董卓(とうたく)は李儒(りじゅ)に命じ、廃位後に永安宮(えいあんきゅう)に幽閉していた弘農王(こうのうおう。弁皇子〈べんおうじ〉。辯皇子)とその母の何太后(かたいこう)を始末する。
そのうえ自ら天子(てんし)のごとく振る舞うようになり、誰も彼の暴挙を止めることができなかった。
第022話の展開とポイント
(01)洛陽(らくよう) 永安宮
董卓によって廃位された弘農王とその母の何太后は、永安宮の幽居に深く閉じ込められていた。
弘農王が幽楼で自身の境遇を悲しむ詩を作り歌っていたところ、衛兵が歌詞を書き取って密告した。董卓はこの詩を李儒に示すと、何太后と廃帝(弘農王)の殺害を命ずる。
李儒は10人ばかりの屈強な兵士を引き連れて永安宮へ行き、廃帝と何太后を殺害。ふたりの首を持ち帰って董卓に見せた。
それからの董卓は日夜大酒をあおり、禁中(宮中)の宮内官でも後宮の女官でも気に入らない者はたちどころに殺し、夜は天子の床(しょう。寝台)に横たわって春眠をむざぼった。
(02)陽城県(ようじょうけん)
ある日、董卓は4頭立ての驢車(ろしゃ)に大勢の美人を乗せ、陽城を出る。
★陽城県は豫州(よしゅう)の潁川郡(えいせんぐん)に属す。
酔っていた董卓は御者の真似をしながら、城外の梅林を逍遥(しょうよう)した。
ちょうど村社の祭日だったため、何も知らない農民の男女が晴れ着で帰ってくる。これを見た董卓は不届きな怠け者だと怒りだし、逃げ遅れた者を捕らえて牛裂きにした。
夕暮れになって陽城へ帰りかけたところ、通りの角から驢車に飛びついた男があった。男は短剣で董卓の腹へ突っかけていったが、短剣を叩き落とされたうえ抱きすくめられる。
「越騎校尉(えっきこうい)の伍俘(ごふ。伍孚)」と名乗った男は武士たちから無数の刃と槍(やり)を受け、塩辛のようになってしまった。
★『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第4回)では、伍孚が董卓に斬りつけた場所は洛陽の宮門。
(03)洛陽
司徒(しと)の王允(おういん)は渤海太守(ぼっかいたいしゅ。勃海太守)の袁紹(えんしょう)から奮起を促す書状を受け取ったものの、日夜心を苦しませるだけで董卓を討つための計は何も持たなかった。
ある日のこと、董卓の息のかかった高官が誰も見えず、朝廷の旧臣ばかりが一室に居合わせることがあった。王允は密かに喜び、今日は自分の誕生日だと言い、皆を竹裏館(ちくりかん)の別業(べっそう)へ誘う。
(04)竹裏館
王允が宴席の支度を整えると、宵から忍びやかに前の朝廷の公卿(こうけい)らが集まった。皆で漢室(かんしつ)の行く末を悲観し涙や愚痴をこぼしていると、末席で手を叩いて笑う者がある。校尉(こうい)の曹操(そうそう)だった。
★井波『三国志演義(1)』(第4回)では驍騎校尉(ぎょうきこうい)の曹操とある。
王允にとがめられた曹操が皮肉を言うと、公卿たちはむっと色をなし、座は白け渡った。しかし、王允から董卓を殺す計でもあるのかと聞かれると、曹操は、自分に任せてくれれば董卓の首を斬り、洛陽の門に掛けてご覧に入れんと明言する。
王允は曹操の求めに応じ、家宝の七宝剣(しっぽうけん)を預けた。
管理人「かぶらがわ」より
董卓に消された廃帝と何太后。先朝のお偉方が泣き比べをしていた宴席で、手を叩いて笑う曹操。彼が表舞台に出てくるのは必然だったのですね。
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