吉川『三国志』の考察 第234話「荊州変貌(けいしゅうへんぼう)」

荊州(けいしゅう)に入城した孫権(そんけん)は、虞翻(ぐほん)を遣って公安(こうあん)の傅士仁(ふしじん)を説かせ、戦わずして降伏させる。次いで傅士仁を用いて南郡(なんぐん)の糜芳(びほう。麋芳)を説かせ、こちらも戦うことなく降す。

孫権の使者から戦況を伝えられた曹操(そうそう)は、陽陵坡(ようりょうは)に留めていた徐晃(じょこう)に進撃を命じ、自身も大軍をひきいて南下する。

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第234話の展開とポイント

(01)荊州(江陵〈こうりょう〉?)

呉(ご)は大きな宿望のひとつを遂げた。荊州を版図に加えることは、実に劉表(りゅうひょう)が滅んで以来の積年の望みだった。

やがて陸口(りくこう)から陸遜(りくそん)もやってきて祝賀を述べる。その折、呂蒙(りょもう)が列座の中で尋ねた。

「すでに荊州の中府は占領したが、これで荊州の版図がわが手に帰したとは言えない。公安には傅士仁があり、南郡には糜芳(麋芳)の一軍がいる。貴兄(同輩や同輩以上の相手を呼ぶ尊敬語)にそれを討つ良計はないか?」

これは毎度の疑問だが、公安に傅士仁がいるとするなら、糜芳がいるという南郡こそ荊州(江陵?)になるのでは? なお傅士仁は、正史『三国志』では士仁とある。傅は衍字(えんじ。間違って入った不用の文字)だという。

すると陸遜ではなく、虞翻が立って豪語する。

「その儀なれば、弓を張り、矢をつがえるにも及びません」

孫権が遠慮なく計を述べるよう促すと、虞翻は一礼して続けた。

「されば、それがしと傅士仁とは幼少からの友です。必ずそれがしの説く利害には彼も耳を貸しましょう。ゆえに、公安の無血占領は信じて疑いません」

虞翻は会稽郡(かいけいぐん)余姚県(よようけん)の出身。だが、傅士仁(士仁)は広陽郡(こうようぐん)の出身。揚州(ようしゅう。楊州)にある会稽郡と幽州(ゆうしゅう)にある広陽郡は相当離れている。このふたりが幼少からの友だったというのはどうなのだろうか?

(02)公安

虞翻は孫権から500騎を授かり、自信に満ちて公安へ向かう。一方の傅士仁は壕(ほり)を深くして城門を閉じ、物見を放って鋭敏になっていた。

ここへ友人の虞翻が500騎ほどを連れてやってくると聞いたが、なお疑心にとらわれ、城中に鳴りを静めていた。

虞翻は城門の下まで近寄り、書簡を矢に挟んで城中へ射込む。傅士仁は繰り返し矢文を見て考えた。

「たとえここを守り通しても、いずれ関羽(かんう)が帰ってくれば戦前の罪を問われ、罪と功とが棒引きになるぐらいが上の部だ。もし呉軍に囲まれて、関羽の来援が間に合わなかったら、ここで完全に自滅だ。虞翻の説くところは、心から俺を思ってくれる言葉に違いない」と。

傅士仁は城門を開くよう命じ、虞翻を迎え入れる。虞翻は傅士仁を伴い、さっそく荊州へ帰った。

(03)荊州(江陵?)

もちろん孫権は上機嫌で受け入れる。虞翻を重く賞したうえ、傅士仁にもこう告げて寛度を示した。

「汝(なんじ)の心底を見たからには決して旧臣と分け隔てはせぬ。立ち帰ったらよく部下を諭し、呉に以後の忠誠を誓わせろ。そして、これまで通り公安の守将たることを許す」

恩を謝して傅士仁が退がろうとすると、呂蒙が孫権の袖を引いて何かささやく。孫権は急に侍臣を走らせ、傅士仁を呼び戻して命じた。南郡の糜芳を説くようにと。

傅士仁は命を受けて退出したが、浮かない顔で虞翻に相談する。糜芳は余人と違い、劉備(りゅうび)が微賤(びせん)をもって旗揚げしたころからの宿将だから、俺の舌三寸でおめおめ降るわけはないと。

虞翻は励まし、紙片に何か書き示す。傅士仁は首を寄せて黙読したが、悟ったような顔でひどく感心したかと思うと、たちまち勇気づいた様子を見せる。

(04)南郡(ここも江陵を指すはずだが……)

傅士仁が10騎ばかりを従えて着くと、糜芳は城を出て友を迎えた。まずは関羽の消息を問うて荊州の落城を嘆ずると、悲涙を押し拭う。

傅士仁は、すでに呉に降ったことを打ち明け、彼にも降伏を勧める。

糜芳が聞こうとせず怒っていると、戦場の関羽から早馬が着いたとの知らせ。使者は、火急のことゆえ、口上をもって述べますと断り、次のような要求を伝えた。

「樊川(はんせん)地方の大洪水のため、戦況は有利に進んだが、兵糧の欠乏は言語に絶し、全軍は疲弊の極みに達している」

「ついては、南郡と公安から至急糧米10万石(せき)を調達し、わが陣まで届けてもらいたい。もし怠りがあれば、成都(せいと)に上申して厳罰に処す」

糜芳と傅士仁は顔を見合わせる。まったく無理な注文である。糧米10万石も困難だし、荊州の陥ちたいま、輸送する方法もない。

ここで突然、血しぶきの下に使者が倒れる。いきなり斬ったのは傅士仁だった。傅士仁は真っ青になって言う。

「足下(きみ)には関羽の心が読めないのか? 関羽は、その不可能を知りながら無理難題を言いつけ、後に荊州の敗因を我らの怠慢にありとする腹黒い考えでおるのだ」

傅士仁は剣を収め、糜芳の手を引っ張った。もちろんこれは虞翻が授けた策で、関羽の要求というのも噓だし、その使いも偽使者であることは言うまでもない。

糜芳は迷っていたが、このときはや呉の大軍が城を囲んでいた。傅士仁は茫然(ぼうぜん)自失している糜芳の腕を組み、無理やり城を出る。そして虞翻を介して呂蒙に会い、また呂蒙は糜芳を伴い、孫権にまみえた。

(05)鄴都(ぎょうと)

呉の特使が鄴都へ来て伝える。

『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第76回)では、曹操(そうそう)は鄴都ではなく許都(きょと)にいた。

「呉すでに荊州を破る。なぜ魏(ぎ)はこの機会をつかみ、関羽を討たないのか?」

「今はよし」と曹操も動きだす。大軍をひきいて洛陽(らくよう)の南へ出た。そこからさらに南の陽陵坡には、すでに先発させていた徐晃軍5万が敵に対峙(たいじ)している。

井波『三国志演義(5)』(第75回)では陽陵陂とある。

井波『三国志演義(5)』の訳者注では、「『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)によると、ここで曹操は洛陽の南の摩陂(まは)に陣を布(し)いたとある」という。

(06)偃城(えんじょう)

徐晃は、軍使から曹操の進撃命令を受け取ると、徐商(じょしょう)と呂建(りょけん)に自分の大将旗を掲げさせ、正攻法を採らせる。

そして、徐晃自身は500余騎の奇襲部隊を編制し、沔水(べんすい)の流れに沿い、敵の中核とみられる偃城の後方へ迂回(うかい)した。

このとき関平(かんぺい)が偃城に屯(たむろ)しており、廖化(りょうか)は四冢(しちょう)に陣していた。その間、連々と12か所の寨塁(とりで)を広野の起伏に連ね、一面で樊城を囲み、一面で魏の増援軍に備えていた。

関平は陽陵坡の魏軍の動きを聞くと、精鋭3千をひきいて城を出、地の利を取って陣列を展開。だが、魏の大将旗は偽りである。駆け出してきたのは徐商や呂建だった。

けれど関平の勇は、徐商を追い、呂建を斬り立て、かえってふたりをあわてさせる。さらに逃げるふたりを追い、10余里も追撃した。

するとまったく予測していなかった方面から、一彪(いっぴょう)の軍馬が側面へ掛かってくる。ひとりの大将が罵ったが、それが真の徐晃だった。

「知らずや関平! すでに荊州は呉の孫権に取られておるぞ。汝、家なき敗将の小倅(こせがれ)。何を目当てに、なお戦場をまごまごしておるかっ!」

管理人「かぶらがわ」より

荊州の本城に続き、公安と南郡が無血開城。こう書くと何だか3つの城が陥落したように見えますけど、実際は荊州の本城というのが南郡(つまり江陵)だと思います。

傅士仁と糜芳の情けなさが目立っていましたが、これも関羽の判断が直接の原因だと言えるでしょう。魏のほうでは、曹操が自ら大軍をひきいて南下を開始。先行していた徐晃も動きだし、蜀軍(しょくぐん)はより不利な形勢へ追い込まれてしまいました。

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