吉川『三国志』の考察 第091話 「雷鼓(らいこ)」

曹操(そうそう)は、自分に仕える重臣たちをこき下ろした禰衡(ねいこう)への怒りを抑え、禁裏(宮中)で催される酒宴で鼓(つづみ)を打つ役を命ずる。

これは禰衡が不得手と思われる鼓を打たせ、その腕前をみなで笑ってやろうという意地悪な趣向だった。ところが当日、約束通りに禰衡が鼓を打ってみせると――。

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第091話の展開とポイント

(01)許都(きょと) 丞相府(じょうしょうふ)

禰衡(ねいこう)を荊州(けいしゅう)への使者として推薦してしまった孔融(こうゆう)はひとり恐れ悔い、当惑の色をありありと見せる。そのせいかこの日、彼がいつ退出したのか誰も気づかなかった。

禰衡が去った後、残った者たちの憤りの声や怒りのつぶやきはやかましいほどだった。中でも張遼(ちょうりょう)は憤りが治まらず、なぜ禰衡を斬り捨ててしまわれなかったのかと、激しく曹操をなじる。

曹操は、自分も腹に据えかねて身が震えるほどだったから、よほど斬り捨てようかと思ったがと答えつつ、禰衡の奇行が世間で虚名の評判を博していることを考えると、不得手な鼓(つづみ)を打たせ、殿上で笑ってやったほうがおもしろいだろうと言う。

(02)許都 禁裏

建安(けんあん)4(199)年8月朔日(さくじつ。〈陰暦で〉月の第一日)、禁裏の省台で朝賀の酒宴が開かれる。

ここで出てきた日付には矛盾がある。先の第87話(02)では(建安4〈199〉年の)8月から10月まで、曹操と袁紹(えんしょう)が黎陽(れいよう)で対陣したことを描いていた。なお『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第23回)では、宴会が催された日付に触れていない。

拝賀や礼杯の儀式が終わり、宴楽の興もようやくたけなわとなったころ、楽寮の伶人(れいじん。音楽をつかさどる官)や鼓手などが一列になって堂の中央に進み、舞楽を演ずる。かねて約束のあった禰衡もその中に交じっていた。

禰衡は鼓を打つ役にあたり「漁陽(ぎょよう)の三撾(さんた)」を奏していたが、その音節の妙といい、撥律(はつりつ)の変化といい、まったく名人の神響でも聴くようだったので、みな恍惚(こうこつ)と聴き惚(ほ)れていた。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると「(『漁陽の三撾』は)鼓曲の題名。禰衡の作と伝わる」という。

しかし、舞曲の終わりとともにわれに返った諸将は、彼が汚れた衣をまとい演奏した無礼を叱る。すると禰衡は一枚脱ぎ、二枚脱ぎ、ついには真っ裸になり、赤いふんどしひとつになってしまう。

満堂の人々は呆気(あっけ)に取られ、あれよあれよと興ざめ顔で見ていたが、禰衡は赤裸のまま再び鼓を取り三通(さんつう)まで打ち囃(はや)す。

『完訳 三国志』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、金田純一郎〈かねだ・じゅんいちろう〉訳 岩波文庫)の訳注によると「太鼓をひとしきり(しばらく続く様子に)打ち立てるのを一通という。その数は唐代(とうだい)の兵法書によると、333回を一通とする由である(『通典〈つてん〉』巻149に引く趙国公王琚〈おうきょ〉の『教射経』)。三通は、合計1千回に近い打ち方となる」という。

たまりかねた曹操が雷喝すると、禰衡は「天を欺き上を偽る無礼と、父母から受けたこの体をありのまま露呈してご覧に入れる無礼と、どちらが無礼か思い比べてみよ」と言い返す。

さらに、目・口・耳・情操・肉体の濁りを指摘したうえ 曹操を「希代の匹夫」呼ばわりする。曹操の面は蒼白(そうはく)になり、まったく殿上は禰衡ひとりのために気を呑まれた形だった。

やがて、満座の諸将が剣を叩(たた)いて立ち上がる気配がすると、曹操も立ち上がってみなを制する。そして改めて禰衡を舞台から呼び寄せ、荊州の劉表(りゅうひょう)への使いを命じた。禰衡は首を横に振ったが、否応なく出立を急かされる。

(03)許都 東華門(とうかもん)

馬に乗せられ出てきた禰衡は、まじめに列送の礼を執らず座り込んでいるみなを見て「あぁ悲しい」とつぶやくと、声を放って泣きだす。

これを荀彧(じゅんいく)がからかい、「晴れの門出に何をそんなに泣かれるのか?」と言う。

すると禰衡は「見回せば数千の輩(やから)が、みな腰を抜かして立つことを知らない。さながら死人の原だ」と答えたうえ、「死人の原や死人の山の中を行く。これが悲しくなくてどうしよう」とも言った。

さらに、荀彧らはみな漢朝(かんちょう)の臣ではなく曹操の臣だと言い、反逆者である曹操に与(くみ)するお前方の首こそ、明日をも知れないものだと言う。

ふたりのやり取りを聞いていた部将たちはいよいよ憤り、戟(げき)や剣をひしめかせる。しかし荀彧はジッとこらえ、みなに鎮まるよう言う。こうして禰衡は荊州へ向かい、日ならずして到着した。

(04)荊州(襄陽〈じょうよう〉?)

禰衡は荊州でも怪舌を振るい、大いに劉表の徳を称す一方、すぐに毒舌のほうで相殺してしまった。

劉表は旧知ながら、心中では彼を嫌いうるさく思っていたので、態よく江夏(こうか)を守る黄祖(こうそ)のところへ追い払う。

管理人「かぶらがわ」より

禰衡の独壇場(ひとり舞台。正しくは独擅場〈どくせんじょう〉なのだという)だった第91話。すごく老獪(ろうかい)なイメージの彼ですが、史実では熹平(きへい)2(173)年生まれ。建安4(199)年の時点では27歳ということで、まだまだ若い。

また史実では、禰衡が黄祖のところへ行ったのは建安3(198)年のことだったりもします。

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吉川『三国志』 (04) 臣道の巻
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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