吉川版『三国志』の考察 第181話 「馬騰と一族(ばとうといちぞく)」

211年、許都(きょと)の曹操(そうそう)は荊州(けいしゅう)の劉備(りゅうび)が人材をそろえ、最近はもっぱら軍備の拡張に注力していることを聞く。

そこで荀攸(じゅんゆう)の献策を容れ、西涼(せいりょう)の馬騰に劉備を討伐させようと考える。献帝(けんてい)の詔(みことのり)を拝受した馬騰は軍勢をひきい、甥の馬岱(ばたい)とともに都へ上るが……。

第181話の展開とポイント

(01)荊州(けいしゅう。江陵〈こうりょう〉?)

龐統(ほうとう)はその日から「副軍師中郎将(ふくぐんしちゅうろうしょう)」に任ぜられた。総軍の司令を兼ね、最高参謀府にあって諸葛亮(しょかつりょう)の片腕にもなるべき重職に就いたわけである。

井波版『三国志演義』(第57回)では、龐統は「副軍中郎将」に任ぜられたとある。

(02)許都(きょと)

建安(けんあん)16(211)年の初夏、丞相府(じょうしょうふ)に着いた早馬は、荊州の劉備(りゅうび)が人的な陣容を整え、最近はもっぱら兵員の拡充と軍需の蓄積に全力を注いでいると報告。

曹操(そうそう)が荀攸(じゅんゆう)に対策を尋ねると、劉備は捨てては置けないものの、今すぐ大軍を催すのは、赤壁(せきへき)の痛手が癒えきっていないので考えものだと言う。

さらに、西涼州(せいりょうしゅう)の太守(たいしゅ)の馬騰(ばとう)をお召しになり、彼の擁している匈奴(きょうど)の猛兵や、今日まで無傷に保たれている軍需資源をもって劉備を討たせるよう献策。

曹操は人を選んで西涼へ早馬を立て、すぐ後から二の使いとして有力な人物を差し向け、軍勢の催促を言い遣った。

「匈奴」については先の第120話(04)を参照。

「西涼州の太守」という呼称にはかなり違和感があるが、吉川版『三国志』では「荊州太守」など、ほかにも同様の呼称が使われている。「涼州刺史(りょうしゅうのしし)」や「涼州牧(りょうしゅうのぼく)」とすれば、違和感は少なかったと思われるが……。

また井波版『三国志演義』(第57回)では、荀攸は曹操に、まず孫権(そんけん)を攻め、次いで劉備を攻めるよう献策している。

(03)西涼

涼州の地は支那(しな)大陸の奥曲輪(おくぐるわ)である。黄河(こうが)の上流遠く、蒙疆(もうきょう)に境する「綏遠(すいえん)」や「寧夏(ねいか)」に隣接していた。

新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(『綏遠』と『寧夏』は)いずれも現在の内モンゴル自治区西部に相当(する)」という。

未開の文化は中原(ちゅうげん。黄河流域)のように華やかではないが、多分に蒙古族(もうこぞく)の血液を交え、兵は強猛で弓槍(きゅうそう)馬技に長じており、しかも北方の民の伝統として常に南面南出の本能を持っている。

太守の馬騰はあざなを「寿成(じゅせい)」と言い、身長8尺(せき)余りで面鼻雄異ながら、性格は温良な人物だった。もと漢帝(かんてい)に仕えた伏波将軍(ふくはしょうぐん)の馬援(ばえん)の子孫で、父の馬粛(ばしゅく)の代に官を退き彼が生まれたのである。

新潮文庫の註解(渡邉義浩氏)によると、「(『漢帝』とは)ここでは光武帝(こうぶてい。劉秀〈りゅうしゅう〉)のこと。後漢(ごかん)を建国した漢中興の祖」という。

だから、彼の血の中には蒙古人が混じっている。嫡子を「超(ちょう。馬超)」と言い、次男を「休(きゅう。馬休)」と言い、三男を「鉄(てつ。馬鉄)」と言った。

「詔(みことのり)とあれば、行かなければなるまい」

馬騰は一門の者に別れを告げ都へ上る。3人の子息は国元に残し、甥の馬岱(ばたい)を連れていった。

井波版『三国志演義』(第57回)では、馬休と馬鉄のふたりも馬騰についていったとある。

(04)許都

まず馬騰は曹操に会い、荊州討伐の任を受ける。その翌日には朝廷に上り天子(てんし。献帝〈けんてい〉)を拝した。命は曹操から出ても、名は勅命である。曹操の意思は決して天子の御心(みこころ)ではなかった。

馬騰が拝命のお礼を伏奏すると、献帝は無言のまま彼を伴い「麒麟閣(きりんかく)」に登っていく。そして誰もいない所で初めて口を開き、漢朝の逆臣とは劉備ではなく曹操だと断ずる。

さらに、以前に国舅(こっきゅう。天子の母方の親類や妻の一族である父兄)の董承(とうじょう)らに下した衣帯の密詔のことに触れ、馬騰の上洛を聞き心待ちにしていたとも話す。

董承が献帝から密詔を賜ったことについては、先の第78話(01)を参照。

「必ず宸襟(しんきん)を安め奉りますれば、何とぞ御心を強くお待ちあそばすように」

馬騰は泣いた目を人に怪しまれまいと気遣いながら、宮門を退出した。

(05)許都 馬騰邸

屋敷に帰ると、馬騰は密かに一族を呼んで献帝の内詔を伝え、勤王討曹の旗揚げを密議する。

この第181話(03)では、馬超らは国元に残してきたとあった。ここで呼んだ一族というのは、馬岱ら随行してきた一族という意味なのだろうか?

それから3日目、曹操配下の門下侍郎(もんかじろう)の黄奎(こうけい)が馬騰を訪ね、自分も「行軍参謀(こうぐんさんぼう)」として参加すると伝え、南伐の発向を催促した。馬騰は明後日には発つと答え、酒を出してもてなす。

すると黄奎は大いに酔い、古詩を吟じたり時事を談じたりした揚げ句、「いったい将軍は、真に討つべき者は天下のどこにいると思うておられるか?」などと言い始めた。

馬騰が警戒していると、黄奎はその卑怯(ひきょう)を叱り、曹操こそ不忠の奸雄(かんゆう)だと断ずる。

ここで黄奎は「父の黄琬(こうえん)は、むかし李傕(りかく)と郭シ(かくし。氵+巳)が乱をなしたとき、禁門(宮門)を守護して果てた忠臣です」と言っていた。だが、参考文献に挙げた『三国志演義大事典(さんごくしえんぎだいじてん)』によると「『後漢書(ごかんじょ)・黄琬伝』などには、黄琬に黄奎という子があったことは見えない」という。

黄奎が指をかんで血を注ぎ、天も照覧あれと誓いをすると、ついに馬騰も本心を明かした。

そこでふたりは、関西(かんぜい。函谷関〈かんこくかん〉以西の地域)の兵を動かす檄文(げきぶん)を起草。都下出発の朝、勢ぞろいと称して曹操の閲兵を乞い、急に陣鉦(じんがね)を鳴らすのを合図に刺し殺してしまおうと、すべての手はずまで示し合わせる。

(06)許都 黄奎邸

黄奎は夜遅く屋敷へ帰った。さすがに酒も発せず、すぐ寝房(ねや)に入る。彼に妻はなく、「李春香(りしゅんこう)」という姪が身の回りの面倒を見ていた。

井波版『三国志演義』(第57回)では、黄奎の妻も登場している。また、李春香は「黄奎の姪」ではなく「側室」という設定になっていた。

李春香には嫁ぎたく思っている男があったが、心柄が良くないので叔父の黄奎が承知してくれない。今宵もその男が遊びに来たらしく、彼女はほの暗い廊の陰で立ち話をしている。

男は、今夜に限って黄奎の様子が変だと言いだす。馬騰の屋敷で多年にわたり留守居役をしている弟から、妙な知らせがあったのだとも。

李春香は男に言われるまま、その夜、叔父の心をそれとなく聞いてみた。

すると黄奎は驚いた顔をし、相手が身内の世間へも出ない小娘なので、つい心中の秘を語ってしまう。室外で立ち聞きしていた男は、彼女がそこから出てきたときにはもういなかった。

(07)許都 丞相府

男は深夜の街を風のごとく走り、丞相府の門を叩(たた)いて言う。

「大変です。お膝(ひざ)もとに恐ろしいことを計っている謀反人がおりますっ!」

下役から部長へ、部長から中堂司(ちゅうどうし?)へと次々に取り次がれ、深更(しんこう。深夜)ながら曹操の耳にまで入った。曹操は、男を「聴問閣(ちょうもんかく)」の下へ引いてくるよう命ずる。

原文「聴問閣」だが、ここは「聴聞閣」としたほうがいいかも?

馬騰の飛檄により、関西の兵や近くの軍馬は続々と許都を指して動きつつあった。馬騰は書をもって、発向の準備が整い近日中に勢ぞろいをするので、その節は都門にて親しくご閲兵を願いたいと告げる。

曹操は奥歯に苦笑をかみ締めながら、口の内で罵った。

「誰がそんな罠にかかるか」

そしてただちに二隊の密車を走らせ、一手は黄奎を捕縛し、一手は馬騰の屋敷を襲わせて、即座にふたりを召し捕ってこさせた。

井波版『三国志演義』(第57回)では、馬騰と馬休が重傷を負って生け捕られていたが、これは許都の城外でのことである。なお馬鉄については、この時の城外の戦いで射殺されたということになっていた。

丞相府の白洲(しらす)で顔を見ると、馬騰は口を裂き、牙(きば)をむいて黄奎を罵る。

ここで「白洲」という表現を使ってもいいのかイマイチわからず。前の第180話(02)を参照。

曹操は指を差してその狂態を笑い、武士に命じ一刃の下に首を刎(は)ねた。同じく黄奎も首を打たれた。

(08)許都 馬騰邸

馬騰が拉致(らち)された後、大勢の密軍兵は捕吏とともに屋敷を四面から焼き立てる。内から逃げ転んで悲しみ惑い、阿鼻叫喚(あびきょうかん)を上げあふれ出てくる家臣や老幼、下の召し使いの男女などをことごとく捕らえた。

あるいは首を斬り、あるいは市にさらし、惨状や無残は目を覆わずにはいられない。その中には父を慕って本国から着いた馬騰の子ふたりもいて殺害されたが、甥の馬岱だけはどう逃れたか関外へ逃走していた。

ここで殺害されたふたりの息子は、次男の馬休と三男の馬鉄のことだと思われる。

(09)許都

ここに笑止なのは、密告し褒美にありつこうとした「苗沢(びょうたく)」という男である。

井波版『三国志演義』(第57回)では、苗沢は黄奎の妻の弟という設定になっていた。

事件後、彼が願い出て李春香を妻に賜りたいと乞うと、曹操はあざ笑い、「汝(なんじ)には別に与えるものがある」と言う。

苗沢は城市の辻(つじ)で首を刎ねられ、「不義佞知(ねいち)の小人もまたかくのごとし」と、数日は往来の見せ物にされていた。

井波版『三国志演義』(第57回)では、苗沢とともに李春香も斬刑に処されていた。

管理人「かぶらがわ」より

意外とあっさり殺されてしまった馬騰。吉川版『三国志』や『演義』では彼が「反董卓(とうたく)連合軍」に参加していたり、献帝の「衣帯の密詔」による義盟にも参加していますが、これらのことは史実ではありません。

史実の馬騰は韓遂(かんすい)などと組み、涼州で暴れ回っていたイメージが強いと思います。息子の馬超が最終的に劉備に仕えた関係で、こういう設定になったのでしょうか?

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