吉川『三国志』の考察 第276話「王風万里(おうふうばんり)」

盤蛇谷(ばんだこく)へ誘い込み、兀突骨(ごつとつこつ)と配下の藤甲軍(とうこうぐん)を焼き尽くした諸葛亮(しょかつりょう)。

ななたび孟獲(もうかく)を捕らえ、ななたび放そうとするも、彼はいつものように立ち去らず、男泣きに許しを乞う。ついに諸葛亮の思いが通じたのだった。

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第276話の展開とポイント

(01)諸葛亮の本営

その夜、諸葛亮は諸将と会した末に、今回の盤蛇谷における計(はかりごと)などについて、兵法講義にも似た打ち明け話を聞かせる。諸将はみな、丞相(じょうしょう)の神知測るべからずと、三嘆して拝服した。

翌日、諸葛亮は営内の檻房(かんぼう)から、孟獲や祝融(しゅくゆう)、帯来(たいらい)や孟優(もうゆう)に至るまで数珠つなぎに引き出し、憫然(びんぜん)と言った。

「さてさて、性なき者にはついに天日の愛も通らぬものか。人とも思えぬ輩(やから)、見る目も恥ず。早く解いて山野へ帰せ」

そして滇々(てんてん)水の去るがごとく、愛憎を超えた面持ちで彼方(かなた)へ行きかける。

すると突然、異様な泣き声を発して孟獲が叫ぶ。いや、縄目のまま跳びつき、諸葛亮の裳(もすそ。腰から下に着ける衣)をくわえた。

諸葛亮が「何か?」と目の隅から見て言うと、孟獲は額を地に打ちつけんばかり頓首(とんしゅ。頭を地面に打ちつけて礼をすること)し、吐くような声を絞る。

ここでは「孟獲は、額を地に打ちつけんばかり頓首して」という原文のニュアンスをそのまま採ったが、頓首は額を地に打ちつけんばかりではなく、実際に額を地に打ちつける作法。なので、この表現は微妙だと感じた。ただ「孟獲は頓首して」としたほうがよかったと思う。

「悪かった。許されい」

さらに、しゃくり泣きしながら乞うた。

「無学野蛮なわしらではありますが、いにしえからまだ、七度(ななたび)擒(とりこ)にして、七度放したという例は聞いたこともありません」

「いかに化外(天子〈てんし〉の政治や教化の行き届かないところ)の人間たりと、どうしてこの大恩に感ぜずにおられましょうか。許してください。お許しください」

この言葉を聞くと、諸葛亮は膝を打ち、自ら孟獲らの縄目を解いて許す。

ここで孟獲七放。

「初めて孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)の心が通った。否、王風万里、余すものがなくなった。予もうれしく思う」

孟獲の眷族(けんぞく)は口をそろえ、丞相の天威、王風の慈しみ、南人再び背かじ、と唱え誓った。

孟獲の心服を見届けると、諸葛亮は手を取って帳上に請じ、妻の祝融や一族にも席を与えて、歓宴をともにする。また、杯と杯とをもってこう約した。

「ご辺(きみ)の罪は孔明が負う。孔明の功はご辺に譲ってやろう。ゆえにご辺は長く以前の通り南蛮国王(なんばんこくおう)として、蛮土の民を愛してやれよ。そして孔明に代わって王化に努めてくれ」

聞くと孟獲は両手で面を覆い、しばし慙愧(ざんき)の涙を乾かさなかった。その一族ら一同の感涙と喜躍は改めて言うまでもない。

遠征万里。帰還の日は来た。顧みれば百難百戦。生命ある身が奇跡な気がする。長史(ちょうし)の費禕(ひい)は、この総引き揚げにあたって密かに諫めた。

「かくはるばる蛮土に入り、せっかく功を立てたまいながら、誰も蜀(しょく)の官人を留めて置かれないのは、草を刈って雨を待つようなものではありませんか?」

だが、諸葛亮は面を振って諭す。

「それには一面の利もあるが、別に三つの不利もある。小吏、王化の徳を誤ること一つ。吏務、王都を遠く離れて怠り、私威をみだりにすること二つ。蛮民互いに廃殺の隠罪あれば、戦後心に疑いを相挟み、私闘を醸す恐れがあること三つ」

「なお王吏をして治を布(し)かしむるより、本来の蛮土蛮民、相親しむにしくはない。しかも貢ぎの礼だに守らせておけば、成都(せいと)は意を労せず、物を費えず、よくこれを国家の外壁となし、富産の地となしておくこともできるではないか」

諸人はこの言葉に服した。

『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第90回)では、三つの不利(難問)の解釈がいくらか異なっていた。

第一の難問は、もしよそ者を留めれば兵士を駐留させねばならず、そうなると食糧を得るところがない。第二の難問は、蛮人は敗北して父や兄を失ったばかりなので、よそ者を留めて兵士を置かなかったならば、必ず禍いが起こるに違いない。第三の難問は、蛮人は役人を追い出したり殺したりする罪を重ねており、自ら罪が重いことを気にしているゆえ、よそ者を留めておいても結局は信じないであろう。

このように三つの難問を挙げたうえ、諸葛亮は「いま私が人を留めず、食糧も運ばなければ、おのずと平穏な状態になるだろう」と結んでいた。

蜀軍、北へ帰ると聞くと、蛮土の洞族も一般の土民も、われ劣らじと、金珠・珍宝・丹漆・薬種(くすり)・香料・耕牛・獣皮などを続々と陣所に贈ってきた。さらに「以後年々、天子へ御貢ぎも欠かしません。背きません」と、みな誓言を入れる。

そしていつか、諸葛亮を呼ぶに、「慈父丞相、大父(たいふ)孔明」と言いたたえ、その戦跡の諸地方には早くも生祠(せいし)を建て、四時の供物と祭りを絶たなかった。

(02)凱旋(がいせん)の途に就く諸葛亮

蜀の建興(けんこう)3(225)年の秋9月、諸葛亮と三軍は、いよいよ帰途に就く。

井波『三国志演義(6)』(第90回)では、諸葛亮の軍勢が瀘水(ろすい)に到着したのが9月(1日)だった。

中軍・左軍・右軍は彼の四輪車を守り固め、前後には紅旗幡銀(ばんぎん。銀色の幟〈のぼり〉)を連ね、貢物の貨車隊、騎馬隊、白象隊、また歩兵数十団など、征下してくるときにも勝る偉観である。

その壮観に加え、南蛮王の孟獲も眷族を挙げて扈従(こじゅう)に加わり、もろもろの洞主や酋長(しゅうちょう)らも鼓隊を連れ、美人陣を作り、瀘水のほとりまで見送りに来た。

(03)瀘水

盤蛇谷での3万人の焚殺(ふんさつ)とともに、この瀘水でも多くの味方を失い、敵兵を殺していた。

その夜、諸葛亮は中流に船を浮かべ、諸天を祭る表を書き、幾万の鬼霊(死者の魂)に祈る。これを戦の魂魄(こんぱく)に捧げて冥福を祈ると唱え、供え物とともに河水へ流した。

古来、この河が荒れて祟(たた)りをなすときは、3人を生きながら沈めて祭る風習があったと聞き、諸葛亮は、麺に肉を混和して人の頭の形を作り、これを供え物とした。

名付けて「饅頭(まんじゅう)」と呼び習わしてきた遺法は、瀘水の犠牲(いけにえ)より始まるもので、その案をなした最初の者は孔明だったという伝説もある。

井波『三国志演義(6)』(第91回)で孟獲が諸葛亮に語ったところでは、49人の頭と黒牛と白羊を犠牲に捧げていたとあった。

波静かに、祭文の声は三軍の情を動かし、心なき蛮土の民をも泣かしめる。彼の三軍はすでにして永昌郡(えいしょうぐん)まで帰ってきた。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、このとき祭文を朗読したのは董厥(とうけつ)。

(04)永昌

「ご辺らも長らく大儀だった。いずれ天子(劉禅〈りゅうぜん〉)より恩賞のお沙汰があろう」

諸葛亮はこう言って、ここで案内役たる呂凱(りょがい)の任を解き、王伉(おうこう)とともに付近4郡の守りを言いつける。

また別れを惜しんで、ここまで従ってきた孟獲にも暇(いとま)を与え、懇ろに教えを繰り返した。

「くれぐれも政(まつりごと)に精励し、居民の農務を励まして家を治め、そちも晩節を麗しゅうせよ」

孟獲は泣く泣く南へ帰っていく。諸葛亮は左右に言った。

「おそらく彼の生きている間、蛮土は再び背くまい」

(05)成都

すでに成都は冬である。南から帰った三軍は、寒風も懐かしく凱旋門に入った。

管理人「かぶらがわ」より

ついに孟獲、七擒七放。実に困難の連続だった諸葛亮の南征でしたが、史実でも1年を経ずに終えています。さすがの手際と言うべきでしょうね。

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