父の馬騰(ばとう)が曹操(そうそう)に処刑されたことを知った馬超(ばちょう)は、あまりの衝撃に、その場で昏絶(こんぜつ)してしまう。
だが、ほどなく劉備(りゅうび)の密使から書簡を受け取ると、馬超は父の親友だった韓遂(かんすい)とともに起ち上がり、潼関(どうかん)を突破して長安(ちょうあん)へ攻め寄せる。
第182話の展開とポイント
(01)許都(きょと) 丞相府(じょうしょうふ)
このとき丞相府には、荊州(けいしゅう)の劉備がいよいよ蜀(しょく)に攻め入りそうだとの報が届いていた。
もし劉備が蜀に入ったら、淵(ふち)の龍が雲を得、江岸の魚が蒼海(あおうみ)へ出たようなものである。再び一僻地(いちへきち)へ屈服せしめることはもうできない。魏(ぎ)にとって新たに重大な強国が出現することになろう。
曹操は数日、庁の奥に閉じ籠もり対策を練っていた。
ここで治書侍御史(ちしょじぎょし)・参軍事(さんぐんじ)の陳群(ちんぐん。陳羣)が、劉備が蜀へ進んだら、丞相(曹操)は大軍をもって、反対に呉(ご)をお攻めになるとよいと進言。なぜなら、たちまち呉は劉備に協力を求め、助けを強いるに違いないからだと。
曹操は眉を開き、即時30万の大軍を南へ動かす。合淝城(がっぴじょう。合肥城)の張遼(ちょうりょう)に檄(げき)を飛ばし、先鋒として呉を突くよう告げた。
(02)南徐(なんじょ。京城〈けいじょう〉?)
魏の大軍が至らぬうち呉の国界は大きな衝動に打たれ、急はすぐさま呉王(ごおう)の孫権(そんけん)に報ぜられる。
★これまで孫権を「呉侯(ごこう)」と呼んでいたのも、どの出来事を根拠にしていたのかわからなかったが、ここではさらに「呉王」と呼んでいた。なお『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第58回)では、ここで孫権を「呉王」とは表現していない。
孫権は急きょ諸員を招集し、それに応ずべき策を諮る。評定の結果、こういうときこそ劉備との好誼(よしみ)を活かすべきだということになり、魯粛(ろしゅく)の書簡を持たせた使いを荊州へ急がせた。
(03)荊州(江陵〈こうりょう〉?)
劉備は呉の使者をひとまず客館でもてなしておき、南郡(なんぐん)地方にいた諸葛亮(しょかつりょう)を召し還した。
★ここでいう荊州(城)もはっきりしない。江陵城なのか襄陽城(じょうようじょう)なのか公安城(こうあんじょう)なのか? さらに「南郡地方にいた諸葛亮を召し還した」という記述が混乱に拍車をかけている。江陵や公安は南郡に属する街なので……。
馬を飛ばして帰ってきた諸葛亮は、劉備から呉への返書を任されると、一書をしたためてこう告げる。
「乞う、安んじられよ。呉国の人々は枕を高うして可なり。もし魏軍30万の来るあらば、孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)これに在り。ただちに撃攘(げきじょう)せん」
★ここでは諸葛亮が「馬を飛ばして帰ってきた」とあった。いつも例の四輪車を使うわけではなく、馬も飛ばせるらしい。なお井波『三国志演義(4)』(第58回)では、諸葛亮が南郡から荊州(?)に到着したとだけあり、馬を飛ばして帰ってきたとまでは書いていなかった。
劉備は返書の大言を不安がるが、諸葛亮は自信を見せ、西涼州(せいりょうしゅう)に残っているはずの馬超に密使を遣るよう勧める。
(04)西涼州
ある夜、馬超は不思議な夢を見た。翌日、八旗の将に夢のことを話す。八旗の将とは彼を巡る8人の優れた旗本組のことである。侯選(こうせん)・程銀(ていぎん)・李堪(りたん)・張横(ちょうおう)・梁興(りょうこう)・成宜(せいぎ)・馬玩(ばがん)・楊秋(ようしゅう)の面々だった。
★李堪について手元にある3種類の吉川『三国志』を見比べてみると、講談社版(新装版および別の古いもの)では「李湛(りたん)」となっていたが、この新潮社版では「李堪」となっていた。なお『三国志演義』や正史『三国志』でも「李堪」となっているので、この直しはアリだと思う。
みな武弁ばかりなので、判断を下し得る者もない。その夢は、千丈もある雪の中に行き暮れ倒れていると、多くの猛虎が襲いかかってきて、危うくかみつかれようとしたところで目が覚めたというもの。
すると「いや、それは大悪夢だ」と言いながら、龐徳(ほうとく。龐悳)が入ってきた。昔から、雪中に虎に遭うの夢は不祥の兆(しらせ)としてあると言い、上洛中の馬騰の身を案ずる。
その夜、馬超の従兄弟の馬岱(ばたい)が見る影もない姿となってたどり着く。そして、叔父の馬騰とふたりの息子(馬休〈ばきゅう〉と馬鉄〈ばてつ〉)をはじめ、一族から家中の老幼の端に至るまで、800余人がみな殺されてしまったと伝える。
馬超は父の死を聞くと昏絶。典医(てんい)や大勢の介抱によってすぐに意識は取り戻したが、終夜、寝房(ねや)の内から無念そうな泣き声が漏れてきた。
こういう状況下で劉備の密使が着き、携えてきた書簡を手渡す。この書簡では、馬超にとって曹操は不俱戴天(ふぐたいてん)の敵だと説き、涼州から攻め上るよう促していた。
翌日、馬騰の親友だった鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)の韓遂から、そっと迎えが来る。
★井波『三国志演義(4)』(第58回)では、韓遂は西涼太守(せいりょうたいしゅ)とあった。
馬超が行ってみると、韓遂は人払いした閑室に通し、曹操から届いたという書面を見せてくれた。書面には、もし馬超を生け捕って檻送(かんそう)してよこせば、汝(なんじ)を西涼侯に封じてやろうという意味のことが書かれていた。
韓遂は、父の仇(あだ)を討つ気があるなら協力すると言い、覚悟をただす。馬超は深く礼を述べ、いったん帰って曹操の使者を斬ると、その首を韓遂のところへ届けた。
★井波『三国志演義(4)』(第58回)では、曹操の使者を引き出して斬り殺したのは韓遂。
韓遂は覚悟を見届け、馬超軍に加わった。こうして西涼の精猛数万が潼関へ攻めかかる。
★井波『三国志演義(4)』(第58回)では、馬超と韓遂の西涼軍は20万の大軍。
(05)長安
長安の守将の鍾繇(しょうよう)は驚死せんばかりに仰天し、曹操のもとへ早馬で急を告げる。一方で防ぎにかかったが、西涼軍の先鋒の馬岱に蹴散らされ、早くも長安城へ逃げこもった。
(06)長安の城外
いま長安は廃府となっていたが、むかし漢(かん)の皇祖(高祖〈こうそ〉の劉邦〈りゅうほう〉)が業を定めた王城の地。さすがに要害と地の利を得ている。
ここで龐徳が馬超に言う。この土地が長く栄えないのは、ふたつの欠点があるからだと。ひとつは土質が粗くて硬く、水が塩辛くて飲むに堪えないこと。もうひとつは山野に木が乏しく、常に燃料不足なことなのだと。
そのうえで一計を告げると、馬超は急に包囲を解き、数十里、陣を退いた。
(07)長安
鍾繇は、みだりに城外へ出るなと軍民を戒める。しかし3日経ち、4日経つうちに無事に慣れ、ひとつの城門が開くと、西も東も各所の門で城外との往来が始まった。果ては旅芸人や雑多な商人まで自由に出入りし始めた。
そこへ急に西涼軍が攻めてくる。軍民は夕立に遭ったように城内へ隠れ込む。馬超は西門の下まで馬を寄せ、「ここを開けなければ、城内の士卒や人民、ことごとく焼き殺すぞ」と罵る。
鍾繇の弟の鍾進(しょうしん)が西門を守っていたが、「馬超。口先で城は陥ちるものじゃないよ」と、櫓(やぐら)からあざけった。
すると日没ごろ、城西の山から怪しい火が燃えだす。鍾進が先に立ち消火に努めていると、夕闇の一角から龐徳の大音が聞こえる。すでに数日前から城内に入り込んでいたのだ。敵やら味方やら知れない混乱の中で、鍾進は一刀両断に斬り捨てられた。
早くも龐徳の部下は西門を内から開き、味方を招き入れる。馬超と韓遂の大軍は一度に流れ込み、夜のうちに長安全城を占領してしまった。鍾繇は東門から逃げ出し、次の潼関に拠って急を早馬に託し、大軍の来援を求めた。
(08)許都
曹操は方針を変え、ひとまず征呉南伐の出兵を見合わせる。また、ただちに曹洪(そうこう)と徐晃(じょこう)に兵1万を授けて潼関へ急がせた。
曹仁(そうじん)は、曹洪と徐晃が若すぎることを不安視し、自分も先駆けしたいと願い出る。しかし、予に従い兵糧の運輸をつかさどるようにと、ほかの役目を命ぜられた。
およそ10日後、曹操は十分な軍備を整えて出発した。
(09)潼関
曹洪と徐晃は1万の新手をもって鍾繇に代わり、堅く守り、曹操の来着を待った。
対する西涼の軍勢は力攻めをやめ、毎日、壕(ほり)の彼方(かなた)に立ち現れ、大欠伸(おおあくび)をしたり、手鼻をかんだり、尻を叩いたりしながら、大声で悪たれを言った。
揚げ句の果てには草の上に寝転んだり、頰杖をつき、悪罵に節をつけて歌っていた。
歯がみした曹洪が城門から押し出そうとするのを見て、徐晃が諫める。だが、若い曹洪は振り切って駆け出してしまった。
(10)潼関の関外
関中の大軍は一度にあふれ出て鬱憤(うっぷん)を晴らす。徐晃の手勢も後から続いて出たが、長追いするなと止めてばかりいた。
すると長い堤の陰から、馬岱の一隊が突っ込んでくる。曹洪らが陣容を固め直そうとする間もなく、敵の龐徳が退路を断ったという伝令。
踵(くびす。きびす)を巡らせたときは機すでに遅しで、どう迂回(うかい)して出たのか、馬超と韓遂が関門を攻め立てていた。留守の鍾繇は逃げ出している始末で、曹洪と徐晃も支え得ず、関の守りを捨てて逃げ走った。
馬超・龐徳・韓遂・馬岱、万余の大軍は関中を突破すると潼関の占領には目もくれず、ひたすら壊走する敵を急追していく。
曹洪も徐晃も多くの味方を失い、わずかに身ひとつ逃れ得たありさま。だが、許都を指して落ちる途中で本軍の先鋒に出会い、辛くもその中に助けられた。
曹操は、曹洪と徐晃を連れてくるよう言い、軍法にかけて敗戦の原因を糾問する。
徐晃が自己弁護をすると、曹操は怒って曹洪に剣を加えようとした。
しかし、徐晃も神妙に同罪だと言い、ともに剣を頂きますと身を進めると、諸人もみな曹洪のために命乞いをする。
曹操もわずかに気色を直し、「功を立てたら許してやろう」と、しばらく斬罪を猶予した。
管理人「かぶらがわ」より
馬騰らの死をきっかけに、渭水(いすい)一帯で新たな騒動が勃発。素早く方針を変更し、自ら大軍をひきいて駆けつけた曹操。相変わらず状況判断が冴えてますね。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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