ち着きがあって小さく動き回らない、世間知らずの長男のこと。

諫議大夫(かんぎたいふ)の賈逵(かき)が、曹丕を慰めて言った。

「ご案じなさいますな。あの方のご気質は手前がよく吞み込んでおります。まずは私が参り、ご本心をただしてみましょう」

(03)鄴都の城外

こうして賈逵が出迎えると、曹彰はすぐに尋ねた。

「先君の印璽(いんじ。しるし)や綬(じゅ。組み紐〈ひも〉)はどこへやったかね?」

賈逵は色を正して答える。

「家に長子あり、国に儲君(ちょくん。世継ぎ)あり。亡君の印綬(官印と組み紐)は、おのずからあるべきところにありましょう。あえてあなたがご詮議(せんぎ)になる理由は、いったいどのようなお心からなのですか?」

曹彰は黙ってしまったが、さらに釘(くぎ)を刺されると、ここへ来たのは父の喪を発するためだと言った。

(04)鄴都 魏王宮

曹彰は賈逵に促され、10万の兵を城外に留め置くと、ただひとり宮門に入り、兄の曹丕と対面。手を取り合い、父の死を悼み悲しんだ。

曹丕が魏王を継いだ日から(漢は)改元し、建安25年は、同年の春から延康元年と呼ぶことになる。

華歆は功により相国(しょうこく)に、賈詡(かく)は太尉(たいい)に、王朗(おうろう)は御史大夫(ぎょしたいふ)に、それぞれ任ぜられた。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(ここでいう相国・太尉・御史大夫は、)いずれも魏国における三公。それぞれ朝廷の司徒(しと)・太尉・司空(しくう)に相当」という。

そのほか大小の官僚や武人すべてに褒賞の沙汰があり、曹操の大葬が終わる日、高陵(こうりょう)の墳墓に特使が立ち、「以後、諡して武祖と号し奉る」という報告祭を営んだ。

『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第79回)では、曹丕が于禁(うきん)に曹操の墓陵の管理を命じたとある。于禁は陵屋(みたまや)に描かれた(自分が関羽〈かんう〉にひれ伏し、命乞いをしている図柄の)壁画を見ると恥じ入って懊悩(おうのう)し、かっと腹を立てたため病気になり、まもなく死去したのだと。

なお井波『三国志演義(5)』(第75回)では、孫権(そんけん)は荊州(けいしゅう)の獄中にあった于禁を釈放し、曹操のもとに送り返したとあった。だが、吉川『三国志』では先の第233話(01)で、獄中にあった魏の虜将の于禁を引き出し、「呉に仕えよ」と首枷(くびかせ)を解いてやったとあった。そのためこの第243話(04)でも、于禁が恥じ入った墓陵の件を採り上げていない。

葬祭の万端を終えたある日、相国の華歆が曹丕の前へ出て言う。

「御舎弟の曹彰の君には、先に連れてこられた10万の軍馬をことごとく魏城に付与され、すでに長安へお立ち帰りになりましたから、まずお疑いはありません」

「ですが、三男の曹植の君と四男の曹熊の君には、父君の喪にも会したまわず、いまだに即位のご祝辞もございません。ゆえに令旨をお下しになり、その罪をお責めになる必要がありましょう。不問にしておくべきではありません」

曹丕は進言に従って令旨を発し、ふたりの弟へ使いを遣り、その罪を鳴らした。ところが曹熊のもとへ遣った使者は、帰ってくると涙を流して告げた。

「常々ご病身でもあったせいでございましょうが、問罪の状をお渡しいたしますと、その夜、自らお頸(くび)をくくって、哀れ自害してお果てあそばしました」

曹丕はひどく後悔したが事及ばず、曹熊を手厚く葬らせた。

そのうち曹植のもとへ遣った使者も帰ってきたが、この報告は曹熊の時とは反対に、いたく曹丕を憤らせた。

管理人「かぶらがわ」より

魏は新たな時代に入りましたが、さっそく兄弟間の騒動が――。

曹熊は早くに亡くなったということで、その没年もはっきりしません。ただ、魏の黄初(こうしょ)2(221)年に蕭懐公(しょうかいこう)の諡号(しごう)を贈られていますから、それ以前に亡くなったことは確かです。

なので、この第243話で描かれたような話は、個人的には「まぁ、アリかな……」というところ。それでも、曹熊は自害して果てたわけではないと思いますよ。

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