徐庶(じょしょ)が去った後、劉備(りゅうび)は関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)をはじめ、わずかな人数で隆中(りゅうちゅう)の諸葛亮(しょかつりょう)を訪ねる。
だが不在だったため、やむなく劉備は新野(しんや)へ引き返す。数日後、諸葛亮が帰っていると聞き、再び隆中を目指した。
第131話の展開とポイント
(01)新野
徐庶と別れた後、劉備は一時、何となく空虚(うつろ)だった。呆然(ぼうぜん)と幾日かを過ごすが、徐庶が別れ際に言い残した諸葛亮を訪ねてみようと、側臣を集め意見を聞いた。
そこへ司馬徽(しばき)が訪ねてくる。劉備は堂上に請ずるが、彼は徐庶が仕えていると聞き、気まぐれに立ち寄ったのだという。
徐庶が去った経緯を聞くと司馬徽はいぶかる。彼は徐庶の母を知っており、愚痴の手紙など寄こして子を呼ぶような人ではないという。
劉備は、徐庶が去る折に隆中の諸葛孔明(しょかつこうめい。孔明は諸葛亮のあざな)なる者を薦めていったと話し、どのような人物なのか尋ねる。
すると司馬徽は道友らの名を挙げ、諸葛亮が仲間から抜けると寂しいと言う。
★ここで司馬徽は博陵(はくりょう)の崔州平(さいしゅうへい)、潁州(えいしゅう)の石広元(せきこうげん)、汝南(じょなん)の孟公威(もうこうい)、徐庶の名を挙げ、そのほか十指に足らないと言っていた。
この中の石広元は、先の第129話(04)で諸葛亮の師匠として登場した石韜(せきとう)のこと。広元はあざなで潁川郡(えいせんぐん)の出身。さらに孟公威も、先の第129話(04)で石韜の弟子のひとりとして登場した孟建(もうけん)のこと。公威はあざなで、本文にもある通り汝南郡の出身。
また、諸葛亮の学問は高いも低いもなく、ただ大略を得ているのだとも告げる。なお劉備が素質について問うと、司馬徽はこう言い残し帰っていく。
周(しゅう)の世800年を興した太公望(たいこうぼう)や、漢(かん)の創業400年の基礎を建てた張子房(ちょうしぼう。張良〈ちょうりょう〉)に比べても決して劣るものではない。
ある日ようやく暇を得たので、劉備は関羽と張飛のほか、わずかな従者を連れ、行装も質素に隆中へ赴く。静かな冬日和だった。
(02)隆中
劉備は道中で、農夫から臥龍(がりょう。諸葛亮)の住まいを教えてもらう。
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「劉備の居城新野から孔明のいる隆中までは、およそ80キロメートルの道程である」という。
劉備は諸葛亮の草廬(そうろ)を訪ね、柴門(さいもん)のそばにいた童子に取り次ぎを頼むが、今朝早く出かけたまま帰っていないと言われる。
やむなく引き返してくると、岡のふもとから眉目清秀な高士が登ってきた。劉備は諸葛亮かと思い、馬を下りて5、6歩進む。だが高士は諸葛亮ではなく、友人の崔州平だった。
劉備は路傍の岩に腰を下ろして話をする。劉備に乞われ、治乱の道について説き聞かせる崔州平。彼が話し終えると、劉備は深く謝して別れた。
しかし帰り道で関羽から、「最前の隠士が言った治乱の説を、真理だと思われますか?」と尋ねられると、ニコとして「否」と答えた。
崔州平の言葉の中には、世を救い万民の苦悩に通ずるものはなかったが、劉備はそれを聞かせてくれる人に渇しているのだと言う。
(03)新野
かくてその日はむなしく暮れたが、新野に帰って数日後、また劉備は人を遣り、諸葛亮の在否をうかがわせていた。
やがて知らせが届く。ここ一両日(1、2日)、確かに家に帰っているようだと。すぐにお出ましあれば、今度こそ草廬に籠もっておりましょうとも。
「さらば今日にも」と、急に劉備は馬や供の支度を命ずる。張飛は馬のそばに来て、何度も出かけず、使いを遣り城へ呼ぶよう勧めた。
礼に欠けると言い、相手にしない劉備。前回と同じほどの供を連れて城門を出る。
新野の郊外にかかるころ、灰色の空から雪が降りだす。ちょうど12月の中旬(なかば)。朔風(さくふう。北風)は肌を刺し、たちまち道は覆われ、雪は激しくなるばかりだった。
管理人「かぶらがわ」より
初めて隆中を訪ねた劉備でしたが、あえなく空振りに終わりました。こういう空振りも丁寧に描かれていますね。
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