曹操(そうそう)は、潼関(どうかん)の東方で馬超(ばちょう)ら西涼軍(せいりょうぐん)と激突するが、あわや討ち死にという窮地に追い込まれ、ぶざまな逃走劇を演じてしまう。
そこで曹操は一計を案じ、渭水(いすい)の北岸に軍勢を渡すと偽の本営を築き、西涼軍をおびき寄せて撃退する。渭水を挟み、両軍が対峙(たいじ)する状況が続いた。
第183話の展開とポイント
(01)潼関の関外
翌日、曹操の本軍と西涼の大兵とが、潼関の東方で堂々と対戦する。曹操軍は三軍団に分かれ、曹操自身は中央にあった。
曹操が馬を進めると、右翼の夏侯淵(かこうえん)と左翼の曹仁(そうじん)はともに早鉦(はやがね)を打ち鼓を鳴らし、その威風に気勢を加える。
曹操の呼びかけに応じて馬超も駆け出す。龐徳(ほうとく。龐悳)と馬岱(ばたい)が左右に続き、八旗の旗本たちも轡(くつわ)を並べて駆け進んできた。
★八旗の旗本については、前の第182話(04)を参照。
ふたりは陣頭で言葉を交わしたものの、曹操のほうが分が悪い。すると曹操は馬を退き、「あの童(わっぱ)を生け捕れ」と左右の将に任せた。于禁(うきん)と張郃(ちょうこう)が同時に躍りかかる。
馬超は左右の雄敵を鮮やかにかわしながら、一転して馬の腹を高くのぞかせ、後ろへ回った敵の李通(りつう)を槍(やり)で突き落とす。
ここで馬超が悠々と槍を上げて差し招くと、雲霞(うんか)のようにジッとしていた西涼の大軍が、一度に野を掃き押し寄せてくる。その重厚な陣や粘り強い戦闘力は到底、許都(きょと)の軍勢の比ではない。たちまち駆け押されて散乱した。
馬岱や龐徳は乱軍をくぐって敵の中軍へ割り込み、血眼になって曹操の姿を捜し求める。
そのとき西涼の兵が口々に、「紅の戦袍(ひたたれ)を着ているのが、敵の大将の曹操だぞ!」と呼ばわり合っていた。当の曹操は逃げ走りながら、「これは目印になる」と、あわてて戦袍を脱ぎ捨てる。
すると、なお執拗(しつよう)に追いかけてくる西涼兵が、「髯(ひげ)の長いのが曹操だ。曹操の髯には特長がある!」と叫ぶ。曹操は自分の剣で髯を切って捨てた。
★ここは原文「特長」とあったが、敵である曹操の髯について言っているので「特徴」とするほうが適切だろう。
馬岱や龐徳以上に、馬超も曹操を捜して駆け回っていたが、ひとりの部下が「髯の長いのを目当てに捜しても駄目です。曹操は髯を切って逃げました」と教える。
このとき曹操は乱軍に混じり、すぐそばを駆けていたので、その言葉を小耳に挟むと旗を取って面を包み、無二無三に鞭(むち)を打った。
「首を包んだ者が曹操だぞ!」
また四方で声がすると、いよいよ曹操は魂を飛ばし、林間へ駆け込んだ。
ここで槍を伸ばして突いた者がある。槍は運よく樹木の肌を突き、容易に抜けない。曹操はその間髪に辛くも遠くに逃げ延びた。
(02)潼関の関外 曹操の本営
曹操は味方の内に帰ると、「今日の乱軍に絶えず予の後ろを守り、よく馬超の追撃を食い止めていたのは誰だ?」と尋ねる。
夏侯淵が「曹洪(そうこう)です」と答えると、曹操は、先日の罪は今日の功をもって許しおく、と言った。
★曹洪の先日の罪については、前の第182話(10)を参照。
曹操は敗軍をまとめると、河を隔てて岸一帯に逆茂木を結い回し、高札を立て、「みだりに行動する者は斬る」と軍令。
建安(けんあん)16(211)年の秋8月も暮れかけていたが、曹操軍は陣を堅く守ったまま一戦も交えなかった。
あるとき諸将は、西涼軍の得意としない弩(ど)をもって一戦を仕掛けてはどうかと進言。
しかし曹操は聞こうとせず、ただ部署に就き、守りを堅くし、一歩も陣外へ出てはならんと、再度の布令を出した。
数日後、味方の斥候が、潼関の馬超軍に新手の約2万が増強されたと伝えてくる。
聞くと曹操は、なぜか大いに笑った。ひとりが問うと、「まず、酒宴して祝おうか」と答えるのみ。
その夕べ、大いに慶賀して、ともに杯を傾ける。だが、今度は幕将たちがくすくす笑った。
曹操は酔眼を向けて言う。
「卿(けい)らは、予が馬超を討つ計がないのを笑うのであろう」
みな恐れて口をつぐむと、さらに追及して、「人を笑うほどな計策のある者は、ここで大いに蘊蓄(うんちく)を語れ。予も聞くであろう」と言う。
みな顔を見合わせたものの、ひとり徐晃(じょこう)は進んで、忌憚(きたん)なく答えた。
「このまま潼関の敵とにらみ合いをしていたら、1年経っても勝敗は決しますまい。それがしが考えるには、渭水の上流と下流はさしもの敵も手薄でしょうから、一手は西の蒲浦(ほしん。蒲阪浦〈ほはんしん〉)を渡り、また丞相(じょうしょう。曹操)は河の北から大挙して越えられれば、敵は前後を顧みるに暇(いとま)なく、陣を乱して壊滅を早めるに違いないと思いますが……」
曹操は徐晃の説を褒めて4千の兵を与え、朱霊(しゅれい)を助けて先に河の西を渡り、対岸の谷間に潜み、合図を待てと命ずる。予もただちに渭水の北を渡り、呼応の機を計るであろうとも。
★『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注に、「『資治通鑑(しじつがん)』巻66によれば、建安16(211)年8月、徐晃と朱霊が4千の軍勢をひきいて蒲阪浦を渡り、黄河(こうが)の西に陣営を築いた。次いで閏(うるう)8月、曹操は潼関より北進して黄河を渡った」とあった。
(03)潼関?
まもなく馬超のもとへ、曹操のほうでは船筏(ふないかだ)を作って、しきりと渡河の準備をしているとの知らせが届く。
韓遂(かんすい)は手を打ち、敵が自ら絶好な機会を作ってきたと喜ぶ。「兵半バヲ渉(わた)ラバ撃ツベシ」だと。馬超らは八方に間者を放ち、曹操軍が河を渡る地点を監視していた。
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(『兵半バヲ渉ラバ撃ツベシ』は)『呉子(ごし)』料敵篇の言葉。渡河する敵軍は、河の半ばまで来たら攻撃せよとする」という。
(04)渭水
そうとも知らず、曹操は大軍を三分して渭水の流れに沿い、一手を上流の北から渡す。成功を見届けると水際に床几(しょうぎ)を据えながら、刻々と知らせてくる戦況を聞いていた。
★このあたりの描写はわかりにくい。潼関の東方にいたはずの曹操が、大軍を三分した一手を(渭水の)上流の北から渡す、とはどういう状況なのだろうか?
上陸した味方は対岸の要所要所に陣屋を組み、土塁の構築にかかっているという。
すると、第二第三と続いてくる伝令が言った。
「南のほうから、敵ともお味方ともわからぬ一隊が、馬煙を上げてこれへ来ます」
第五の伝令は「ご油断はなりません。ご用意あれっ!」と怒鳴り、「白銀(しろがね)の鎧(よろい)に白の戦袍を着た大将を先頭に、約2千ばかりの敵が、どこを渡ってきたか逆襲してきます。いや、後ろのほうからです」と狼狽(ろうばい)しながら言う。
そのとき大軍は河を渡り尽くし、曹操の周りにはたった100余人しかいなかった。ここへ馬超らが急迫すると、引き返してきた許褚(きょちょ)が曹操の体を背中に負い、ひと跳びに舟へ乗り移った。
許褚は、舟にたかる味方を棹(さお)で払いのけながら逃げ出すが、水勢は急で、見る間に下流へ押し流されていく。西涼の兵は弓をそろえ、雨のごとく乱箭(らんせん。箭〈矢〉が乱れ飛ぶ様子)を送る。
許褚は片手に馬の鞍(くら)を持ち、もう片手に鎧の袖をかざし、曹操の身をかばっていた。曹操ですら九死に一生を得たほどであるから、このほか至るところで、曹操軍の損害はおびただしいものがあった。
それでもこの損害は、まだ半分で済んだと言ってよい。なぜならば、曹操軍の敗滅急なりと見て、渭南県令(いなんけんれい)の丁斐(ていひ)という者が南山(なんざん)の上から牧場の牛馬を解放し、一散に山から追い出したのである。
★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「渭南県は後漢(ごかん)では司隷州(しれいしゅう)京兆尹(けいちょういん)に属した。なお、この地名は実際には十六国(じゅうろっこく)時代の前秦(ぜんしん)の時に置かれたもので、後漢時代の名称は新豊県(しんぽうけん)であった」という。
奔牛悍馬(かんば)は止まるところを知らず、西涼軍の中へ駆け込んで暴れ回った。暴れただけなら戦闘力を失うほどでもなかったが、根が北狄(ほくてき。北方の異民族)の夷兵(いへい。蛮族の兵)であるから、「良い馬だ。もったいない」と奪い合う。
牛を見てはなおさらのこと、「あの肉はうまい」と食欲を振るい起こし、思いがけない利得に夢中になる。そのために西涼軍はせっかくの戦を半ばにして、角笛を吹き退いてしまった。
(05)渭水の北岸 曹操の本営
そのころ、曹操が北岸へ上がってひと息ついているというので、魏(ぎ)の諸将も追い追い集まってきた。
許褚は、満身に矢を負うこと蓑(みの)を着たようだったが、曹操の体に異状がないと聞くと、ようやく陣屋の中に寝かしつけられる。
曹操は部下の見舞いを受けながら、甚だ快活に今日の危難を笑い話に語っていたが、ほどなく渭南県令の丁斐を呼ぶよう言った。
丁斐が、南山の牧場を開き、官の牛馬をみな追い出したことを認めて処罰を乞うと、曹操は右筆に命じて一通の文を書かせ、これを授ける。
恐る恐る丁斐が開いてみると、「今日ヨリ汝(なんじ)ヲ典軍校尉(てんぐんこうい)ニ命ズ」という辞令だった。丁斐は感泣し、恩に感ずるのあまり、自分が考えた計略を進言する。
(06)潼関?
馬超は曹操を取り逃がしたことを残念がったが、韓遂は、曹操を背中に負って舟へ跳び移ったのが許褚であると教え、一騎討ちは避けるよう忠告していた。
斥候の報告によると、曹操軍はそれから後にしきりと河を越え、西涼の背後を突こうとする態勢にあるとのことだった。
韓遂は、戦いが長引き、曹操の陣地が不落の堅城と化しては、容易に渭水を抜くことができないと言う。
馬超も同感だったため、曹操の中軍へ突撃するという韓遂に龐徳を付けた。韓遂と龐徳は、ただちに西涼の壮兵1千余騎を選び、深夜から暁にかけて奇襲した。
(07)渭水の北岸 曹操の偽本営
だがこの奇襲は、まんまと曹操の思うつぼに落ちたものだった。
かねてこのことあるべしと、曹操は丁斐の策を用い、河畔の堤の陰に沿って仮陣屋を築かせ、擬兵(敵を欺くための偽りの兵。疑兵)偽旗を植え並べ、実際の本陣はほかへ移していたのである。
のみならず付近一帯に塹(ほり)を巡らせ、それへ柵をかけ、また上から土をかぶせて落とし穴を作った。そうとも知らず、西涼勢は喚声を上げながら殺到したのだった。
当然、大地は一時に陥没し、人馬の落ちた上へまた人馬が落ち重なった。ようやく龐徳は穴から這(は)い出し、穴口から槍の雨を降らせている敵兵10人余りを一気に突き伏せ、韓遂の姿を捜す。
そのうち敵の曹仁の一家である曹永(そうえい)に出会う。龐徳は一刀の下に斬り伏せ、馬を奪って敵中へ猛走していく。
韓遂も穴に落ちてすでに危なかったが、龐徳が一時、敵を追い散らしてくれたので、その間に土中から躍り出し、馬を拾って辛くも死地を逃れることができた。
何にしても、この奇襲は大惨敗に終わる。敗軍を収めて馬超が損害を調べてみると、1千余騎のうち3分の1を失っていた。数としては少なかったとも言えるが、かの八旗の旗本のうち程銀(ていぎん)と張横(ちょうおう)のふたりが、あえない戦死を遂げていた。
壮気盛んな馬超は、その日のうちに第二次襲撃を企て、今度は自ら先手に進み、馬岱と龐徳を後ろへ備え、再び魏の野陣を夜襲した。
(08)渭水の北岸 曹操の本営
ところが曹操は、「今夜また来るぞ」と、それを予察していた。
西涼の夜襲部隊が6里の道を迂回(うかい)し、不意に吶喊(とっかん)したところ、そこは四方に立ち並ぶ旗や幟(のぼり)ばかりで、幕舎の内には一兵もいなかった。
馬超らがむなしく退き戻ろうとしたとき、一発の轟音(ごうおん)を合図に、四面の伏せ勢が一度に起こる。西涼軍の成宜(せいぎ)は魏の夏侯淵に討たれ、そのほかの将士もおびただしく傷つけられた。
馬超・龐徳・馬岱なども火花を散らし善戦したが、結局は敗退のほかなかった。こうして西涼軍と曹操軍とは渭水を挟んで一勝一敗を繰り返し、勝敗は容易につかなかった。
管理人「かぶらがわ」より
逃げる曹操が戦袍を脱ぎ捨てたとか、髯を切ったというのは創作でしょうが、馬超が渭水で善戦したことは史実にも見えています。丁斐が牛馬を解放し、馬超軍が混乱したことも史実。
この第183話では、曹操軍の移動状況の把握が難しかったです。黄河が潼関の辺りでL字型になっているのがポイント。
『資治通鑑』にあるように、徐晃と朱霊の別動隊が蒲阪浦を渡り、黄河の西に陣営を築いた後、曹操自身は潼関から北上して黄河を渡ったということで、その時点で渭水を渡ったと見てしまうと、まったく話が違ってきますよね。
吉川『三国志』を読み返しても、曹操軍と西涼軍の移動状況がかみ合わないと思える記述が多く、潼関や渭水を巡る一連の戦いは消化不良の感覚が残りました。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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