吉川『三国志』の考察 第197話「短髪壮士(たんぱつそうし)」

雒城(らくじょう)郊外で奪取した敵陣に黄忠(こうちゅう)と魏延(ぎえん)を置き、ひとまず涪城(ふじょう)へ戻る劉備(りゅうび)。涪城では龐統(ほうとう)が留守を預かっていた。

漢中(かんちゅう)の張魯軍(ちょうろぐん)が葭萌関(かぼうかん)に攻め寄せたと聞くと、劉備は龐統の進言を容れ、孟達(もうたつ)と霍峻(かくしゅん)を遣って守りを固める。ふたりの出発を見送った龐統が仮の住まいに帰ってくると、見知らぬ男が玄関で寝ていた。

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第197話の展開とポイント

(01)涪城

奪取した2か所の陣地に、黄忠と魏延の二軍を入れて涪水(ふすい)の線を守らせ、ひとまず劉備は涪城へ帰った。このころ遠くへ行っていた細作(さいさく。間者)が戻り、蜀外(しょくがい)の異変を伝える。

呉(ご)の孫権(そんけん)が密使を送り、漢中の張魯に兵や軍需の援助を約束したという。これに力を得た張魯は、かねての野望を達せんと、漢中軍をもって葭萌関へ攻めかかっているとも。

劉備が龐統の進言に従い孟達を呼ぶと、孟達は、もともと荊州(けいしゅう)で劉表(りゅうひょう)の中郎将(ちゅうろうしょう)を務めていた霍峻を推薦する。劉備はこれを許し、孟達と霍峻は葭萌関の守備に急いだ。

(02)涪城 龐統邸

孟達と霍峻の出立を励まし、龐統が仮の屋敷に帰ってきたところ、門衛が変なお客が見えたと伝えに来る。身長は7尺(せき)もありそうだが、髪を短く切って襟の辺りに垂らしているのだと。また容貌が雄偉で、ひと口に言えば壮士だとも。

『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第62回)では、身の丈8尺とあった。

龐統が自分で見に行くと、玄関を上がった床に寝ている男がある。何者かと尋ねると、男はまず礼を尽くせと言う。その後に天下の大事を語るとも。

龐統は一室に導き、上座を与えて酒食を勧める。すると男は遠慮することなく、実によく食べ、また痛飲した。しかし、天下の大事はなかなか言いださない。そのうち飲むだけ飲むと、ごろりと横になって寝てしまった。

そこへ法正(ほうせい)が急ぎ足にやってくる。彼なら蜀の事情にも人物にも通じているに違いないからと、客が飲んでいる間に使いを遣って招いたのだ。

法正は男の寝顔をのぞき込むと、手を打って言った。

「永年(えいねん)だ。これは永年という愉快な男ですよ」

その声に目を覚ました永年。「何だ法正か」と、お互いにまた手を叩いて笑う。ふたりは親友なのだという。

この彭羕(ほうよう)はあざなを永年といい、蜀中の名士なのだと。ところが主君の劉璋(りゅうしょう)に直言を呈し、あまり強く諫めたため、官職を剝がれたうえ髪を短く切られ、奴(やっこ。召し使いの男)の仲間へ貶(おと)されてしまったのだとも。

龐統は彭羕に改めて礼を施し、法正も誘って涪城へ上がった。

井波『三国志演義(4)』(第62回)では、あざなが永言(えいげん)とあったが、ここにあるように永年が正しい。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(髪を短く切られるというのは)コン刑(こんけい。髟+兀)のこと。肉体に加える刑罰のひとつ」という。

(03)涪城

劉備に会うと、たちまち彭羕は胸を開いて言う。

「小生がこの目で見るところでは、涪水の線にあるお味方は、実に危ない死地にさらされている。あれはご承知のうえでのことか?」

黄忠と魏延の二陣である。理由を尋ねると、さらに彭羕は続けた。

「あの辺り一帯の平地は広袤(こうぼう)として、ひと目にちょっと気づかれぬが、子細に地勢を察するなら、湖の底にいるも同じだということがわかるはずだ」

「涪江の流れは数十里の長堤に防がれておるが、ひとたび堤を切らんか、水は低きに従い、あの辺り一円深さ一丈余の湖底と化し、ひとりも助かる者はあるまい」

広袤は広さの意。広は東西、袤は南北を指すという。ただ、ここにあるような「広袤として」という使い方が適切なのかよくわからなかった。

劉備は驚き、龐統もさすがに悟った。劉備は彭羕を敬って幕賓となし、すぐに早馬を遣り、黄忠と魏延の陣に「堤防に心せよ」と警戒を命じた。こういう注意があったため、黄忠と魏延は連絡を密にし、昼夜の巡見を怠らずにいた。

そのため雒城の鋤鍬(すきくわ)部隊は、毎夜のように堤防をうかがうものの、どうしても決壊に手を下すことができない。

(04)涪江の堤

こうしているうち一夜、雨風が激しく吹きすさんだ。「今宵こそは」と、5千の鋤鍬部隊が密かに堤へ近づく。

ところが思いも寄らず、後ろのほうから突如として伏兵が起こる。敵の数も動きもわからず、鋤鍬部隊は同士討ちを起こすやら、方角を間違えて後戻りしてくるやらという状態に陥った。

そうした大混乱の中で、この夜の大将だった冷苞(れいほう)も見失う。冷苞は逃げ走る途中を魏延に待たれ、再び生け捕られた。

冷苞が(以前にも)魏延に生け捕られたことについては、前の第196話(04)を参照。

蜀の呉蘭(ごらん)と雷同(らいどう。雷銅)は、冷苞を取り返すべく雒城を出て追いかけたが、道中に黄忠が待っていて、これまた散々に追い退けられてしまう。

そして翌日、冷苞は捕虜として涪城へ送られた。

(05)涪城

劉備は冷苞の不信を責めると、すぐに城外で首を刎(は)ねさせた。黄忠と魏延には賞状を送り、幕賓の彭羕にも結果を告げ、「実にあなたのひと言は、わが軍に幸いした」と厚く礼遇した。

この前後、荊州から馬良(ばりょう)が着く。荊州の留守を預かる諸葛亮(しょかつりょう)の命を受け、はるばる書簡を携えてきたのだった。

管理人「かぶらがわ」より

謎の男、彭羕のひと言に救われた劉備。呉懿(ごい)の策は空振りに終わりましたが、自分たちのほうから堤を切るという策は、どうなのでしょうね?

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