吉川『三国志』の考察 第221話「一股傷折(いっこしょうせつ)」

定軍山(ていぐんざん)に陣取る夏侯淵(かこうえん)と、山のふもとに布陣して対峙(たいじ)する黄忠(こうちゅう)。黄忠は法正(ほうせい)と協議のうえ、定軍山の西にある山を攻め取り、敵陣を一望できる位置を占めた。

危険を感じた夏侯淵は、山を奪い返すべく出撃するも、法正の計略にはまり、あえなく黄忠に討ち取られてしまう。その訃報に接した曹操(そうそう)は大いに泣き、管輅(かんろ)の卜(うらない)にあった詞(ことば)を思い出す。

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第221話の展開とポイント

(01)定軍山 夏侯淵の本営

夏侯淵は張郃(ちょうこう)の言葉を聞き入れず、彼に山の守りを頼むと、自身の先鋒となる将を募る。

夏侯尚(かこうしょう)が勇んで立つと、夏侯淵はこれを許し、黄忠と矛を交え、偽り負けて退却するよう命じた。黄忠を擒(とりこ)とする深い計があるという。夏侯尚は命令に従い、3千余騎をひきいて山を下りていく。

(02)定軍山のふもと 黄忠の本営

そのころ黄忠は兵を従え、法正とともに定軍山のふもとまで押し寄せ、数度となく攻め挑んでいた。しかし、魏軍(ぎぐん)は固く閉じて現れない。

攻め上がろうにも、山道はなかなか険阻だし、敵に思わぬ計があるかもしれないと警戒して、ふもとに陣を布(し)き、随所に斥候を出した。

まもなく斥候から、山上より魏兵きたるとの報告がある。黄忠自ら出陣しようとすると、陳式(ちんしき)がとどめて言った。

「老将軍自ら、なぜ敵に当たる必要がありましょう。私に1千騎を任せてくだされば、背後の細道より山上へ向かい、挟み撃ちにして討ち果たしましょう」

(03)定軍山

陳式は、黄忠の許しを得て山の後ろに回り、鬨(とき)を作って攻め上がる。これを夏侯尚が迎えたが、しばらくすると、計略通りにわざと負けたふりをして逃げ上った。

追いかけた陳式は、機をうかがっていた夏侯淵の猛攻を受けて生け捕られる。その部下たちも意気地なく魏軍に降った。

(04)定軍山のふもと 黄忠の本営

驚いた黄忠は法正と協議。

法正は、意気を阻喪した味方をいま一度励まし、急がずに次々と陣屋を造り、ゆるりと山上へ押していくよう勧める。これは反客為主(きゃくをはんしてあるじとなす。主客転倒の意)の兵法だと。

黄忠は進言に従い、さっそく諸軍に恩賞を与えて大いに励ます。そして自ら陣屋を造り、数日たむろしては、また進んで新たな陣屋を構築。次第に山麓へ近づいていった。

(05)定軍山 夏侯淵の本営

この様子を見た夏侯淵は出撃しようとするが、張郃は反客為主の計に違いないと言って制止。それでも夏侯淵は耳を貸さず、夏侯尚を呼び、敵に掛かれと命じた。

夏侯尚は数千の兵を引き連れ、夕闇を突いて黄忠の陣に攻め入る。しかし張郃の言った通り、まんまと敵の計に乗り、夏侯尚は黄忠と一戦を交えて生け捕られた。

逃げ帰った魏兵からこのことを聞くと、夏侯淵は顔色を失う。甥の夏侯尚を放っておくこともできず、夜も眠らずに考えた末、陳式との捕虜交換を思いつく。

そこで夏侯淵は、黄忠にこう申し送った。

「陳式いまだ生きてわが陣にあり。願わくは夏侯尚と換えんことを」

黄忠から返事が届く。

「我もまた望むところなり。すなわち明日、陣前において快く交換せん」

(06)定軍山近くの山あい

翌日、両軍とも山あいの広い場所に出て陣を張り、陣前で武装解除されたふたりを素早く交換する。

ところが、まさに夏侯尚が軍列に入ろうとするとき、どこからか一本の矢が飛んできて背に当たり、ばたりと地上に倒れた。これは黄忠の策で、矢も彼が射たものだった。

矢を受けた夏侯尚は亡くなったように見えたが、この後も登場している。なお『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第71回)では、夏侯尚は(背中に)矢を突き刺したまま(自陣へ)帰り着いたとあった。

夏侯淵は大いに怒り、黄忠を目がけて馬を飛ばし、討ちかかって10余合戦う。そのうち魏陣に退陣の鉦(かね)が鳴り響き、一斉に兵を収め始める。

(07)定軍山 夏侯淵の本営

かろうじて逃げ戻った夏侯淵は、なぜ退鉦(ひきがね)を鳴らしたのかと詰問。担当の者の話では、四方の山間からにわかに兵が起こり、蜀(しょく)の旗が無数に現れたのだという。おそらく伏兵だろうと思い、軍を収めたのだとも。

こう聞くと、夏侯淵は怒りのやり場もなくなってしまった。それからは固く守り、出ようともしない用心ぶりを示す。

(08)定軍山の西の山

黄忠は定軍山に迫り、法正と軍議を重ねていた。今日も黄忠が法正を伴って地形を調べていると、法正は定軍山の西にそびえる山を指し示し、あの山を攻め取れば敵陣は一望にあり、配備や陣容が手に取るようにわかると言う。

その夜の二更(午後10時前後)、黄忠はこの山を攻め取る。ここは魏の杜襲(としゅう)が数百の兵で守っていたが、蜀の大軍が攻め寄せると知り、戦を交えることもなく逃げてしまった。

黄忠の敵情偵察に基づき、法正が兵略を立てた。

「もし敵が攻め寄せてきたなら、味方の兵を制して動かず、彼が退くところを見定めて白旗を掲げ、それを合図とし、将軍も山を下って討ってかかられよ」

「敵の陣構えの崩れたところを攻めたまわば、これすなわち、逸を以て労を待つの計(鋭気を養ったうえで疲れた敵に当たるという計略)となりましょう。必ず大将を討ち取ることも可能です」

黄忠もうなずき、さっそくに明日を期して、敵軍の来襲を促すようにと、山中の随所に旗を立てさせ、兵を動かしたりして、しきりに誘導戦法を始めた。

井波『三国志演義(5)』(第71回)では法正は、夏侯淵の軍勢がやってきたら白旗を揚げて合図をするが、将軍(黄忠)は軍勢を抑えて動いてはならない。その後、敵がだらけて備えをしなくなったら紅旗を揚げるので、ただちに山を下りて敵を攻撃してほしいと伝えていた。

(09)定軍山 夏侯淵の本営

杜襲から報告を受けた夏侯淵は、対山に敵が陣を張った以上、即刻これを攻めねば味方の不利であると、出撃の用意を命ずる。

これを知った張郃は、敵があの山を攻略したのは、きっと法正の計でありましょう、と出撃を諫めた。

しかし夏侯淵は聞き入れず、半数の兵を本陣に残し、残りの半数をひきいて黄忠の陣する山へ向かう。

(10)定軍山の西の山

夏侯淵はふもとに押し寄せ、敵陣へ散々に罵声を浴びせたが、黄忠の軍勢は出撃してくる気配もない。

山上から密かに様子をうかがっていた法正は、魏軍の疲労が甚だしいのを見て、白旗の合図を送る。待機していた黄忠勢は、山上より一度に進撃を開始。

魏兵は乱れて討ちかかる者もなく、黄忠は大刀一閃(いっせん)、夏侯淵の手元に躍りかかると、首から肩にかけて真っぷたつに斬って落とす。

ますます魏軍は崩れ立ち、右往左往に逃げ延びていく。黄忠は勝ちに乗じ、攻撃の手を緩めずに定軍山へ攻め上った。

(11)定軍山

張郃は諫言が容れられなかったことを残念に思ったが、かくなるうえは悔いても及ばず、兵を整えて迎え撃つ。しかし黄忠が陳式を背後に回し、ふた手に分かれて攻めまくったため支えきれず、本陣に逃げ戻ろうとした。

すると忽然(こつぜん)として、山の傍らから趙雲(ちょううん)の軍勢が現れる。張郃が別の道から本陣へ戻ろうとすると、杜襲が敗軍をひきいて逃げてきた。本陣は劉封(りゅうほう)と孟達(もうたつ)に奪われたという。

張郃は杜襲とともに、命からがら漢水(かんすい)まで逃げ延びて陣を張った。

(12)鄴都(ぎょうと)

曹操は張郃の急報を受けて憮然(ぶぜん)とし、夏侯淵の死を大いに泣いた。そして、戦の初めに管輅が卜を立てた詞を考える。

「『三八縦横』と言ったのは、すなわち建安(けんあん)24(219)年にあたり、『黄猪(こうちょ)虎に遇(あ)う』と申したのは、歳(とし)すなわち己亥(つちのとい。同じく建安24〈219〉年)にあたる――」

「『定軍の南一股(いっこ)を傷折せん』と言うは、この曹操と夏侯淵とが兄弟のごとく結ばれていたことを指したに違いない」

井波『三国志演義(5)』(第69回)では、曹操から天下のことを占ってほしいと言われた管輅が卦(け)を立て、「三八縦横、黄猪虎に遇う。定軍の南、一股を傷折す」と言っていた。だが、吉川『三国志』では先の第214話(01)でこの件に触れておらず、ここで唐突に持ち出された印象を受けた。

曹操は深く感じ入り、管輅のもとへ人を遣っていま一度呼び寄せよと命じたが、すでに管輅はその地になく、行方も杳(よう)として知れないとの報告だった。

管理人「かぶらがわ」より

法正の知と黄忠の勇の前に、ついに討ち死にを遂げる夏侯淵。たびたび張郃も諫めていましたが、先の負けがあったのでほとんど聞いてもらえませんでした。やはり、参謀がいるといないとでは大違いですね。

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